【アート】曽根裕展「Perfect Moment」2011/02/14

曽根裕展「Perfect Moment」
会場に一歩足を踏み入れると、そこには緑まばゆい巨大な「バナナ・ツリー」がワタシたちを迎えてくれる。その藤細工による祝祭感あふれる作品に囲まれて、やがて白石のオブジェが光をもって立ち現れる。
その作品、大理石によってしつらわれた「木の間の光♯2」は、本来は無機質な“石”がまるで生命を携えたように、放射状の光が腕を広げながらワタシたちに問いかけてくる…。

東京オペラシティ・アートギャラリーで開催されている曽根裕展「Perfect Moment」は、近年、精力的に取り組んでいるという大理石による緻密な彫刻作品を中心に、映像作品なども紹介する“作家魂”が炸裂する個展であった(2月12日に鑑賞)。

会場に木々を植え、ジャングルに模したのも、もちろん作家自身の指示だという。会場そのものが、この作家の“作品”なのだろう。その土と緑の回廊をくぐり抜けていくと、忽然と白き光を放つ作品がワタシたちの目に飛び込んでくる。

「6階建てジャングル」「大観覧車」といった作品の異様な迫力はもちろんだが、やはりその存在感で他を圧倒するのが、ニューヨークのマンハッタンの街並みをそのまま大理石に刻み込んだ「リトル・マンハッタン」だ。

その緻密な刻みは、作家の執念さえ感じさせる精巧なもの。
ミ ニチュア細工を思わせるビル・建物群に目を奪われがちだが、ワタシは、その街を支えるかのように美しいフォルムで台座となるその姿に、見ほれてしまった。

まるで、底の見えない海溝にポッカリ浮かぶ島(陸)のように、その裾野は深遠なる思慮をたたえながら静かに下降していく。優雅な力強さをもって、人びとの暮らしを支えているのだ。
その周囲を囲む「バナナ・ツリー」たちも、入り口のものよりもさらに生命感をたぎらせ、この秀作を讃えるかのように、そそり立つ。

ジャングルを抜け、カーテンの中に隠れるかのようにひっそりと輝くクリスタル製の「木のあいだの光♯3」もまた、その透明な“切り株”に生命が息吹くかのように清楚な光を放つ。

映像展示では、2つの作品が同時に公開されている。
だだっ広い展示室の、対面となる巨大な壁に「バースデイ・パーティ」と「ナイト・バス」が映写され、観客は壁際のベンチに座り、思い思いに作品を眺める。

一本ずつ作品を観ることもできるし、視線を二つの壁に行き来させザッピング鑑賞することもできる。ワタシも最初のうちこそそうしていたが、やがてそれをやめた。
二つの映像を同時に“感じる”ことで、ワタシの中でシンクロ(共振)が始まる…。

作家自身が出会ったさまざまな人たちと一緒に誕生日を祝うシーンが延々と続く「バースデイ・パーティ」、タイトル通り夜のバスに乗り込み、これまた延々と流ゆく街路を写し出した「ナイト・バス」。
命あることを祝しながら、人は人生という旅を続ける…。

そう“感じた”ときに、これは二つの作品が揃ってこそ成り立つ、生命讃歌であることに思い至る。
そう、作品に通奏するのは、生命(いのち)に対するかぎりない肯定と、つきない探究心…。ワタシは、そこにこの作家の魅力を感じるのだ。

曽根裕展「Perfect Moment」の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「ジャングルの中の“遺跡”」--MSN産経ニュース(渋沢和彦氏)
「すべての作品がダイナミックかつ繊細」--イズムコンシェルジュ(上條桂子氏)
「とにかく『強い』、作品の持つ『力』」--石原延啓 ブログ
「構築への歓びやのびのびとしたユーモアが感じられない」
--アートイベント中心、その他つれずれ。
「きわめて批評的作家」--JT-ART-OFFICE
「ハイテンションぶりに圧倒されたトーク」--あるYoginiの日常

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【アート】吉田夏奈展2011/02/15

吉田夏奈展
東京オペラシティ・アートギャラリーで、曽根裕展「Perfect Moment」と共に同時開催されていた吉田夏奈展も印象に残る個展だったので、簡単に触れておきたい(2月13日)。

