【LIVE】ティンクティンク 2011東京ライブ ― 2011/02/01
りんけんバンドの照屋林賢氏がプロデュースした沖縄の女性ヴォーカル・デュオ「ティンクティンク(Tink Tink)」も、今年でデビュー10周年を迎える。
彼女たちのファースト・アルバム (2001年)を聴いたとき、それまでの沖縄音楽にはない軽やかさに魅力を感じ、この新しい沖縄ポップを愛聴したことを思い出す。
伝統音楽に寄り添いながら、それに縛られない、吹っ切れたしなやかさ。そういう意味でティンクティンクは、ワタシにとっては津軽三味線の女性デュオ「あんみ通」と対を成す存在だ。
そのティンクティンクの生ライブを初めて観(聴い)た(2月1日・代官山晴れたら空に豆まいて)。
会場を埋めたファンの暖かい声援に迎えられて、沖縄の民族衣裳に身を包んだ二人が登場。ステージは一気に華やかに包まれたかと思うと、沖縄サウンドに彩られた“カラオケ”に乗せて、いきなり歌い始める。
沖縄音楽といえば漠然と、三線(サンシン)、締太鼓、三板(サンバ)らによる“生演奏”というイメージを持っていたワタシは、まずここで面くらう…。
おそらくこれらのバックトラックは、プロディーサーである照屋氏の手によるものだと思うが、全編“カラオケ”によるライブというのは予想していなかっただけに、意外だった。
もちろん彼女たちの明るく軽やかな歌声を聴くうちに、そうした違和感も薄らいではいったのだが、やや平板になりがちなステージ構成に、数曲でもいいからそうした“生音”を加えてもいいのではないかと思ったのが、正直な感想。
You Tube画像では、彼女ら自身による三線と三板による演奏シーンも観ることができるので、今回は東京ライブに合せた“特別仕様”なのだろうか?
活動の拠点とする沖縄「カラハーイ」でのライブDVD(2008年)でも、沖縄民謡が収録されているので、このオリジナル曲だけのカラオケ・ライブというのは、近年のティンクティンクの活動スタイルなのかもしれない。
このあたりワタシには判然としないが、沖縄アーティストにありがちな民謡レパートリーを一切演やらないというのもかえって潔(いさぎよ)いし、彼女たちなりのこだわりなのかもしれない…。
…とここまで書いて、ブログを確認したら昨日(1月30日)の居酒や「こだま」でのライブでは、どうやら“沖縄仕様”も取り入れた様子。
ということは、東京での2日間のライブ仕様に変化をもたせたということなのだろう。
いずれにせよ、あずさ(宮城 梓さん)の軽妙なMCもあって、この東京の洒落たライブハウスを一気にティンクティンク流の今風民謡酒場に変えてしまうのは、沖縄で連日さまざまな酔客(?)を相手にステージをこなす自信と経験あってのことか。
参加者全員参加のジャンケン大会でグッズ争奪戦を行ったり、コール&レスポンスにカチャーシー大会と、客の巻き込みも堂に入ったもの。
ところが、そうやってステージを引っ張るあずさが、この3月をもってティンクティンクを“卒業”するという。今後は残るまや(三浦 真弥さん)と新メンバーで活動することになるそうだ…。
そうした事情をファンも知ってか会場は大いに盛り上がり、アンコールも都合3回。ワタシ的にはティンクティンクの資質がもっともよく顕れていると思う軽快な「いいあんべぇ」が聴けたのも嬉しく、ラストの美しいハーモニーも、あずさの“卒業”を知ったあとだけにじつに胸に沁みるものだった。
ハモりではその艶のある声が隠れてしまいがちだった、まやのヴォーカル・ソロももう少し聴きたかったところ。新生ティンクティンクでは、そうした特長もうまく生かして、活動を続けていってほしい。
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彼女たちのファースト・アルバム (2001年)を聴いたとき、それまでの沖縄音楽にはない軽やかさに魅力を感じ、この新しい沖縄ポップを愛聴したことを思い出す。
伝統音楽に寄り添いながら、それに縛られない、吹っ切れたしなやかさ。そういう意味でティンクティンクは、ワタシにとっては津軽三味線の女性デュオ「あんみ通」と対を成す存在だ。
そのティンクティンクの生ライブを初めて観(聴い)た(2月1日・代官山晴れたら空に豆まいて)。
会場を埋めたファンの暖かい声援に迎えられて、沖縄の民族衣裳に身を包んだ二人が登場。ステージは一気に華やかに包まれたかと思うと、沖縄サウンドに彩られた“カラオケ”に乗せて、いきなり歌い始める。
沖縄音楽といえば漠然と、三線(サンシン)、締太鼓、三板(サンバ)らによる“生演奏”というイメージを持っていたワタシは、まずここで面くらう…。
おそらくこれらのバックトラックは、プロディーサーである照屋氏の手によるものだと思うが、全編“カラオケ”によるライブというのは予想していなかっただけに、意外だった。
もちろん彼女たちの明るく軽やかな歌声を聴くうちに、そうした違和感も薄らいではいったのだが、やや平板になりがちなステージ構成に、数曲でもいいからそうした“生音”を加えてもいいのではないかと思ったのが、正直な感想。
You Tube画像では、彼女ら自身による三線と三板による演奏シーンも観ることができるので、今回は東京ライブに合せた“特別仕様”なのだろうか?
