震災チャリティイベントのお知らせ2011/11/20

東日本大震災復興支援イベント「3・11を考える」
諸般の事情によりブログが更新できない状態が続いているが、以下、私が関わる震災チャリティイベントの情報を掲載します。ぜひ、参加・協力をお願いします。

★東日本大震災復興支援イベントにご参加・ご協力ください!★
震災からはや8カ月。いまだ震災地は、確固たる復興計画が立っていません。
そんななか、自由が丘にある産業能率大学の学生が中心となって、11月25日に東日本大震災復興支援イベントが開催されます。
このイベントは、産能大「アーティストプロモーション」の学生企画から生まれました。福島出身の学生が「震災復興に向けて自分たちも何かしたい」と、高校時代の恩師である福島在住の詩人・和合亮一さんに協力を呼びかけたところ、学生からの要請を快諾。
福島で被災し現場からtwitterで詩篇「詩の礫」を発表し続け注目を浴びた和合さんの詩の朗読をはじめ、イベントの趣旨に共感した岩瀬敬吾ザ・ラヂオカセッツのライブや、津波で自宅を失った岩手県陸前高田市出身の山梨県立大生・菅野結花さんの被災地ドキュメント『きょうを守る』の上映(東京初上映)、保坂展人区長による応援メッセージ、さらには東北物産の販売、写真展など゛、盛りだくさんの内容となりました。
私(森口)は友人の産能大講師からこのイベントの協力を呼びかけられ、震災復興支援世田谷実行委員として、準備にあたってきました。
私も親の転勤で中学・高校時代を宮城県石巻市で過ごし、級友の多くが被災しました。被災者の苦しみ、痛みを共有できる“想像力”こそ、今わたしたちに必要なことだと思います。このイベントを通じて、これから冬にはいる被災地の現状を知り、私たちのできることを再確認したいと思います。ぜひ、多くのみなさんのご協力・ご参加をお待ちしています。
なお、イベント売り上げから経費を除いた分を義援金として「陸前高田市災害対策本部」に送金します。

東日本大震災復興支援イベント「3・11を考える」
日時:2011年11月25日(金)
場所:玉川区民会館 (東急大井町線「等々力駅」下車徒歩1分)
料金:前売:2500円 当日:3000円
開場:17:00~(東北物産展16:00~)開演 18:00~
プログラム:
<音楽ライブ>岩瀬敬吾、ザ・ラヂオカセッツ
<トーク>保坂展人(世田谷区長)
<映画>『きょうを守る』(菅野結花監督)
<ポエトリー・リーディング>和合亮一
主催:3・11を考える実行委員会・震災復興支援世田谷実行委員会
協賛:世田谷区 ・世田谷区教育委員会
問合せ:03-3639-0935(ゆうげい社内/13:00~19:00)
mail:contact_artistp2011@yahoo.co.jp

【本】新大久保とK-POP/K-POPがアジアが制覇する2011/10/20

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2冊のK-POP関連本を読んだ。
『新大久保とK-POP』は、人気のK-POPにあやかって、東京の新名所となった“韓流聖地”を紹介するガイドブックと思いきや、そこから更にコリアタウンにとどまらない多国籍・多文化共生地域となった「新大久保」の過去・現在・未来を探った本。

私も以前、お世話になった共住懇の山本重幸氏を最良のナビゲーターとして、この地の歴史を掘り起こし、その成り立ちを紐解き、多国籍・多文化の現況を捉え、さらにこの街とニッポンの未来を幻視する。

まるで共住懇の本であるかのように、いささか山本氏に頼りきった感もあるが、この街から見えてくる“アジアの中のニッポン”を俯瞰する意味は少なくない。

「現在の東京には、約40万人の外国人がいます。私は、この流れは止められないんじゃないか、と思っている。もしかすると、2050年には、日本全国が新大久保になるかもしれませんね」という山本氏の言葉が、日本と世界の未来を射る。

もう一冊の、『K-POPがアジアが制覇する』もK-POPブームをなぞったかの如き総花的にアーティストの素顔や人気の秘密、活動の紹介で始まるのだが、次第にその様相を変え、やがて日韓比較の文化・精神論へと舵を切ってゆく。