この作家の作品については、まったく予備知識なしの出会い頭の遭遇だった。
日本の四季を描いた収蔵品展「ゆきつきはな わが山河 Part III」を観終えてコリドール(廊下)へと進むと、その個展は突然始まる。まさしくそのコリドールが、展示会場となっているのだ。
1975年生れというこの女性作家のドローイング作品が廊下の壁にズラリと並ぶのだが、何といっても目を奪われるのは壁いっぱいに描かれた大作「Beautiful Limit ─ 果てしなき混沌への冒険」だ。

60.5㎝×91㎝のパネルに描かれた絵が組合わせされたその作品は、全長40メートルにも及ぶという。しかも会場に置かれたリーフレットには「サイズ可変」(!)と書かれており、そのパネルを自由に組み換えて、違った風景を写し出すことができることを示唆している…。

そして、そのクレヨン・パステルによるパネル画の集積によって出現したのは、巨大な連山の景色だ。さまざまな山頂の風景が連なり、それが延々とコリドールに続く…。
低草に覆われた緑はう山や、雪残る白き山も見えるが、基調となっているのはゴツゴツとした岩肌を露にした山だ。いや、“岩”だ。

この人は“岩フェチ”ではないかと思えるほど、一つひとつの岩が緻密に描かれる。対面に展示された本作の試作となるドローイングにも、その執着ぶりが端的に顕れている。

その幾何学模様にも見える岩の結晶が、山を覆う。岩が鎧のように山に張りつく。張りついた岩と岩が身を寄せ合って、生き物のようにうごめく。岩が、山が、今にも動き出しそうに、キャンバス(壁)を支配する。

だが、「圧倒される」という形容はここではふさわしくない。
生命の気配を感じさせる岩山たちは、絵の中に閉じ込められたかのようにじっと身を潜めているかのように見える…。
ロジャー・ディーン池田学氏のような「幻想的」ともまた違う、清楚で透明感のある迫力。そんな言い表せない魅力をもったを作品だ。

しかもこの作家は、本会場での展示の後も100mを目指して作品を描き続けていくという。まさにこの個展は、現在進行形で“進化する”作品の、その制作過程を作品化してしまったかのような、試みでもあるのだ。

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【映画】マリア・ブラウンの結婚2011/02/16

マリア・ブラウンの結婚
『マリア・ブラウンの結婚』(1979年・監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー)

ニュー・ジャーマン・シネマの騎手”という呼称も懐かしいファンスビンダー監督の代表作だが、当時観る機会を失し、ワタシにとっては長らく“幻の名画”だったのだが、先頃ようやくケーブルTVで鑑賞。

第二次世界大戦末期、爆撃下のドイツで結婚式を挙げたマリアだが、たったひと晩過ごしただけで夫へルマンは戦地に赴き、やがて戦死の便りが届く。戦後の混乱のなかで、マリアは黒人兵ビルと出会うのだが、偶然にもそこへ死んだはずの夫が還ってくる…。

さらに物語は急転し、マリアはさらなるパトロンを得るのだが、このあたりのマリアの不屈の魂と“男を利用”してのし上がっていく行動力は、さながら『風と友に去りぬ』のスカーレット・オハラを彷彿させる。

キャラクターのテイストはまったく違うが、ビビアン・リーが気丈な娘を演じたように、ここでは気高く気品に富む淑女をハンナ・シグラが強烈に演じる。
そして、ここでのレッド・バトラーは「夫」であることが、最後に明かされるのだが、ハンナの“明日”はスカーレットが力強く叫ぶ「tomorrow is another day.」にはならない。

ここが、アメリカン・ドリームの原点ともいえるアメリカ開拓史のなかで描かれた『風と~』と、混迷するドイツ現代史を体現するかのようなマリアの人生を描いた『マリア~』との違いか。

しかし、ドラマティックな展開をみせる本作ではあるが、そこにアメリカ映画とは違うヨーロピアンな香りを漂わせ、マリアの囲む“紳士”たちの佇まいから室内の調度品まで、気品が感じられるのはやはり歴史性というべきものだろうか…。

一方で、カメラが突然パンするなど、70年代TVドラマを思わせるテイストもみられ、重厚な作風とも、はたまたスタイリッシュというほどの演出も見られないのだが、ラストはテレビ音声と現実をシンクロさせて画面に緊迫感を呼び込む。そして、結末はその名にふさわしくじつにニュー・シネマ的に終わる。

それも今観るとさほど衝撃的でもないのだが、やがて東西分裂を迎えるドイツ社会を暗示する意味ではふさわしいラスト・シーンともいえる。やはり、“ベルリンの壁”が重くのしかかる時代でしかつくりえなかった、“時代が語る”映画なのだろう。