活動の拠点とする沖縄「カラハーイ」でのライブDVD(2008年)でも、沖縄民謡が収録されているので、このオリジナル曲だけのカラオケ・ライブというのは、近年のティンクティンクの活動スタイルなのかもしれない。
このあたりワタシには判然としないが、沖縄アーティストにありがちな民謡レパートリーを一切演やらないというのもかえって潔(いさぎよ)いし、彼女たちなりのこだわりなのかもしれない…。
…とここまで書いて、ブログを確認したら昨日(1月30日)の居酒や「こだま」でのライブでは、どうやら“沖縄仕様”も取り入れた様子。
ということは、東京での2日間のライブ仕様に変化をもたせたということなのだろう。
いずれにせよ、あずさ(宮城 梓さん)の軽妙なMCもあって、この東京の洒落たライブハウスを一気にティンクティンク流の今風民謡酒場に変えてしまうのは、沖縄で連日さまざまな酔客(?)を相手にステージをこなす自信と経験あってのことか。
参加者全員参加のジャンケン大会でグッズ争奪戦を行ったり、コール&レスポンスにカチャーシー大会と、客の巻き込みも堂に入ったもの。
ところが、そうやってステージを引っ張るあずさが、この3月をもってティンクティンクを“卒業”するという。今後は残るまや(三浦 真弥さん)と新メンバーで活動することになるそうだ…。
そうした事情をファンも知ってか会場は大いに盛り上がり、アンコールも都合3回。ワタシ的にはティンクティンクの資質がもっともよく顕れていると思う軽快な「いいあんべぇ」が聴けたのも嬉しく、ラストの美しいハーモニーも、あずさの“卒業”を知ったあとだけにじつに胸に沁みるものだった。
ハモりではその艶のある声が隠れてしまいがちだった、まやのヴォーカル・ソロももう少し聴きたかったところ。新生ティンクティンクでは、そうした特長もうまく生かして、活動を続けていってほしい。
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【映画】消されたヘッドライン ― 2011/02/03
『消されたヘッドライン』(2009年・監督: ケヴィン・マクドナルド)
2009年に刊行されたキネ旬ムック『オールタイム・ベスト映画遺産200 外国映画篇』 のコラム「ある視点・ジャンルで観る映画」で、川村晃司氏(テレビ朝日コメンテーター)が「政治映画ベスト10」の一つとして選出していた本作。
ところがどうしたことか。本誌である「キネマ旬報」の2009年外国映画ベストテンでは、『フロスト×ニクソン』『戦場でワルツを』『チェ 28歳の革命/39歳別れの手紙』『カティンの森』といった“政治映画”に気おされてしまったのか、1票も得票できずに圏外となっている。
たしかに、ジャーナリズム×政治の巨悪という古典的なテーマで新味はないかもしれないが、芸達者なラッセル・クロウ主演の見どころあるサスペンス映画として、もう少し評価されていてもいい作品だと思うのだが…。
ドラッグ中毒の黒人少年の射殺事件に端を発した“事件”は、やがて国会議員コリンズ(ベン・アフレック)のもとで働く女性職員ソニアの地下鉄での転落死にリンクしはじめ、らつ腕新聞記者のクロウらが次第に巨大な政治と軍事産業の“闇”に迫っていく…というストーリー。
うらぶれたベテラン記者キャロ(クロウ)が、独特の感(かん)と経験、強引ともいえる取材度胸を武器に、コンビを組む若き女性記者デラ(レイチェル・マクアダムス)とともに、真相に迫っていくじつに正当的なサスペンス。
ここには、派手なアクションも、銃撃戦も、CG映像もない。だが、近頃珍しいストーリー(脚本)重視の展開で、画面は緊迫感に満ち、終始観る者を惹きつけてやまない。
そこに、絶妙なアクセントを加えるのが、名優ヘレン・ミレン演じるところの女性編集長。ときにキャロに悪態をつき、「履いているパンティの色まで調べてきなさい!」とハッパをかけるかと思えば、上層部の顔色を伺う弱腰をみせるなど、変幻自在の演技。本当にいい役者だと思う。
親友コリンズとの友情と裏切り、コリンズの妻とのはかない恋、ネット版記者であるデラとの確執と邂逅、政府の圧力と“暗殺”におびえながら炸裂する記者魂…と、いくつもの伏線が張られた事件は意外な方向へと展開していく…。
しかし、そうしたサスペンス・ドラマの“秀作”として幕を閉じるはずだった本作が、最後に馬脚(?)を表すのがラストのどんでん返し。ネタバレになるので詳しくは記せないが、せっかくの“大陰謀ドラマ”があまりに個人的なオチで、これでは拍子抜け。
この画竜点睛を欠くラストが、低評価につながったのだろうか…。
しかしながら、そうした欠点をもってしても、見過ごすのにはもったいない作品だと思う。ぜひ、再評価を。
◆『消されたヘッドライン』の参考レビュー(*タイトル文責は森口)
「“二転三転”が本作の急所。終盤、ひねりすぎるのが惜しい」--映画ジャッジ!(渡まち子氏)
「米国の産業構造の腐敗を暴くとともに、人間の複雑さを描く」--映画ジャッジ!(福本次郎氏)
「社会派ネタが好きな方にオススメの秀作エンターテインメント」--映画ジャッジ!(山口拓朗氏)
「一人の『悪人』の『犯罪』に矮小化」--粉川哲夫の「シネマノート」
「仕事=正義感の間で揺れ動く葛藤を描いた人間ドラマ」--LOVE Cinemas 調布
「予想していたのと微妙に違い、新鮮」--Wilderlandwandar
「消化不良で終わっていて頓珍漢な印象」--佐藤秀の徒然幻視録
「キャラクターの掘り下げが少なく、物足りない」--Life on Mars
「カルとコリンズの友情と対決が見事な作品」--たいむのひとりごと
「ある意味、工夫された脚本。だからラストは『これでいい』」--Cafe Opal
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2009年に刊行されたキネ旬ムック『オールタイム・ベスト映画遺産200 外国映画篇』 のコラム「ある視点・ジャンルで観る映画」で、川村晃司氏(テレビ朝日コメンテーター)が「政治映画ベスト10」の一つとして選出していた本作。
ところがどうしたことか。本誌である「キネマ旬報」の2009年外国映画ベストテンでは、『フロスト×ニクソン』『戦場でワルツを』『チェ 28歳の革命/39歳別れの手紙』『カティンの森』といった“政治映画”に気おされてしまったのか、1票も得票できずに圏外となっている。
たしかに、ジャーナリズム×政治の巨悪という古典的なテーマで新味はないかもしれないが、芸達者なラッセル・クロウ主演の見どころあるサスペンス映画として、もう少し評価されていてもいい作品だと思うのだが…。
ドラッグ中毒の黒人少年の射殺事件に端を発した“事件”は、やがて国会議員コリンズ(ベン・アフレック)のもとで働く女性職員ソニアの地下鉄での転落死にリンクしはじめ、らつ腕新聞記者のクロウらが次第に巨大な政治と軍事産業の“闇”に迫っていく…というストーリー。
うらぶれたベテラン記者キャロ(クロウ)が、独特の感(かん)と経験、強引ともいえる取材度胸を武器に、コンビを組む若き女性記者デラ(レイチェル・マクアダムス)とともに、真相に迫っていくじつに正当的なサスペンス。
ここには、派手なアクションも、銃撃戦も、CG映像もない。だが、近頃珍しいストーリー(脚本)重視の展開で、画面は緊迫感に満ち、終始観る者を惹きつけてやまない。
そこに、絶妙なアクセントを加えるのが、名優ヘレン・ミレン演じるところの女性編集長。ときにキャロに悪態をつき、「履いているパンティの色まで調べてきなさい!」とハッパをかけるかと思えば、上層部の顔色を伺う弱腰をみせるなど、変幻自在の演技。本当にいい役者だと思う。