「女性ファンというものは、アイドルや俳優のことだけを知りたいのであって、誰かのフィルターを通したアイドル論を読みたいのでは決してない。一部の文科系・サブカル系を除いて、批評を楽しむ女性は少ないのである」として、前半は女性読者を惹きつける内容とし、後半は「男性というのは、アイドルの語るインタビューももちろん好きだろうが、自分のアイドル論を持っている人が多いように思う。ブームを先どる形で、『ミュージック・マガジン』誌は二○一○年三月号でK-POPを特集していたが、この本は数多くのライターたちによるアイドルに関する総論で徹底的に構成されており、男性からの指示を得ていた。(略)たぶん、筆者がこの本でやっていることは、非常に男性的な試みなのだろう」として、男性読者に軸足を移したかのような構成になっている。

しかながら、その筆者による「アイドル論」もどうも引用が多いせいか、「自分の」論調としての印象が薄い。その比較文化・精神論もあまり深みが感じられない。

「J-POPにあふれる「ありがとう」」に対して、「ネガティブなことから目をそむけない韓国」と比して、問題の解決法を「自分の中」に求める傾向にある日本人の「内向き」さを批判的に語るのは、いかにも短絡的に思えてしまう。

「我々は、二○一○年という年に、K-P0Pを通してアジアや世界という「他者」を客観的に見る新たな機会を得たのである」という筆者の結びのは、前掲書とも通奏するキャッチーな一文であると思うが、どうせなら日韓だけでなくアジア各国のポップカルチャーに精通する筆者ならでは、汎アジア比較論まで拡げてほしかった。

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【TV】ETV特集「希望をフクシマの地から ~プロジェクトfukushima!の挑戦」2011/10/10

ETV特集「希望をフクシマの地から ~プロジェクトfukushima!の挑戦」
ETV特集がまたやってくれた。
8月に福島で開催された「プロジェクトfukushima」の密着ドキュメントだが、90分という長さにも関わらず濃密な内容で、じつに見応えのある作品となった。

大友良英和合亮一、そして遠藤ミチロウ各氏らの呼びかけで開催された「プロジェクトfukushima」が大きな成功を収め、その後もこのイベントに参加できなかった多くのミュージシャンから不参加が悔やまれるといったツイートが飛び交うなど大きな反響を呼んでいたが、ワタシの関心はコンサートの記録映像だけでこの長尺に耐えられる? だったが、それはまったくの杞憂に終わった。

まずは、このイベント企画の立案当初からNHKのカメラが入り込んでいたことに驚かされる。つまり本作は、後追い映像で構成された番組ではない。そこが妙味で、生々しい映像が連ねられている。それはまさに、NHKスペシャルで、震災直後から石巻赤十字病院を捉えた速報性を彷彿されるが、その秘密は当番組のディクター自らがこの企画に関わっていたことで明かされる。

しかし、かのディレクターも福島出身であるということよりも、キモは発案者である大友氏が、同番組の「ネットワークでつくる放射能汚染地図」に衝撃を受けたことにある。
職を辞し、人知れず福島で放射能汚染を調査続ける木村真三氏らの活動に感銘を受けた大友は、ディレクターを通じて「プロジェクトfukushima」の開催予定地の放射能測定を依頼する。

放射能汚染地域に人を集め、コンサートを開いていいものか、大友は悩んでいたのだ。木村氏とともに測定を行ない、木村氏から「この程度の数値なら問題ないでしょう」と言葉を得たときに、なんとも安堵な表情。こうした大友氏ら関係者の、心の揺れ、複雑な気持ち、それらの感情つぶさに拾いあげたことが、本作に単なる音楽ドキュメンタリーにとどめなかった。

ディレクター氏の同級生の農家、大友氏の両親、大友氏と和合氏が語り合った飲み屋のマスター、現地のミュージシャン、さまざまなfukushima人たちが、語れぬ思いをその表情に言葉に、託す。

圧巻は、詩人・和合氏のパフォーマンスだ。
「fukushimaは日本なのか?/日本はfukushimaなのか?」
ステージを埋め尽くした詩人たちともに「連詩」を謳いあげる和合氏は、現役還暦バンク・ロッカー・遠藤ミチロウ氏を凌駕する、魂の咆哮。
詩が、言葉が、これほど力を持っているのかと驚愕させられる魂の叫びだ。