『マリア・ブラウンの結婚』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「天才ファスビンダーが、正政法で戦後ドイツにとりくんだ作品」--戦争映画専門サイト
「ドイツらしく、始終肌寒い空気が映画の世界を支配」--映画音楽書物遊戯等断罪所
「ファンスビンダーとアンナ・シグラとの『狂気の共有』」--CinemaScape-映画批評空間

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【CD】徐佳瑩(ララ・スー)/極限2011/02/17

徐佳瑩(ララ・スー)/極限
台湾のレコード大賞ともいうべき「金曲獎」で昨年(2010年)、最優秀新人賞に輝いたという徐佳瑩(ララ・スー)のセカンドアルバム『極限』(2010年9月リリース)。これが、とてもデビュー間もない新人とは思えぬ堂々の出来だ。

何といっても驚かされるのは、全曲を作詩・作曲するその才気だ。
けっしてうまいとはいえない歌唱も、自身を表現するものとしては十分に魅力的で、独自の歌世界を築いている。

アルバムは、アコースティックギターとパーカッションだけのシンプルなサウンドをバックに①「去我家」幕明ける。
センチメンタルな③「懼高症」、グラウンドビートを基調にしているのだろうかR&Bな佇まいの⑤「Love」、一転して、しっとりとその歌世界を聴かせる⑥「綠洲」、からみつくようなバラードナンバー⑦「殘愛」、さわやかな⑧「樂園」と続き、最後にセツナなメロディーが印象的な⑨「迪斯可」が深い余韻を残す…。

ご存じの通り台湾は島国だが、その民族の出自がそうさせるのか、ときとしてその伸びやで胸を打つ歌唱は、“大陸の風”を思わせる。

ハリウッド進出した(こちらは俳優としてだが)周 杰倫(ジェイ・チョウ)を始め、才能溢れるアーティストを次々と輩出する台湾ミュージック界(2009年のメイデイ[五月天]来日コンサートも素晴らしかった)で、今後も注目したいアーティストの一人といえる。

②「極限」のYou Tube動画↓

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【本】日本SF精神史―幕末・明治から戦後まで2011/02/18

日本SF精神史----幕末・明治から戦後まで (河出ブックス)日本SF精神史----幕末・明治から戦後まで (河出ブックス)
長山 靖生

河出書房新社 2009-12-11
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本書によって、日本のSF史をたどる一本の筋道が出来た。そんな快挙ともいえる労作だ。

本書で「決定的な本」として紹介される小松左京氏の『日本沈没』が刊行されたのが1973年。1962年生れの著者が11歳の時だ。ワタシも映画版『日本沈没』でそのサイエティスティックなストーリーと国際社会をも巻き込んだダイナミックな展開に、子どもながらに興奮させられたことを今でも鮮明に思い出す。

同世代ともいえる著者も、やはり『日本沈没』に感応した一人なのだろう。この『日本沈没』に対する「誤読」や「的外れの批判」が、本書を著す動機となったことは想像に難くない。

その論拠として、当時の少なからぬ識者が「『日本(風土)賛美』ゆえに、当時、『日本沈没』を保守的で復古的な思想で書かれたものと見做した」ことに対して、「実はこの[出版の]前年、田中角栄は『日本列島改造論』を発表し、開発という名の風土破壊が本格化しつつあった」ことを挙げて反論し、こう続ける。
「興味深いのは、この時期、伝統的な文化体系に属しながらも、革新的な思想の持ち主だと自負していた進歩的文化人の多くが、往々にしてSFやサブカルチャーが持つ批判精神を読み落としていた」
「彼らは、自分たちの主張や思想とも相通じる内容を持っている対象を、その表現手法への偏見から誤認し、否定した」
その「憎悪」に対する、著者の「憎悪」が本書を書かせ、今に至るカルチュラル・スタディーズの興隆も似たような出自をたどっているのではあるまいか。

それはともかく、著者のSFに対する執拗とも偏愛ともつかぬ探究・研究心は、本書で見事に開花している。ワタシにとっては、知らないことだらけ、目からウロコだらだ。

なにしろ安政4年(1857年)に儒学者の巌垣洲}によって書かれた『西征快心編』を「日本最初のSF」と位置づけ、100年余りのその歴史を辿っていくという壮大な旅なのだ。
この『西征~』からして、日本をモデルにした架空の島国の副将軍が武士を集い、アジア侵略を進めるイギリスを成敗すべく、「黒船」に乗ってイギリスに攻め入るという奇想天外な物語。このような大シュミレーション小説が、末期とはいえ江戸時代に書かれていたことにまずは驚かされる。