親友コリンズとの友情と裏切り、コリンズの妻とのはかない恋、ネット版記者であるデラとの確執と邂逅、政府の圧力と“暗殺”におびえながら炸裂する記者魂…と、いくつもの伏線が張られた事件は意外な方向へと展開していく…。
しかし、そうしたサスペンス・ドラマの“秀作”として幕を閉じるはずだった本作が、最後に馬脚(?)を表すのがラストのどんでん返し。ネタバレになるので詳しくは記せないが、せっかくの“大陰謀ドラマ”があまりに個人的なオチで、これでは拍子抜け。
この画竜点睛を欠くラストが、低評価につながったのだろうか…。
しかしながら、そうした欠点をもってしても、見過ごすのにはもったいない作品だと思う。ぜひ、再評価を。
◆『消されたヘッドライン』の参考レビュー(*タイトル文責は森口)
「“二転三転”が本作の急所。終盤、ひねりすぎるのが惜しい」--映画ジャッジ!(渡まち子氏)
「米国の産業構造の腐敗を暴くとともに、人間の複雑さを描く」--映画ジャッジ!(福本次郎氏)
「社会派ネタが好きな方にオススメの秀作エンターテインメント」--映画ジャッジ!(山口拓朗氏)
「一人の『悪人』の『犯罪』に矮小化」--粉川哲夫の「シネマノート」
「仕事=正義感の間で揺れ動く葛藤を描いた人間ドラマ」--LOVE Cinemas 調布
「予想していたのと微妙に違い、新鮮」--Wilderlandwandar
「消化不良で終わっていて頓珍漢な印象」--佐藤秀の徒然幻視録
「キャラクターの掘り下げが少なく、物足りない」--Life on Mars
「カルとコリンズの友情と対決が見事な作品」--たいむのひとりごと
「ある意味、工夫された脚本。だからラストは『これでいい』」--Cafe Opal
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【本】わたしを離さないで ― 2011/02/04
わたしを離さないで カズオ イシグロ 早川書房 2006-04-22 売り上げランキング : 4951 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
そして、さらにワタシを驚かせたのが、その原作が日本生れの「日系人」の手によるものだったことだ。そしてその作家、カズオ・イシグロ(石黒一雄)氏は、世界的な名声を得たこの『日の名残り』による英ブッカー賞受賞以降も、勢力的に作家活動を行っている。
しかしながら、ワタシはそのイシグロ氏の作品に今まで接することなく、本作によって初めてその作品世界を知った。
「介護人」キャシーの回想によって物語は始まる。キャシーが育ったヘールシャルムという施設を舞台に、そこで暮らす子どもたちの日々が描かれるのだが…そこは外界から閉鎖された宿舎で、保護官による教育が粛々と行われている。
この謎めいたヘールシャルムという施設からまずワタシが想起したのは、先頃の“タイガーマスク運動”でクローズアップされた児童養護施設で、おそらく何らかの事情で親のない子たちが集められたイギリスならではの施設なのだろうと、当初はそう思いながら読み進めていった…。
それくらい、このヘールシャルムでの描写はどこか牧歌的で、ワタシなどは子どもの頃に読んだイギリスの寄宿舎を舞台にした小説をシアワセな気分で思い返していたのだ。
ところがこの物語は、100ページに迫ったあたりでその様相を一変し、読者をゴシック・ホラーの世界へと引きずり込む。そこからこの物語の景色はまるで違ったものに映りはじめ、『マトリックス』を彷彿させるSFめいたものから、さらにはグロテスクな物語としてワタシたちの前に立ち現れてくる…。
そこで綴られる日々の出来事は、『若草物語』のようにささいな驚きや笑い、悩ましさといった、思春期の子どもなら誰でも体験するようなものなのに、彼(彼女)らの逃れられない“未来”を知ってしまったワタシたちは、その意味を考えながら読み進めなけれぱならない。
もちろん彼(彼女)らの「正体」は一気に明かされるわけではない。
せつない“親探し”を経て、“提供”のことが語られ、やがて“提供者”と“介護人”となったキャシーたちは再会する。
愛するカップルならば“提供”が延長される--ヘールシャルムで長年にわたって信じられてきた“噂”に賭けて“提供者”となったトミーと共に、キャシーは“マダム”を訪ねていくのだが…。
最後の数ページになって、ようやくヘールシャルムの全貌が明らかにれるわけだが、この異様な物語を読まされた後も、ワタシはなぜか子どもの頃に読みふけった世界名作文学全集の、あの懐かしい至福に包まれた物語世界の手触りが感じられたままだった。
まるで、キャシーやトミーらと、あのヘールシャルムでの体験を共有し 、特異な人生を共に旅してきたような…徒労とともに達成感に満ちた不思議な読了感。
英米文学研究者の柴田元幸氏が「解説」で、本書を「現時点でのイシグロの最高傑作」としているのも、そうした「作家が想像力のなかにとことん沈潜したその徹底ぶり」とともに、ワタシが感じた「普遍性」を併せたもった作品だからなのだと思う。
◆『わたしを離さないで』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「『複製』の概念が『命』の本質を押しつぶそうとする戦慄の小説」--asahi.com(小池昌代氏)
「人間の強烈なエゴイズムと諦念」--パリ国際学校・石村清則の書評ブログ
「構造的に叙述トリックの様相を呈した作品」--HOME SWEET HOME
「思わせぶり、ほのめかしの、サスペンス小説」--心に青雲
「『わたしを離さないで』は重い思い出になる」
--わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
「生きようと思う、希望は空想できるから…」--基本読書
「現代の若者の『生きる力』のなさとかぶる不思議な小説」--司書教諭・茉莉の気紛れ書き
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【LIVE】大友良英 井の頭公園 船上ライブ ― 2011/02/05
東京・杉並及び武蔵野地域を舞台に展開する、地域密着型アートプロジェクト「TERATOTERA / テラトテラ」の〆のイベントとして行われた「大友良英 井の頭公園 船上ライブ」に参戦(2月5日)。
TERATOTERA(テラトテラ)は、東京都と東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人東京都歴史文化財団)、さらに吉祥寺に拠点に活動する社団法人TERATOTERAが協働して、2009年度からJR中央線高円寺駅~吉祥寺駅区間をメインとした東京・杉並及び武蔵野地域を舞台に展開する、地域密着型アートプロジェクトだという。
そのTERATOTERAが、この1年の活動を締めくくるイベントとして開催したのが今回の「TERATOTERA祭り」で、吉祥寺にスタジオを構えるという大友良英氏による船上即興ライブが実現したわけだ。
開演時間間際に会場(井の頭公園)に駆け込むと、すでにステージとなる井の頭池沿いにはびっしりと人の波。まずその“観客”の多さに驚く。これは数百という単位ではない…。
もちろん“即興演奏”が始まると、物見遊山で集まって来たおじさん、おばさんたちはそそくさとその場を立ち去っていくのだが、それにしてもいっこうに人だかりは減ることなく、ええっ、“ノイズのOちゃん”っていつからこんな人気者になったの!? と驚くばかり。
いくらNHKドラマ『白州次郎』 (音楽担当)でいくらか名が知れたからといって、大友氏で(失礼)これだけ動員できたなら大成功だろう。