ほかにも、幾多の印象に残った言葉がある。
ミュージシャンとして世界中のボーダー(国境)を超えたきた大友氏が、放射能によって遮られた立ち入り禁止の前で、「超えられないボーダーがここにある」と呻き、8月15日の開催にこだわったという遠藤氏が「戦後つくり上げたものをもう一度検証すべきた」と、重く語る。

そして、チェルノブイリからメッセージを持ち帰った木村氏による、「福島に移住します」という力強い宣言で、番組は終わる。
いや、fukushimaは終わらない。
まるで、このプロジェクトの始まりであるかのように、その宣伝は高らかに鳴り響く。

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【映画】親切なクムジャさん2011/10/02

親切なクムジャさん
『親切なクムジャさん』(2005年・監督:パク・チャヌク)

『オールド・ボーイ』(2003年)で驚愕の心理サスペンス&復讐劇を描いて魅せたパク・チャヌク(朴贊郁)監督の復讐三部作にして最終作ということだが、残念ながら一作目の『復讐者に憐れみを』(2002年)は未見。

本作で「復讐者」となるのは、『チャングムの誓い』で静謐な佇まいながら秘めたる強靱な意志を感じさせて印象的だったイ・ヨンエ。その印象をさらに強くしたような、クールで孤独な復讐者を演じる。

幼児誘拐・殺人の罪で13年間服役していた主人公クムジャは、刑務所内で「親切なクムジャさん」と呼ばれ、多くの服役者を助け、力となっていたが、それには理由があった…。

というわけで、クムジャの頼みを断れない元服役者たちの力を借りて、濡れ衣を着せた真犯人を追いつめていく…というストーリーなのだが、そこは一筋縄ではいかないチャヌク監督で、その復讐劇がクムジャ一人のものではなくなっていく点に本作のキモがある。

詳しく記すとネタバレになるが、さしずめ『オリエント急行殺人事件』の様相を帯び(十分にネタばれか( ^ ^ ; )、それは復讐を巡って罪とは何か? 罰とは何か? への問いかけとなって事態は急転していく。

もっともそれが本作のテーマとして深遠なる問いかけに至るまで深められてはおらず、エンターテイメントの意匠を飾る程度にしか感じられないのは、チャヌク監督自身がそこに関心がないのか、単なる資質の問題か…。復讐を経ても救済されえないという暴力連鎖の虚しさが、その心象が、十分に描かれていないのだ

復讐というワンテーマをエンターテイメント作品として昇華させてきた手腕は買うが、観客を驚かせることばかりに執心すると、M・ナイト・シャマランのような失速劇を演じまいかと余計な心配をしてしまう。

それにしても、シャーリーズ・セロンによるハリウッド・リメイクの企画はどうなったのだろうか?

『親切なクムジャさん』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「この物語のテーマは「復讐」ではなく「贖罪」」--虎猫の気まぐれシネマ日記
「説得力に欠ける脚本が難点」--超映画批評(前田有一氏)
「脚本を映像化する際のあふれるアイデアに感嘆」--映画.com(滝本誠氏)

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【CD】山下達郎/Ray Of Hope2011/10/01

Ray Of Hope (初回限定盤)Ray Of Hope (初回限定盤)
山下達郎

ワーナーミュージック・ジャパン 2011-08-10
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山下達郎氏、渾身の一作。
プロモーションのために各局のFM番組に出まくっていたご本人がすでに語り尽くしているように、東日本大震災を受けてリリースを延ばし、内容も変更して制作されたといういわくつきの作品。
まさに、3.11に押し出された鎮魂の祈りの音楽、そして希望への歌、がここにある。

プレリュードに続いて、華やかに②「NEVER GLOW OLD」で幕開けたアルバムは、本作のテーマともいうべき③「希望という名の光」でいきなりクライマックスを迎える。