さらに明治時代に書かれた政治小説に「実に多くのSFがあった」として、50点余りの作品が並べられているのだが、これらの諸作を読破していることだけでも著者の博覧強記ぶりがわかるというもの…。

ほかにも「偽史のパロディとしてのシュミレーション小説」の論考をはじめ、あの伊藤博文が憲法制定準備のためにドイツのシュタインに学んだ際、「天皇を頂点(脳神経)、内閣を心臓とし、各省庁を手足の如く配した」“人体的政治構造図”を作成して「中央集権的行政システムを、人体システムに沿って構想・理解」していたことや、社会運動家の賀川豊彦が格差社会を警告する『空中征服』(1922年)なる未来小説を書いていたことなど、驚くことばかり。

明治末期には「はっきりとアメリカを次の仮想敵国とした小説が増え」たり、第二次世界大戦戦時下では「当時の日本では、日本軍が密かに新兵器『原子爆弾』を開発しているという噂が流れ」、実際に原爆を描いた小説(もちろん日本への投下前!)が書かれるなど、SF世界にも現実の世相が反映されていく。

それにしても本書に掲載された「人造人間の秘密」(1941年)の挿絵(イラスト)の、なんとレトロフューチャーでポップこと!(…お見せできないのが残念)

そんな例は限りなく枚挙のいとまがないのだが、それは著者とて同じだったように、「限られた枚数のなかで、幕末から日本SFの定着まで長い期間について取り上げたが、SFファンにはあまり知られていない明治期の作品や議論の紹介に比重を置いたために、それ以降、現代に近づくにつれて駆け足とならざるをえなかった」と「あとがき」で告白している。いや、「駆け足」どころかほとんど論じられていないといっていい。

まさに、日本SFが「これだけ豊か」になったのに肩すかしを食らった感もあるのだが、「日本SF百五十年の作品・作者の総体を、紀伝体の歴史を編集」する『大日本史』を書くと著者も宣言しているので、「お楽しみはこれからだ!」ということにしておきたい。

とにかく冒頭に記したように本書によって、筋道はついた。
さらに、豊穣なるSF近現代史への旅を期待したい。

『日本SF精神史』の参考レビュー一覧*タイトル文責は森口)(
「『日本SF史』ではなく『精神』がそこに挟まっている書」--bookjapan(岡崎武志氏)
「著者の作家たちへの信頼の篤さ、好意の視線」--わなびざうるす
「未来を表現する人々の格闘描く」--asahi.com(瀬名秀明氏)
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【本】人種マニア 有名人のエスニックルーツをカリカチュアで大紹介!2011/02/19

人種マニア―有名人のエスニックルーツをカリカチュアで大紹介!人種マニア―有名人のエスニック・ルーツをカリカチュアで大紹介!
渡辺 孝行

社会評論社 2010-10
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これは面白い!「面白い」という表現は不謹慎かもしれないが、じつにユニークな視点で編まれた書だ。

副題にある通り、世界各国の著名人のエスニック・ルーツ(民族的出自)をカリカチュアされた似顔絵とともに紹介するというもの。ただそれだけの構成なのに、そこからは多面的な“意味”が立ち上ってくる。

「日本人」にはあまりピンとこないかもしれないが、欧米人の多くは混血だ。例えば、あのマドンナの本名は、マドンナ・ルイーズ・チッコーネでイタリア系の血を引くことがわかる。しかし、その彼女がフランス系カナダ人の血も引いていたことは、本書を読むまでワタシも知らなかったし、そもそも「名前」からエスニック・ルーツを推察するのはかなり難しいことだ。

アーノルド・シュワルツェネッガーがオーストリア系であることは多くの人が知るところだが、いかにもイタリア系の名をもつレオナルド・ディカプリオに、ロシアとドイツの血も混じっていることはそう知られたことではないだろう。
ビル・クリントン米元大統領も“本名”だが、イングランド+スコットランド+アイルランドのほかに、なんとネイティブ・アメリカン(チェロキー)の血も引いていたとは!…。