さて、そういう訳で当初はあまりいいポジショニングが取れずに、音は響けど一体どこで、誰が、何を奏でているのか皆目見当つかず、ワタシがかつて体験したボブ・ディランの東京公演状態。
手漕ぎボート5台を井の頭池に浮かべ、中心の1台に大友が乗り込み、残り4台にスピーカーとアンプを積んで即興ライブが行われるとのことだったが、場所を移してようやく、帳(とばり)の降りた水面に、小舟に乗って一心不乱に“演奏”するOちゃんの姿を確認することができた。
30分ほどのショートパフォーマンスはまず、雅楽の篳篥(ひちりき)を思わせるようなドローン系のノイズから始まった。やがて、そこにゴング(パーカション)が重なり、舞踏の劇伴のような不気味なサウンドが鳴り響く。
灯に照らされた小舟のステージは幻想的なムードを醸しだし、その音色を一層際立たせる。まさにアート系イベントにふさわしい音のインスタレーションだ。
途中の、エンジン音のようなバリバリ!という炸裂音は、機関銃を模したものなのか? (さすがにそれは、妄想だろうか…)。
終盤は大友氏がリリカルなギターを爪弾き、凛とした音を早春の水面響かせて、静かにパフォーマンスは終わった。
冒頭に記したように、「なんだ前衛音楽か? 曲はないのか?」「ギターのチューニングを聴かせるのか?」などと、ぶつくさクサす勘違いオヤジらは居たものの、多くの観客が足を止め、息をひめるかのようにその緻密な音の構築に耳をそばだてていた。
ライブ時間が短いのが残念だったが、何しろ初めて(?)の試みで技術的な限界もあるのだろう。天候にも恵まれ、蜻蛉のような“音遊び”のひと時だった。
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TERATOTERA(テラトテラ)は、東京都と東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人東京都歴史文化財団)、さらに吉祥寺に拠点に活動する社団法人TERATOTERAが協働して、2009年度からJR中央線高円寺駅~吉祥寺駅区間をメインとした東京・杉並及び武蔵野地域を舞台に展開する、地域密着型アートプロジェクトだという。
そのTERATOTERAが、この1年の活動を締めくくるイベントとして開催したのが今回の「TERATOTERA祭り」で、吉祥寺にスタジオを構えるという大友良英氏による船上即興ライブが実現したわけだ。
開演時間間際に会場(井の頭公園)に駆け込むと、すでにステージとなる井の頭池沿いにはびっしりと人の波。まずその“観客”の多さに驚く。これは数百という単位ではない…。
もちろん“即興演奏”が始まると、物見遊山で集まって来たおじさん、おばさんたちはそそくさとその場を立ち去っていくのだが、それにしてもいっこうに人だかりは減ることなく、ええっ、“ノイズのOちゃん”っていつからこんな人気者になったの!? と驚くばかり。
いくらNHKドラマ『白州次郎』 (音楽担当)でいくらか名が知れたからといって、大友氏で(失礼)これだけ動員できたなら大成功だろう。
さて、そういう訳で当初はあまりいいポジショニングが取れずに、音は響けど一体どこで、誰が、何を奏でているのか皆目見当つかず、ワタシがかつて体験したボブ・ディランの東京公演状態。
手漕ぎボート5台を井の頭池に浮かべ、中心の1台に大友が乗り込み、残り4台にスピーカーとアンプを積んで即興ライブが行われるとのことだったが、場所を移してようやく、帳(とばり)の降りた水面に、小舟に乗って一心不乱に“演奏”するOちゃんの姿を確認することができた。
30分ほどのショートパフォーマンスはまず、雅楽の篳篥(ひちりき)を思わせるようなドローン系のノイズから始まった。やがて、そこにゴング(パーカション)が重なり、舞踏の劇伴のような不気味なサウンドが鳴り響く。
灯に照らされた小舟のステージは幻想的なムードを醸しだし、その音色を一層際立たせる。まさにアート系イベントにふさわしい音のインスタレーションだ。
途中の、エンジン音のようなバリバリ!という炸裂音は、機関銃を模したものなのか? (さすがにそれは、妄想だろうか…)。
終盤は大友氏がリリカルなギターを爪弾き、凛とした音を早春の水面響かせて、静かにパフォーマンスは終わった。
冒頭に記したように、「なんだ前衛音楽か? 曲はないのか?」「ギターのチューニングを聴かせるのか?」などと、ぶつくさクサす勘違いオヤジらは居たものの、多くの観客が足を止め、息をひめるかのようにその緻密な音の構築に耳をそばだてていた。
ライブ時間が短いのが残念だったが、何しろ初めて(?)の試みで技術的な限界もあるのだろう。天候にも恵まれ、蜻蛉のような“音遊び”のひと時だった。
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【演劇】ひょっとこ乱舞『ロクな死にかた』 ― 2011/02/06
広田淳一氏が主宰する劇団「ひょっとこ乱舞」の新作『ロクな死にかた』を観劇(2月6日・東京芸術劇場小ホール)。
今年で結成10周年を迎える同劇団の公演数は、本公演で24回を数えるというからちょうど年2回のペースで公演を行ってきたことになる。全作品の脚本・演出を担当してきた広田氏に、それだけ表現したい欲求があるのだろう。本作も、そうした氏の“思い”がたくさん詰まった作品となっている。
テーマは「死」と、その表裏を成す「生」だ。
冒頭から魅力的な滑りだしで、この物語は始まる。
元恋人の死を受け入れられずに引きこもり、精神的に不安定になった妹を思んばかって、姉は会社の同僚を連れてくる。
妹は元恋人が「生きている」と主張する。その根拠は、彼しか知り得ないようなエピソードが綴られたブログで、それは今も更新されているというのだ…。
そこから、“死んだ”はずの彼の生前が語られ、現・恋人や彼の友人たちとの会話ややりとりが描かれるなかで、意外とあっさりブログの“秘密”が明かされる。
そして、死後もネット上に漂うブログやツィッターを巡って、生と死の曖昧な境がテーマとして立ち上がってくるのだ…。
以下は学術的な裏付けがあっての話ではないが、アフリカやラテンアメリカの伝統的死生観では、「死」は肉体の死を意味するのものではなく、その人を知る人たちのその人にまつわる記憶がなくなったときに初めて「死」として認知される、と聞いたことがある。
やし酒飲みが“死者の国”を旅するキテレツな冒険譚であるエイモス・チュツオーラの小説『やし酒飲み』 などは、そうした死生観から生み出された作品だという。
そうした死生観がある以上、ネット社会的ならではの、新しい死生観が出現してもたしかに不自然ではないだろう。
それだけに、舞台で語られる「死んだ奴から『臨終なう。』『納骨なう。』なんてメールが届いたら、怖くね?」という会話も、不気味さをもってリアルに響く。
舞台上にはジェットコースターの曲線を思わせる柱組と、鉄板のようなテーブル(?)しかなく、簡素な舞台を効果的に生かした演出が施される。細く曲がったテーブル上に窮屈そうに寝そべり、平均台よろしく歩く様は、ワタシたち自信が曖昧な生と死の境界線を危なかしく生きる姿を写し出しているかのようだ。
1時間40分という上演時間はけっして長いものではないが、恋人同士の回想場面や“狂言回し”の「たっくん」の存在など、やや冗長だったり不要に感じられるシーンもあり、もう少し刈り込んでもいいような気がした。
また、電子音に乗せて踊るダンス/群舞など、スタイリッシュな演出が光る一方で、セリフ/発声がいかにも70~80年代小劇場的なセンスにとどまっているのはあえて“狙い”なのだろうか?