運命に負けないで
たった一度だけの人生を
何度でも起き上がって
立ち向かえる
力を送ろう

震災直後から何度となく耳にしたフレーズが、ここでもその意味を変えることなく、いや震災から半年を経た今だからこそ、さらに深く胸を打つ…。

ご本人も考えに考えた曲順なのだろう。オモチャ箱をひっくり返したように、次々と意匠を凝らした達郎ミュージックが飛び出してくるというアルバム構成は従来の達郎作品と変わり映えしないのだが、その一曲一曲の唄と歌詞が、今までになく心に響く。

そう、あの震災が日本の風景を変えてしまったように、音楽の聴き方さえ変えてしまい、それに敏感に呼応してしまったのが山下達郎氏であり、彼がつくりだした音楽なのだろう。

「路地裏の子供たちは/知らぬ間に大人になって」という何気ない風景を謳いこんだ③「街物語」にしても、「君だけを愛し続けたい」という純ラブソング④「プロポーズ」にしても、「あの丘の向こうに僕らの夏がある/変わらない美しいものすべてがそこにある」と郷愁感たっぷりな⑤「僕らの夏の夢」にしても、すべてが3.11に呼応するように、その歌の意味が、詩がまるで違って聞こえてくる。

そう、⑧「ずっと一緒さ」、⑨「HAPPY GATHERING DAY」といったラブソングから、ラストを飾るカバー曲⑬「バラ色の人生」に至るまで、すべてが鎮魂と祈りのうたであるかのように響くのだ。

本作では異色作として位置づけられるだろうダーク・ファンクな⑦「俺の空」にしても、「俺の空を返せよ!」と達郎氏にシャウトされれば、単なるマンション建設に対する怒りではなく、否応なく原発事故による放射能汚染禍を思い起こさざるをえない。

そうした意味でも本作は、達郎氏の作詞家としての一つの頂点を示す作品になったと思う。

それにしてもデジタル・レコーディングされた本作から聞こえる達郎氏の歌声は、まるで耳元で歌われているかのような臨場感に満ちている。ほとんどの楽器を演奏・プログラミングしているということもあって、達郎氏のホーム・レコーディングに立ち会っているかのような錯覚にも陥る。

まさしく氏の唱える“ポケット・ミュージック”であることには違いないのだが、本作の達郎氏からは斜め45度に顔を上げ、窓から覗く遠い空を見つめている姿が浮かんでくる。そこには、3.11を経てある種の役割を引き受けてしまった、“決意”が感じられるのだ。

初回限定盤に付されたボーナストラックは、ホーム・レコーディングの一室から一転して、達郎氏のコンサート会場へと連れ出されたかのような解放感に溢れた歌と演奏が繰り広げられる。

しかしながら、ラスト⑦に「どんなに大人になっても/僕等はアトムの子供さ」と謳われる「アトムの子」をもってきたのは、どうしたことだろうか? これは、達郎氏流の痛烈なアイロニーと解するべきなのだろうか。

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【本】市民社会政策論―3・11後の政府・NPO・ボランティアを考えるために―2011/09/30

市民社会政策論―3・11後の政府・NPO・ボランティアを考えるために―市民社会政策論―3・11後の政府・NPO・ボランティアを考えるために―
田中 弥生

明石書店 2011-08-20
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阪神・淡路大震災をきっかけにあまた誕生し、東日本大震災でも多くの団体が活躍するNPO(特定非営利活動法人)の、「評価」を論考し、検証した本。
…との紹介文を付してみた本書であるが、そのNPOが東日本大震災では「以前のような活気をみせていない」というのが、どうやら著者の執筆動機であるようだ。

筆者は、「阪神・淡路大震災から16年。NPO法人数は4.2万団体になった。NPO法の目的と法人数を考えると、[被災]現地でボランティアを募集している団体が50というのはあまりに少ないのではないか」として、「被災地にボランティアを派遣する学生団体のメンバーは50以上のNPOに連絡をして学生ボランティアの受入れを頼んだが、殆どがボランティアを受入れていなかった」「NPOは市民との連携が弱いのではないか」という学生の証言を引いて「最も痛い指摘」と結論づけているが、被災当初の現地の混乱とその対応に奮迅するNPOやボランティアの活動を多少なりとも知るワタシには素直には腑に落ちず、首を傾けざるをえない。