そもそもワタシこうしたエスニシティに関心を持つようになったのは、米国の永住権を取得しているマレーシア人青年から聞いた話に端を発している。
それはもう20年以上の前のことなのだが、多民族国家アメリカのなかで、とりわけ人種のルツボと言われるニューヨークで育ち、高校、大学もその地で過ごした彼だが、その間、一人の白人の友だちも出来なかったという。
友だちは中国人や韓国人などのアジア人だけで、そうした彼のアジア人の友人たちもまた、誰一人として白人の友人を持つ者はいなかったという…。

この話には驚いた。
それまで白人と黒人の刑事がコンビを組んだ『48時間』『リーサル・ウェポン』シリーズ、日系人スタッフが活躍する『スタートレック』などでイメージしてきた、多民族共生社会アメリカの幻想が一気に消し飛んだ。

その後、何人かのアメリカ人(白人)にこの点を尋ねてみると、たしかにそうだという。子どもの頃は白人、黒人、アジア人関係なく遊んだ友だちも、大人になるにしたがって関係が疎遠になってしまう。
仕事は一緒にすることがあっても、私生活上で白人と黒人、アジア人などが家族ぐるみでつき合うなどということは、ほとんどありえないという…(現在の状況は知らないが)。

そんなアメリカ社会の現実を知ってから、エスニック・ルーツに俄然興味を持つようなった。
例えば、子どもの頃に夢中になって観ていた『刑事コロンボ』がじつはイタリア系で、その“イタ公”がWASPとおぼしきセレブな犯人を追いつめていくことに、多くのアメリカ聴視者が溜飲を下げたのではないか…とか。

リンゴ・スターを除くビートルズのメンバー全員がアイリッシュの血を引き、彼らの音楽の中にイギリス本土から差別され続けた“不屈の魂”が引き継がれているのではないか…といった妄想を膨らませていった。

クリント・イーストウッド監督による傑作『グラン・トリノ』にしても、あの偏屈な老主人公が、なぜ移民少年のために一肌脱いで力を貸そうとしたか? その理由に、かつて自分もポーランド系移民として苦労を重ねた過去が暗喩として示されていた。
だからこそ、移民仲間の床屋(イタリア系)、建設現場の監督(アイルランド系)に声をかけ、「こいつも俺たちと同じ移民だ。俺たちも苦労した。助けてやろうじゃないか」というエスニック・マイノリティとしての互助精神が感じてとれるのだ。

前置きが長くなったが本書には、言われてみれば「なるほど」と頷くエスニック・ルーツを持つ人もいれば、「ええっ!~そうだったんだ」と声を上げてしまうような人までが、ずらりと並ぶ。

ちなみに前者の代表が、ザンジバル生れのイラン系ゾロアスター教徒のフレディ・マーキュリー、イタリア+ウクライナ-ユダヤ+チェロキー系アメリカ人のスティーブン・タイラー、アルゼンチン+イングランド系イギリス人のオリヴィア・ハッセイあたりなら、後者としては先のクリントン元大統領やドイツ+スコットランド+フランス+スコットアイリッシュ+チェロキー系というメチャ混血なエルヴィス・プレスリー、アフリカ系+中国系のNe-Yo(ニーヨ)あたりを挙げておこう。
それにしても、フィンランド+スイスに混じるレニー・ゼルウィガーの「サーミ」や、アンディ・ウォホールの「ルシン」など、ワタシも知らないエスニック名も散見し、思わずWikiってしまった。

カルカチュアされたその大仰な似顔絵イラストの好き嫌いは別れるだろうが、せっかく前書きや本文(といっても名前とエスニック名だけだが)も英文なのだから、そのまま英語版を電子出版にすればいいのに、と思ってしまう…。
欧米に類書がなければ結構売れるのではないだろうか?

こうしたポップ(?)な本が、“堅い本”の版元として知られる社会評論社 から刊行されたこともまた面白い。

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【TV】迷子2011/02/20

NHKドラマ『迷子』
「五反田団」による『迷子になるわ』では、見事にワタシも“迷子”にさせられてしまったのだが、同劇団を主宰する前田司郎氏脚本によるNHKドラマ『迷子』を観た(2月19日)。

2009年2月に放映された同氏脚本による『お買い物』(ワタシは未見・3月24日にBShiで再放送)が好評だったということで、中島由貴氏(演出)と再びコンビを組んでのドラマだという。

“迷子”になって路上に座り込む中国人とおぼしき老女(ユン・ユーチュン)を、ひょんなことから3人組の高校生たち(太賀・永嶋柊吾・山田健太)が手助けしようとする。さらに警官から逃げまどう老女に、若い男女(忍成修吾・中村映里子)や女子高生(南沢奈央)、ホームレス(逢坂じゅん)らも関わり、彼女を巡ってさまざまな人びとの思いや行動が錯綜する…。