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今年で結成10周年を迎える同劇団の公演数は、本公演で24回を数えるというからちょうど年2回のペースで公演を行ってきたことになる。全作品の脚本・演出を担当してきた広田氏に、それだけ表現したい欲求があるのだろう。本作も、そうした氏の“思い”がたくさん詰まった作品となっている。
テーマは「死」と、その表裏を成す「生」だ。
冒頭から魅力的な滑りだしで、この物語は始まる。
元恋人の死を受け入れられずに引きこもり、精神的に不安定になった妹を思んばかって、姉は会社の同僚を連れてくる。
妹は元恋人が「生きている」と主張する。その根拠は、彼しか知り得ないようなエピソードが綴られたブログで、それは今も更新されているというのだ…。
そこから、“死んだ”はずの彼の生前が語られ、現・恋人や彼の友人たちとの会話ややりとりが描かれるなかで、意外とあっさりブログの“秘密”が明かされる。
そして、死後もネット上に漂うブログやツィッターを巡って、生と死の曖昧な境がテーマとして立ち上がってくるのだ…。
以下は学術的な裏付けがあっての話ではないが、アフリカやラテンアメリカの伝統的死生観では、「死」は肉体の死を意味するのものではなく、その人を知る人たちのその人にまつわる記憶がなくなったときに初めて「死」として認知される、と聞いたことがある。
やし酒飲みが“死者の国”を旅するキテレツな冒険譚であるエイモス・チュツオーラの小説『やし酒飲み』 などは、そうした死生観から生み出された作品だという。
そうした死生観がある以上、ネット社会的ならではの、新しい死生観が出現してもたしかに不自然ではないだろう。
それだけに、舞台で語られる「死んだ奴から『臨終なう。』『納骨なう。』なんてメールが届いたら、怖くね?」という会話も、不気味さをもってリアルに響く。
舞台上にはジェットコースターの曲線を思わせる柱組と、鉄板のようなテーブル(?)しかなく、簡素な舞台を効果的に生かした演出が施される。細く曲がったテーブル上に窮屈そうに寝そべり、平均台よろしく歩く様は、ワタシたち自信が曖昧な生と死の境界線を危なかしく生きる姿を写し出しているかのようだ。
1時間40分という上演時間はけっして長いものではないが、恋人同士の回想場面や“狂言回し”の「たっくん」の存在など、やや冗長だったり不要に感じられるシーンもあり、もう少し刈り込んでもいいような気がした。
また、電子音に乗せて踊るダンス/群舞など、スタイリッシュな演出が光る一方で、セリフ/発声がいかにも70~80年代小劇場的なセンスにとどまっているのはあえて“狙い”なのだろうか?
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【TV】白球~選手たちは海を渡った~ ― 2011/02/07
NHKハイビジョン特集として昨夜(2月6日)放送されたドキュメンタリー「白球 選手たちは海を渡った」を観る。
「海を渡った」日本のプロ野球選手を追った秀作ノンフィクション『海峡を越えたホームラン』 (関川夏央著)によって、ワタシたちは野球による日韓の“異文化”交流を知り、『甲子園の異邦人』 (金賛汀著)によって、在日朝鮮人高校野球選手の実像に触れることが出来たわけだが、このドキュメンタリーはそうした100年に渡る日韓の野球交流史を“人物”にスポットを当てながら俯瞰する。
まず最初の“人物”として紹介されるのが、韓国の弱小野球チームを常勝軍団へと変貌させた金星根(キム・ソングム)監督だ。金氏は日本で野球選手になることを夢見た在日二世だったが、当時は在日韓国人を受け入れる環境がなく、海を渡った。その頃はまだ日韓に国交はなく、“片道切符”と覚悟を決めての渡韓だった。
選手と活躍した後、やがて韓国プロ野球界で“野神”と崇められる存在となった金監督。淡々と“日本語”でインタビューに答えかと思えば、突然にギラリと眼を光らせて吸いつくように選手に指導し、鬼のようなノックを浴びせる。 そしてその金監督を、日本人の関川 浩一打撃コーチや小早川穀彦臨時コーチが、手足をとなって支える…。
寡聞にしてワタシはこの“野神”監督を本作で初めて知ったのだが、さらに瞠目させられたのは、戦後の韓国野球の基礎を築いたとされる金永祚(キム・ヨンジョ)だ。
アメリカから韓国に野球が伝わったのは、およそ100年前。戦前に早慶戦の熱狂に触れ“野球の早稲田”に憧れたキム・ヨンジョの軌跡が、さまざまな資料や証言とともに描かれる。
さらに驚かされたのが、1963年にソウルで行われたアジア野球選手権で、韓国が3-0で日本チームに快勝し、優勝しているという歴史的事実だ。日韓を沸かせたWBC決勝戦を遡ること40年も前に、すでにこの両雄の対決は球場を埋めた3万人のソウル市民を沸かせていたのだ。
日本人、在日韓国人、韓国人留学生が共にプレーする京都国際高校野球部は、まさに“多文化共生”を象徴し、韓国プロ野球創設に奔走したでした張本勲(チャン・フン)氏や、「裏切り者」と言われながら日本に渡ってきた白仁天(ペク・インチョン)氏のインタビューなども“歴史の重み”を感じさせる。
白氏と立場を逆にして“海を渡った”新浦壽夫氏(現・野球解説者)が、千葉ロッテマリーンズの金泰均(キム・テギュン)選手を激励するシーンは、異国での苦労を共有する者同士の、言葉に尽くせない連帯エールとして胸を打つ。
番組は、金監督が2010年の韓国リーグ優勝を決め、日本シリーズの勝者であり韓国人創業者を企業母体に持つ千葉ロッテとの対決するシーンで終わる。
だが、ワタシたちがその興奮を享受できるのも、そこに至るまでに日韓の野球史に刻まれたたゆまぬ歴史の積み重ねがあったからこそ、に気づかされるのだ。
ここでの“海”は、まさに交流の海であった。ドキュメンタリーとしてのじつにオーソドックスなつくりだが、野球を通じて、日韓の歴史絵巻を紐解く一つの試み。
ワタシたちはそのことに思いをはせながら、改めてアジア史の検証をする必要があるのではあるまいか。
なお、再放送(NHKハイビジョン)が2月13日(日)16:00~17:50に予定されている。
◆『白球~選手たちは海を渡った~』の参考レビュー(*タイトル文責は森口)
「野球を通じて韓国の戦後史、日韓史を振り返った労作」--YOMIURI ONLINE(片山一弘氏)
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「海を渡った」日本のプロ野球選手を追った秀作ノンフィクション『海峡を越えたホームラン』 (関川夏央著)によって、ワタシたちは野球による日韓の“異文化”交流を知り、『甲子園の異邦人』 (金賛汀著)によって、在日朝鮮人高校野球選手の実像に触れることが出来たわけだが、このドキュメンタリーはそうした100年に渡る日韓の野球交流史を“人物”にスポットを当てながら俯瞰する。
まず最初の“人物”として紹介されるのが、韓国の弱小野球チームを常勝軍団へと変貌させた金星根(キム・ソングム)監督だ。金氏は日本で野球選手になることを夢見た在日二世だったが、当時は在日韓国人を受け入れる環境がなく、海を渡った。その頃はまだ日韓に国交はなく、“片道切符”と覚悟を決めての渡韓だった。
選手と活躍した後、やがて韓国プロ野球界で“野神”と崇められる存在となった金監督。淡々と“日本語”でインタビューに答えかと思えば、突然にギラリと眼を光らせて吸いつくように選手に指導し、鬼のようなノックを浴びせる。 そしてその金監督を、日本人の関川 浩一打撃コーチや小早川穀彦臨時コーチが、手足をとなって支える…。
寡聞にしてワタシはこの“野神”監督を本作で初めて知ったのだが、さらに瞠目させられたのは、戦後の韓国野球の基礎を築いたとされる金永祚(キム・ヨンジョ)だ。
アメリカから韓国に野球が伝わったのは、およそ100年前。戦前に早慶戦の熱狂に触れ“野球の早稲田”に憧れたキム・ヨンジョの軌跡が、さまざまな資料や証言とともに描かれる。