それはさておき、現状のNPOに課題がないわけではなく、NPOを「市民性」「社会変革性」「組織安定性」という三つの「基本条件」から「エクセレントNPO」の理念を考察するという姿勢は、その上から目線的なネーミングはともかく、抗うものではない。

簡単にいえば、NPO活動に「評価」基準を持ち込もうというもので、本書はその研究書(論文)ということになる。したがって、耳を傾けるべき考察や論考であることは重々認めたうえで、おそらく被災現地で奮闘するNPO/ボランティアからは、「現場も知らないでケッ!」と一瞥すらされない…という光景も浮かんでしまう。

そもそも、NPO の「評価」というのもけっして新しいアプローチではなく、ワタシ自身も10年も前にすでにNPO業界で「評価」が話題にのぼっていたことを知っている。そうした意味では、10年経ってもこの「評価」がNPO間に浸透せず、本書のような提言がなされることこそが、NPOが抱え続ける「課題」なのかもしれない。

それにしても、ワタシもドラッガーの『非営利組織の経営』 (1991年)に触発を受けたクチだが、はたして筆者も「あとがき」で「筆者の根底にあるのはP・F・ドラッガー先生の思想であり、氏の日本の市民社会への想いです」とあり、こちらは腑に落ちた。

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【本】師匠は針 弟子は糸2011/09/19

師匠は針 弟子は糸師匠は針 弟子は糸
古今亭 志ん輔

講談社 2011-03-26
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落語家が書いた本をそれほど手にしているわけではないのだか、それを大ざっばに分けるとすれば、落語論と自伝・エッセイ・雑感に大別できるのではないだろうか(もちろん混在している場合が多いのだろうが…)。

前者の代表作といえば、立川談志師匠による『現代落語論』立川志らく師匠の最新刊『落語進化論』 が挙げられるし、講談社エッセイ賞に輝いた立川談春師匠の『赤めだか』 などは後者にあたる。

古今亭志ん輔師匠の本書も、やはり後者に分けられると思うが、その胆(ウリ)となっているのは書名にも象徴されるように、今は亡き志ん朝師匠との想い出に尽きる。なにしろ“名人”の誉れ高い三代目・志ん朝が逝く間際まで、側に仕えた愛弟子だ。志ん輔師匠自身の言葉から、昭和の大名人の芸やしぐさ、生活の息吹まで識りたいという落語ファンは少なくないだろう。

じつはワタシもそのつもりで読み始めたのだが…、じつは瞠目は別にあった。
2章145ページにわたって、小さな文字でビッシリと1年間の日常が記された日記。「志ん輔のケータイ日記」と題されたこの日記を、当初ワタシは読みとばすつもりでいた。

ところが読み始めて、これがめっぽう面白い。
何がオモシロイって、現代の芸人がどのような日常を送っているか、のぞき眼鏡で覗いているかの如く(今ならさしずめライブか)、その生活ぶりがつぶさに開示されているのだ。

例えば、師匠は高座の前にしばしばカラオケに立ち寄る。咽ならしをカラオケで行っているのだ。考えてみれば合理的かつ経済的で道理のいく話なのだが、なんだか噺家→咽慣らし→カラオケというイメージ(絵柄)に意外性があって妙に可笑しい。
東京だけでも500人近い噺家がいるというが、ほかの噺家も師匠と同じようにカラオケを利用しているならば、カラオケ業界は落語協会に感謝状を贈るべきだろう。

そんな具合に、この日記では(ご本人以外も含めて)現代落語家の生態がつぶさに明らかにされる。
そこには、健康に注意を払い、高座での観客に一喜一憂し、寄席と落語会場の行き来に右往左往し、ときに深酒をしては後悔をし、時間を工面して一人孤独に稽古に励み、弟子の態度に腹を立てては雷を落とし、弟子のことで内儀サンと夫婦喧嘩をし、娘の進学を心配する一人の芸人であり、生活人がいる…。

これはれっきとした日記文学ではないか。本書を100年後に読んだ人たちは、きっとこのビビットな生活感溢れる当時(現代)の芸人の生活ぶりに驚くことだろう。

ある時代を生きた、ある一人の芸人の貴重な「記録」だ。ならば志ん輔師匠以外の噺家たちの日記も、覗いてみたくなる…。志ん輔師匠と対極にあるような(芸風です!)白鳥師匠などは、いったいどんな生活を送っているのだろうか?…なんて、ああ妄想モード(笑)。