しかし、物語の導入はあまり魅力的とはいえない。
老女と高校生たちの“出会い”もとってつけたようだし、手持ちカメラの演出もどこかつくりものっぽい。朝日新聞「試写室」では「不安定な心情を表すのに効果的」(岩本哲生氏)と評していた「歯切れの悪いふわふわとした会話」も、今ドキの若者におもねるようで、聞いていてどこか居心地が悪い。

しかし、彼女の“正体”がおぼろげながら明かされ始めると、このドラマは俄然様相を変えはじめる。そう、このドラマは外国人を主人公としたドラマでもなければ、日本人との心あたたまる交流物語でもない。むしろ、彼女は脇役。ブレヒトのいう「異化効果」として置かれたプレーヤーなのだ。

本当の主役はここに登場する若者たちだ。
若者たちのヒリヒリとした日常が、この異人との関わりを通して透けて見える。“迷子”とは一体誰のことなのか? むしろ“確信”をもって生きているのは、迷子になったおばあさんの方なのではないか。そんな痛くて哀しい、そして愛おしい物語なのだ。

ここに登場する若者たちは、みな驚くほど心優しい。真の主役は、その“優しさ”と言いかえてもいい。多くの大人が過ぎ去るなかで老婆に声をかけただけでなく、その後も迷子になった彼女を探し続ける高校生たち。そんな彼らは、互いの家庭の事情を察して気をつかいあい、交わす言葉さえも選ぶ。
貧しい家庭をバイトで支える女子高生は、弟に悪態をつきながらも「できれば大学まで行かせてあげたい…」とつぶやく。ホームレスの「斎藤さん」もまた、自分が一緒だと店に入れないだろうと気づかい、ウソの演技でその場を立ち去る…。

先に挙げた「歯切れの悪いふわふわとした会話」はそうした“優しさ”を照れ隠す彼等の流儀でもあるのだ。

“おばあさん”が去った部屋で、穏やかな表情で異母兄弟の弟と戯れる少年。セリフがないだけに、そのシーンは静かに胸をうつ…。

あえて、場面転換の限られた芝居のように、多く語らない(写さない)脚本にしたのだろうか。
セリフによる説明だけでなく、ほかの登場人物たちの「家庭」を一瞬でも写しだせば、さらにドラマの深みは違ったものになったかもしれない。
しかし、それをあえて封印したことが、このコンビによる矜恃なのかもしれないのだが…。
(3月27日16:45~19:58NHK hiで再放送)

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【TV】ETV特集「深く掘れ 己の胸中の泉 沖縄学のまなざし」2011/02/22

深く掘れ 己の胸中の泉 沖縄学のまなざし
“沖縄学の父”・伊波普猷(いは ふゆう)の足跡を軸に、沖縄のアイデンティティと現状をさぐるドキュメンタリー「深く掘れ 己の胸中の泉 沖縄学のまなざし」を観る(NHK教育・2月20日放映)。

伊波普猷については“沖縄の民俗学者”程度の認識しかなかったのだが、沖縄研究を中心に言語学、民俗学、文化人類学、歴史学などの学問体験を基に「沖縄学」を生み、琉球最古の歌謡集「おもろさうし」の解読に務めたなど、本作で多くのことを知った。

まず冒頭の、米軍基地を見渡す丘で、琉球王朝でおもろを歌う役職「おもろ主取」の末えいである安仁屋 眞昭(あにや さねあき)氏がおもろを歌うシーンからして、ワタシたちを神話の世界に連れていくのだが…。

そして、かつて琉球の村々で歌われていた神歌「おもろ」を100年も前に解読しようとした伊波の著書『古琉球』が紹介される。そこには自然を愛で、平和を愛する沖縄人の心が謳われていた…。

伊波が築いた「沖縄学」は、やがて愛弟子の沖縄方言研究者・仲宗根政善らに引き継がれていくのだが、この仲宗根のことも寡聞にしてワタシは知らずにいた。

それにしても「方言を使ったらスパイとみなす」など沖縄方言の徹底した排斥には、改めてその愚策に驚く。かつて沖縄では、学校で沖縄方言を使った生徒は「方言札」を首からぶら下げられたという。