さらに驚かされたのが、1963年にソウルで行われたアジア野球選手権で、韓国が3-0で日本チームに快勝し、優勝しているという歴史的事実だ。日韓を沸かせたWBC決勝戦を遡ること40年も前に、すでにこの両雄の対決は球場を埋めた3万人のソウル市民を沸かせていたのだ。
日本人、在日韓国人、韓国人留学生が共にプレーする京都国際高校野球部は、まさに“多文化共生”を象徴し、韓国プロ野球創設に奔走したでした張本勲(チャン・フン)氏や、「裏切り者」と言われながら日本に渡ってきた白仁天(ペク・インチョン)氏のインタビューなども“歴史の重み”を感じさせる。
白氏と立場を逆にして“海を渡った”新浦壽夫氏(現・野球解説者)が、千葉ロッテマリーンズの金泰均(キム・テギュン)選手を激励するシーンは、異国での苦労を共有する者同士の、言葉に尽くせない連帯エールとして胸を打つ。
番組は、金監督が2010年の韓国リーグ優勝を決め、日本シリーズの勝者であり韓国人創業者を企業母体に持つ千葉ロッテとの対決するシーンで終わる。
だが、ワタシたちがその興奮を享受できるのも、そこに至るまでに日韓の野球史に刻まれたたゆまぬ歴史の積み重ねがあったからこそ、に気づかされるのだ。
ここでの“海”は、まさに交流の海であった。ドキュメンタリーとしてのじつにオーソドックスなつくりだが、野球を通じて、日韓の歴史絵巻を紐解く一つの試み。
ワタシたちはそのことに思いをはせながら、改めてアジア史の検証をする必要があるのではあるまいか。
なお、再放送(NHKハイビジョン)が2月13日(日)16:00~17:50に予定されている。
◆『白球~選手たちは海を渡った~』の参考レビュー(*タイトル文責は森口)
「野球を通じて韓国の戦後史、日韓史を振り返った労作」--YOMIURI ONLINE(片山一弘氏)
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【イベント】NFCコレクションでみる 日本映画の歴史 ― 2011/02/09
東京・京橋にある東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)の常設展が「NFCコレクションでみる 日本映画の歴史」としてリニューアルされたのを機に、立ち寄ってみた(2月9日)。
今回の展示では、同センターが所蔵するポスター・写真・文献・映画機械・映画人の遺品といったいわゆるノンフィルムの多彩な資料を閲覧できるのが特長。
たしかに、今から100年以上も前に描かれたポスターや、大小さまざまな映写機、ワタシの敬愛する成瀬己喜男監督が『山の音』を撮る際に描いた精緻なセット図や間取り図など、映画ファン垂涎のコレクションが居並び、まさに日本映画の100年の歴史とその“豊かさ”を体感できる。
しかしながら、映画ファンの末席をケガすワタシなどは、それらの展示物以上に目が奪われるてしまうのは、会場各所に設けられたモニターに写し出される数々の映像群だ。
リュミエール兄弟がシネマトグラフを開発したのが1894年。その数年後にはシネマトグラフ映写機が輸入され、明治期の貴重な日本の姿が撮影される。
1897年に撮影されたという稲刈りや足踏み水車の情景はおどろくほど鮮明だし、日本人によって初めて歌舞伎の舞台が撮影された『紅葉狩』(1897年)や、関東大震災(1923年)の被災の様子を収めたフィルムなど、興味深いものばかり。
さらに、『忠治旅日記』(伊藤大輔監督・1927年)や『忠臣蔵』(衣笠貞之助監督・1932年)など、なかなか観ることのできない“幻の作品”が、ここではいともたやすく目にすることができる。これは映画ファンとしては、本当にありがたい。
『アニメで越境する(日本映画は生きている)』(岩波書店)でもその歴史的意義が触れられていた日本アニメ創世記の作品『なまくら刀』(寺山純一監督・1917年)や『浦島太郎』(北山清太郎監督・1917年)、も上映されていて、さらに驚く。
予想以上になめらかな動きに、口や眉まで動かして表情を変え、影絵の手法を採り入れた作風など、その技術の高さに瞠目せざるをえない。
日本の映画史を工夫をもってまとめた展示だとは思うが、せっかくなら当時の映画館内を再現した展示や、映写機の横に巨匠(監督)たちの等身大パネルを立たせるなどすれば、もっと臨場感溢れた楽しい展示になったかと思う。
「テーマパークにはしたくない」というNFC側の意志の顕れかもしれないが、せっかくこの豊穣なる日本映画史に知ってもらうには、もっと平場での誘いがあってもいいような気がする。
それと、「1 日本映画のはじまり」から「7 日本のアニメーション映画」という7つのコーナー分けのなかで、6の「日本映画のひろがり」だけ順路を大きく逸脱し、会場外の展示になっているのはどうしたことだろう…?
併せて開催されている「NFC映画展覧会の15年 1995-2010」では、ロシア・アバンギャルドの影響を受けたアートなポスターや、『姿三四郎』『ゴジラ』『新幹線大爆破』の斬新なデザインの外国版ポスター、さらに地下鉄構内にでも貼りだしたのだろうか巨大なフランス映画のポスター、美術監督・水谷浩のセットや衣装などが、展示されている。
が、ワタシが目を奪われたのはセルゲイ・エイゼンシュテインからロシア語翻訳家・袋一平に当てられた書簡。先のリュミエール兄弟と日本との関わりといい、世界と日本の映画史との奇遇に感慨を禁じえない。
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今回の展示では、同センターが所蔵するポスター・写真・文献・映画機械・映画人の遺品といったいわゆるノンフィルムの多彩な資料を閲覧できるのが特長。
たしかに、今から100年以上も前に描かれたポスターや、大小さまざまな映写機、ワタシの敬愛する成瀬己喜男監督が『山の音』を撮る際に描いた精緻なセット図や間取り図など、映画ファン垂涎のコレクションが居並び、まさに日本映画の100年の歴史とその“豊かさ”を体感できる。
しかしながら、映画ファンの末席をケガすワタシなどは、それらの展示物以上に目が奪われるてしまうのは、会場各所に設けられたモニターに写し出される数々の映像群だ。
リュミエール兄弟がシネマトグラフを開発したのが1894年。その数年後にはシネマトグラフ映写機が輸入され、明治期の貴重な日本の姿が撮影される。
1897年に撮影されたという稲刈りや足踏み水車の情景はおどろくほど鮮明だし、日本人によって初めて歌舞伎の舞台が撮影された『紅葉狩』(1897年)や、関東大震災(1923年)の被災の様子を収めたフィルムなど、興味深いものばかり。
さらに、『忠治旅日記』(伊藤大輔監督・1927年)や『忠臣蔵』(衣笠貞之助監督・1932年)など、なかなか観ることのできない“幻の作品”が、ここではいともたやすく目にすることができる。これは映画ファンとしては、本当にありがたい。
『アニメで越境する(日本映画は生きている)』(岩波書店)でもその歴史的意義が触れられていた日本アニメ創世記の作品『なまくら刀』(寺山純一監督・1917年)や『浦島太郎』(北山清太郎監督・1917年)、も上映されていて、さらに驚く。
予想以上になめらかな動きに、口や眉まで動かして表情を変え、影絵の手法を採り入れた作風など、その技術の高さに瞠目せざるをえない。
日本の映画史を工夫をもってまとめた展示だとは思うが、せっかくなら当時の映画館内を再現した展示や、映写機の横に巨匠(監督)たちの等身大パネルを立たせるなどすれば、もっと臨場感溢れた楽しい展示になったかと思う。
「テーマパークにはしたくない」というNFC側の意志の顕れかもしれないが、せっかくこの豊穣なる日本映画史に知ってもらうには、もっと平場での誘いがあってもいいような気がする。
それと、「1 日本映画のはじまり」から「7 日本のアニメーション映画」という7つのコーナー分けのなかで、6の「日本映画のひろがり」だけ順路を大きく逸脱し、会場外の展示になっているのはどうしたことだろう…?
併せて開催されている「NFC映画展覧会の15年 1995-2010」では、ロシア・アバンギャルドの影響を受けたアートなポスターや、『姿三四郎』『ゴジラ』『新幹線大爆破』の斬新なデザインの外国版ポスター、さらに地下鉄構内にでも貼りだしたのだろうか巨大なフランス映画のポスター、美術監督・水谷浩のセットや衣装などが、展示されている。
が、ワタシが目を奪われたのはセルゲイ・エイゼンシュテインからロシア語翻訳家・袋一平に当てられた書簡。先のリュミエール兄弟と日本との関わりといい、世界と日本の映画史との奇遇に感慨を禁じえない。
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【本】教育問題はなぜまちがって語られるのか? ― 2011/02/10
教育問題はなぜまちがって語られるのか?―「わかったつもり」からの脱却 (どう考える?ニッポンの教育問題) 広田 照幸 伊藤 茂樹 日本図書センター 2010-09-16 売り上げランキング : 1654 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
曰く、「教育学を勉強したい、教師になりたいといって大学に入学してくる学生に、社会学的なセンスがまったくなかったりするんだよねー(略)。ちゃんと社会科学的な視点を身につけて、教育の問題を考えてくれれば、と思うんだけどねー」という広田照幸氏のグチを受けて、編集子が「進学先を考えている高校生の人たちや、大学に入ってまもない大学生の人たちに、社会科学的な視点から教育問題を考えてもらうような、読みやすい本を作るというのは、どうですか」と提案し、「やるかー」となったそうなだ…。
このように本書は、端から読者対象を「若い読者」としているだけに、教育学者が書いたとは思えぬような(失礼)平易な言葉を、読者に語りかけるように綴るというスタイルが取られている。
そのうえで、本書の内容を換言すれば、次のひと言に尽きる。
「本書で若い読者のみなさんに伝えたかったことは、結局のところ、教育問題について『リテラシー』を高めることの大事さと、そのためには何が必要かということでした」
つまり本書は、一見、若者向けの軽いノリで書かれたように見せかけて、じつはあまたの“教育トンデモ論”を痛烈に批判する宣戦布告の書なのだ。
そのたたかいの前面に立つのが、快著『日本人のしつけは衰退したか』(子談社現代新書) をもって、無責任な家庭教育衰退論を緻密なデータ分析によって葬り去った広田氏だ。
その『日本人で~』でも駆使されたデータと冷静な論理の構築は、本書でも変わらぬスタンスとして読者にたたみかける。
例えば、犯罪学者・浜井浩一氏の調査を引きながら、「殺人事件の数そのものは増えていないのに、『凶悪な殺人』の事件報道が増えている」と指摘し、「みなさんが『凶悪な殺人事件が増えている』と考えているとすれば、それは『最近は、凶悪な殺人事件のニュースをたくさん耳にする』ということにすぎない」と、諭す。
また、「現代の家族は、人間関係が希薄化し、親子間のコミュニケーションが少なくなり、家庭の教育力が低下している」論についても、まったく正反対の調査結果を出ていることを掲げて、論破する。
そうした見事な手腕で、「思い込み「や「常識」を覆してみせるアプローチは、一瞬、謎解きミステリーを読んでいるかのような興奮を覚える。
そうして、広田氏は「解決策を考えたり議論したりする時に気をつけるべきこと」として、「(解決の)手段のなかに有効なものと無効なもの(さらにはかえって有害なもの)がある」「数字で立証できないものを『効果がない』と決めつけてはいけない」「教育の力を過信し過ぎてはいけない」「その手段が、別の困った事態をひき起こしてしまわないか」考えてみるべき、と説くのだ。
そう、これは「教育書」の体裁をとっているものの、社会なさまざまな問題に対する科学的アプローチや文字どおりリテラシーを論じた書でもなあるのだ。
冒頭に記したような若者向けの表現にかえって読みにくさを感じる人もいるだろう(ワタシもその一人)。また、多くのオトナにとって、目からウロコであると同時に、耳の痛くなる話も少なくない。
そんな痛くて、痛快な、多面的な側面から語られるべき一冊。
◆『教育問題はなぜまちがって語られるのか?』の参考レビュー一覧
(*タイトル文責は森口)
「教育議論の前提をとらえようとするユニークな教育書」--asahi.com(樋口大二氏)
「『教育問題への無理解』を批判するメタ言説本」--あれぐろ・こん・ぶりお
「教育問題の「トンデモ論」に対する『超』入門書」--先生解決ネット
「メディアリテラシーを強化する有効な本」--いぬの軌跡
「教育問題ではなく、情報リテラシーの本」--憂太郎の教育Blog
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【コミック】風間亭やんわりの漫画落語傑作選 ― 2011/02/11
風間亭やんわりの漫画落語傑作選 風間 やんわり 新潮社 2009-08-26 売り上げランキング : 154940 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
その特長をひと言でいえば、古典落語のやんわり流現代風ギャグへの“改作”集だ。
例えば、“第一席”の「寿限無」からして、その長たらしい名前でトホホな子ども時代を送り、やがてその名前に嫌気がさしてヤクザになったものの、逆にその名前で命拾いをするという馬鹿馬鹿しいオチで、クスリとさせる。
対談相手の春風亭昇太師匠から「一目でわかる絵というのは本当にすごい」とヨイショされたその絵は、お世辞にも“上手い”ものではないが、たしかにトホホな〆でオチまくる風間亭ギャグにはマッチングしている。
昇太師匠のほかにも、立川志の輔、柳家喬太郎、三遊亭楽太郎各師匠らとの対談が本書に華を添えているが、さすが師匠連で、「じつは落語家になりたいという気持ちがあったんです」というやんわり氏に対して、昇太師匠が「だから『好き』と言っても、落語家になりほど好きじゃないんだよ(笑)」とやんわり(でもないか…)と返したり、喬太郎師匠は「落語という話芸だから成立するものはいっぱいあります」と「金明竹」における“サブリミナル効果”を語って、「これを漫画で表現するのは難しい」と、マンガに対抗心を燃やすかのようにその芸を自負する。
「落語用語コラム」も収められて、初心者にも目配せするつくりだが、結果として前掲のストレートな落語表現とはまた違う、落語の“奥深さ”を見せつける逸品となっている。