ところが今やその学校で方言教室が開かれ、子どもたちによる方言を使った発表会が行われている。また、在野の愛好者たちが集った「おもろ研究会」では、「おもろ」の解釈を巡って熱弁を振る若者たちの姿も写し出される…。
そうした、綿々と続く「沖縄学」の“今”が語られていく。

しかしながら本作をもっとも特徴づけるのは、そうした「沖縄学」が向き合わざるをえなかった沖縄の時代と歴史で、琉球処分や沖縄戦、占領、本土復帰さらには米軍基地問題等と深く関わっているのだとする。

したがって冒頭の米軍基地はもとより、全編にわたって随所に基地や米軍機などが挿入され、さまざま人物によって悲惨な戦争の記憶が語られる。

だが、ワタシにはどうもそうしたテーマに引きずられ過ぎた感を持った。
例えば、多くの沖縄人に衝撃を与えたとされる「人類館事件」にしても、それを伊波がどう捉えたかはほとんど語られずに、代りに突如として沖縄を代表するシンガーソングライター佐渡山豊が「人類館事件の歌」を中学生(?)たちの前に歌うシーンに切り替わり、インタビューがなされる。

なにしろ、「絶対的な天皇制の中に一元化していった皇民化政策の行き着いた先」だの、「沖縄では日本軍による虐待がくり返されていました」といった“過激な”ナレーションが淡々と綴られのだから、この番組制作者は確信犯に違いない。

以前にも本ブログで書いたが、NHKが例の番組改変問題以降、ふっきれたように腹の座った番組づくりをしていることは喜ばしいし、今まで沖縄文化にスポット当てた際にスッポリと現在の基地の問題が抜け落ちがちだったことも認めるが、それにしても「沖縄学」をそうした面ばかりで語ることで、やはりスッポリ抜け落ちてしまった部分もあるのではないか。

例えば、沖縄人は平和を愛し外国との交易を大切にした、とするならば東南アジア文化交流史における「おもろ」の意味や位置づけ、またアイヌのユーカラとの比較などがあってもよかったのではないか。

石垣島の「結願祭」のシーンでは、220年前にベトナムから伝わったとされる「弥勒(みるく)」の面が紹介されていたが、沖縄文化はこのように東南アジア文化から強い影響を受け、また交流もあったはず。

そうしたマクロな“まなざし”による「おもろ」の歴史や文化、そしてそれがいかに沖縄人の“胸中の泉”をつくりなしたかを、もっと広く“深く掘れ”なかったものだろうか…。

「深く掘れ 己の胸中の泉 沖縄学のまなざし」の参考レビュー一覧
(*タイトル文責は森口)
「文化とは他者を知るということでもある」--ささやかな思考の足跡
「沖縄文化はおもろと方言だけでは捉えきれない」--ある旅人の〇×な日々

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【映画】風の中の子供2011/02/23

『風の中の子供』
風の中の子供』(1937年・監督:清水宏)

先日足を運んだ東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)のリニューアル常設展「NFCコレクションでみる 日本映画の歴史」でもその足跡が紹介されていた清水宏監督の佳作。

ワタシがこれまで鑑賞した清水監督作品は、『有りがたうさん』(1936年)、『蜂の巣の子供たち』(1948年)、『小原庄助さん』(1949年)の3作のみかと思うが、いずれも写実的な中にもどこか飄々とした、おおらかな作風を感じた。

戦災孤児たち主人公とした『蜂の巣~』とともに、この『風の中の子供』もまた、子どもたちがスクリーンの中で活き活きと躍動し、ユーモア溢れる心あたたまる物語を紡いでいる。

ワクパク仲間と共に夏休みを満喫する喧嘩ばかりの兄弟(葉山正雄・爆弾小僧)。ところが父親(河村黎吉)の横領容疑で家族は苦境に陥り、弟・三平は叔父の家に預けられることになるが、そのワンパクは治まらずにとうとう家に返されてしまう…。

なんといって素晴らしいのは、まるで風が吹き抜けていくかのように広々とした家内のシーンだ。その広さは寸尺を指して言うのではない。仕切られた一つひとつの部屋は狭いはずなのに、とりはらわれた障子によって、家内は大広間のように使われ、開けれた窓やガラス戸から借景のように緑(モノクロだがそう見える)が映える。

低いカメラ位置はほぼ同じであるのに、小津監督がまるで箱庭のように家内を撮ったの比して、ここでの清水監督はまるで子どもたちの心象風景であるかのように、家の中に小宇宙に描く。

その奥行きを活かしたカメラワークは屋外のシーンでも同じで、子どもたちのワンパクぶりも、背景にある大きな自然にの中ではお釈迦様の掌に乗った孫悟空のように愛おしい。

三平の木登りやたらい舟での川流れも、大自然の(スクリーンの)中ではちっぽけな悪戯しか見えず、その“映画的”ダイナミズムが心地好い。

もちろん、三平ら家族を心底心配する叔父(坂本武)の心根や、喧嘩ばかりだった兄弟間に横たわる深い絆を写し出していることもまた、本作の魅力である。

ラストの、縁側越しの宴の様子を背景に、父と兄弟が相撲をとる場面でも、見事にスクリーンの奥行きを活かし、にじみ出る家族再会の喜びを表現し切っている。

『風の中の子供』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「子供の“言葉”を効果的に使う」--CinemaScape-映画批評空間-
「解放的な映像が『自由』を感じさせる」--最近気になること
「単純な人生のなかの事件をクローズアップして描く」--chim chim cheree ***diary
「清水監督は、構図の人」--寄り道カフェ
「計算されたショットに感心」--プロフェッサー・オカピーの部屋[別館]

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【本】アンジャーネ2011/02/24

アンジャーネアンジャーネ
吉永 南央

東京創元社 2011-01-27
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祖母の急死によって外国人向けアパート「ランタン楼」の大家となった青年が、国籍や生活習慣も異なるさまざまな住人たちに翻弄されながら成長する姿を描いた連作短編集…と書くと通り一遍の紹介になってしまうが、そこに“事件”と“謎”を絡ませたライト・ミステリーの体裁をとっているところが新味か。

例えば、住民であるベトナム美女の部屋にただならぬ様子のベトナム人の男が訪れ、争いの気配の後、その女が深夜になってドス黒い赤をにじませ布がはみ出たトランクスをひきずっていく姿を目撃する…。
またある時は、イラン女性・ジーナの部屋から飛び出してきた女子高生が手にしていたのは彼女自身がモデルとなったセミヌード写真。撮影したのはジーナなのか? なぜ、彼女の部屋にはさまざまな日本人が出入りするのか…。
さらに、「ランタン楼」の近くでの殺人事件や独居老人の死に、住民たちへの疑いの目が向けられる…。

そうした、ちょっとした事件や謎に“大家”となった青年が否応なく巻き込まれ、ときに心あたたまる、ときにホロ苦い結末となりながらも、謎を解いていく。

文章も端正で、テーマ性も、今日性もあり、すぐにでもNHKドラマになりそうな物語なのだが、どうもワタシは最後までこの「ランタン楼」の住人にはなれなかった。その原因を探れば、どうもこの青年の希薄なキャラクターに思いあたる。

青年がかつてなぜ弁護士を目指し、そして“挫折”したのかが十分に説明されず、思いよらず大家を引き受けてしまった心象風景も描かれていない。友人たちに登場によって動揺する場面もあるにはあるが、キャラクターの掘り下げにはあまり寄与はしていない。

そうした意味では、小説のテイストはまったく違うが、キャラの勢いにまかせ書きなぐったかのような『謎解きはディナーのあとで』(東川篤哉著・小学館)とは、じつに対象的だ。

また、エスニック・メディア(外国人向け新聞)を発行するエネルギシュな女性社長に振り回される体験を綴った高野秀行氏による『アジア新聞屋台村』 ようなハチャメチャさもここにはない。

ワタシなどは、しばしばその往事の様子が語られ、今もその存在感をにじませる“中国人”の祖母が、今よりもはるかにその居住が大変だった時代に、どのように地方の小都市でアパート経営をしていたのか、そちらの物語を読みたくなった。

青年を支える“大人”たちや、ユニークな父母も、この物語に華を添えてはいるのだが、この人たちももっとキャラを際立たせることができたのに…と、そこが惜しい気がする。

「あそこじゃ、剥き出しなんだ。全神経を使って、手さぐりで付き合わなきゃならない」「そう。でも、それが気持ちいいんだよね」…といった青年の“成長”を示すいいセリフも出てくる。
ドラマ化する際には、ぜひキャラを掘り下げて、「ランタン楼」のディープな世界を描いてほしいと思う。

『アンジャーネ』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「読み心地のよい連作短編集」--WEB本の雑誌
「ジワっと染込んでくる人の繋がりが温かい」--view halloo

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