◆『風間亭やんわりの漫画落語傑作選』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「実に見どころが多いマンガ」--ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ
「落語だと知らなくても楽しめるマンガ」--asahi.com(中野翠氏)
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【演劇】焼肉ドラゴン ― 2011/02/12
鳴りやまぬ拍手とスタンディングオベーション…。
2008年に初演され、その年の演劇賞を総なめにした『焼肉ドラゴン』の再演を観たが、やはりこれは歴史に残る名作だと確信した(2月12日・新国立劇場)
会場に入るともうそこは島次郎氏が手がけた秀逸な舞台セットによって、“昭和”の朝鮮人部落が出現していた。まるで舞台からホルモン焼きの臭いが漂ってくるかのような、濃厚な世界。ワタシたちは、すぐにその異空間に誘われる…。
じつはワタシは、テレビ放送でこの初演版を観ている。
したがって、“語り部”である一人息子・時生(トキオ)の運命も、ホルモン焼店とその家族の行く末も、既に知っている。
しかしストーリーもセリフも、ほぼ初演版のまま演じられる舞台に、初見でないことを悔やんだのは、10分にも満たなかったのではないか。
役者の姿を追いがちなテレビカメラの目線ではない、舞台全体から立ち上る“物語”に一気に引き込まれた…。
高度成長真っ只中の1970年前後を時代背景に、関西の朝鮮人部落でホルモン焼店「焼肉ドラゴン」を営む在日コリアン一家が、歴史と社会に翻弄されながらもたくましく生きる様を描く。
そこに詰め込まれるたのは、日韓の歴史はもとより、差別、教育、結婚、ジェンダーの問題や「在日」と韓国人の確執、影を落とす済州島四・三事件など、在日コリアンの苦難の歴史を紐解く一大パノラマのよう。
それらの在日コリアンが抱える象徴的な課題や問題を、ほぼすべてといっていいほど詰め込みながら、教条的にもならず、破綻することなく、ユーモアをたっぷりまぶしたエンターテイメントに仕上げた鄭義信(作・演出)の手腕は讃えて然るべきだろう。
日韓合同による役者陣のイキもぴったりで、ワタシたちもまるで「焼肉ドラゴン」の店内に居るかのように、臨場感溢れるその悲喜劇に巻き込まれていく…。
そんな役者陣のなかでも、店主夫婦を演じた韓国人俳優二人(申哲振・高秀喜)の存在感はバツグンで、とりわけ寡黙な店主を演じた申が自身の過去を静かに独白する場面では、一瞬にして観客すべてを惹きつける。
ふだんは本作のようなストレートな芝居はあまり観ないワタシだが、休憩を挟んで3時間余りという上演も、この小さな空間から放たれる壮大な歴史物語のスケールを考えると、必要な時の流れだったのかと思う。
桜散るなかリアカーをひくラストのシーンはまるで、美しい映画(映像)を観ているかのように息を呑む。その後に引き続く、在日コリアンのさまざまな“苦難の歴史”に向かって一家はそれぞれの道を歩み出すのだ…。
◆『焼肉ドラゴン』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「必死で生きる普遍的な家族の物語」--しのぶの演劇レビュー
「『在日』を真正面から描いた渾身の力作だが…」--因幡屋ぶろぐ
「笑いに紛らせて大きな課題を突きつけた」--変様する港街から
「在日問題に留まらない、普遍性を感じさせる作品」--松井今朝子ホームページ
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2008年に初演され、その年の演劇賞を総なめにした『焼肉ドラゴン』の再演を観たが、やはりこれは歴史に残る名作だと確信した(2月12日・新国立劇場)
会場に入るともうそこは島次郎氏が手がけた秀逸な舞台セットによって、“昭和”の朝鮮人部落が出現していた。まるで舞台からホルモン焼きの臭いが漂ってくるかのような、濃厚な世界。ワタシたちは、すぐにその異空間に誘われる…。
じつはワタシは、テレビ放送でこの初演版を観ている。
したがって、“語り部”である一人息子・時生(トキオ)の運命も、ホルモン焼店とその家族の行く末も、既に知っている。
しかしストーリーもセリフも、ほぼ初演版のまま演じられる舞台に、初見でないことを悔やんだのは、10分にも満たなかったのではないか。
役者の姿を追いがちなテレビカメラの目線ではない、舞台全体から立ち上る“物語”に一気に引き込まれた…。
高度成長真っ只中の1970年前後を時代背景に、関西の朝鮮人部落でホルモン焼店「焼肉ドラゴン」を営む在日コリアン一家が、歴史と社会に翻弄されながらもたくましく生きる様を描く。
そこに詰め込まれるたのは、日韓の歴史はもとより、差別、教育、結婚、ジェンダーの問題や「在日」と韓国人の確執、影を落とす済州島四・三事件など、在日コリアンの苦難の歴史を紐解く一大パノラマのよう。
それらの在日コリアンが抱える象徴的な課題や問題を、ほぼすべてといっていいほど詰め込みながら、教条的にもならず、破綻することなく、ユーモアをたっぷりまぶしたエンターテイメントに仕上げた鄭義信(作・演出)の手腕は讃えて然るべきだろう。
日韓合同による役者陣のイキもぴったりで、ワタシたちもまるで「焼肉ドラゴン」の店内に居るかのように、臨場感溢れるその悲喜劇に巻き込まれていく…。
そんな役者陣のなかでも、店主夫婦を演じた韓国人俳優二人(申哲振・高秀喜)の存在感はバツグンで、とりわけ寡黙な店主を演じた申が自身の過去を静かに独白する場面では、一瞬にして観客すべてを惹きつける。
ふだんは本作のようなストレートな芝居はあまり観ないワタシだが、休憩を挟んで3時間余りという上演も、この小さな空間から放たれる壮大な歴史物語のスケールを考えると、必要な時の流れだったのかと思う。
桜散るなかリアカーをひくラストのシーンはまるで、美しい映画(映像)を観ているかのように息を呑む。その後に引き続く、在日コリアンのさまざまな“苦難の歴史”に向かって一家はそれぞれの道を歩み出すのだ…。
◆『焼肉ドラゴン』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「必死で生きる普遍的な家族の物語」--しのぶの演劇レビュー
「『在日』を真正面から描いた渾身の力作だが…」--因幡屋ぶろぐ
「笑いに紛らせて大きな課題を突きつけた」--変様する港街から
「在日問題に留まらない、普遍性を感じさせる作品」--松井今朝子ホームページ
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