例えば、(高座を共にすることが多い)三人ぐらいの噺家の日記をそれぞれ載せて、それぞれの立場から観た高座や落語観の違いが浮き立てば、それもまた興味深し。どこかで企画してくれないかなぁ。

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【映画】ロンゲスト・ヤード2011/09/18

ロンゲスト・ヤード
『ロンゲスト・ヤード』(1974年・監督:ロバート・アルドリッチ)

なぜか縁なく見過ごしていた37年前の作品だが、「スポーツ映画の名作」と謳われるに恥じない爽快な一作だ。

刑務所送りになったフットボールの元名プレーヤー(バート・レイノルズ)が、受刑者チームをつくり、仇ともいえる看守チームと相対するという、言ってみればたわいないストーリーだが、随所に名匠アルドリッチ監督の薬味が効いて厭きさせない。

冒頭で主人公ポールの自堕落な生活ぶりを簡潔に写し出し、続く逮捕に至るまではカーチェイスで楽しませ、刑務所内ではその微妙な人間関係をジョークやウィットで一気に見せてしまう。

一癖も二癖もある受刑者の中から、チームメンバーを選んでいく様は野武士集団を形成していく『七人の侍』からの影響も感じられ、後の『少林サッカー』にも連なる集団形成ドラマの妙がそこにある。

もちろんクライマックスは受刑者対看守の試合シーンで、ブライアン・デ・パルマばりのマルチ画面やサム・ペキンパーばりのスローモーションを駆使して、臨場感あふれる名場面をつくりあげている。

それにしても男臭い映画だ。単に女性キャストが少ないというだけなく刑務所長のエディ・アルバートや看守長のエド・ローターをはじめ、まるで西部劇か犯罪ドラマの如き布陣。

ボールをあれだけ虐待し続けた看守長が、試合後に刑務所長の行為に抗してみせた“スポーツマンシップ”なる振る舞いも、本作観賞後の清々しさに見事に貢献している。

そうした細部に怠りのないアルドリッチ監督の手腕は、後に“女性”を主人公に描いスポーツ映画『カリフォルニア・ドールズ』(1981年)でも十分に生かされている。

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【本】日本文学史 近世篇一~三2011/09/17

日本文学史―近世篇〈1〉 (中公文庫)日本文学史―近世篇〈1〉 (中公文庫)
ドナルド キーン Donald Keene

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先頃、日本への永住・帰化を表明したドナルド・キーン氏による大著(原著は1976年刊行)。「日本文学」に明るくないこともあって、いつかは読みたいと思ってようやく手にした書だが、キーン氏という最良のナビゲーターに得て、その大河のような流れにたゆたう至福の時を過ごした。

この名著を批評するほどの知識も資格もないことは重々承知しつつも、いくつかの印象に残った点を記させてもらえば、まずもってその豊かな知識と鋭い考察以上に、その心にしみ入るような日本語表現の確かさに魅了される。
「~やぶさかでない」など、次々に繰り出される表現や言い回しに引き出しの多さに驚嘆し、豊穣な筆致に圧倒される。

そのうえで本書を特徴づけているのは、「文学」を活字だけではなく、幅広いジャンルの文化として位置づけているのもキーン氏の眼目といえる。それゆえ、歌舞伎や浄瑠璃の記述に紙面を大きく割き、江戸文学/文化の興隆を立体的に活写している。

歌舞伎の祖といわれる出雲阿国の「念仏踊り」を綴った場面など、まるで400年前の京都・四条の河原にタイムワープして目の前でその艶やかな姿を目にしているかのような錯覚に陥る。手垢のついた表現で申し訳ないが、阿国をこれほど見事に「再現」した文章にお目にかかったことがない(近世篇二)。

そこに写し出されるのは、江戸・上方という町民の街に花開いた庶民文化だ。
キーン氏は序文の冒頭でこう記す。

徳川期の文学の特色は、なににもまして、それが(武家階級も含めて)民衆のものだったという点であろう。

井原西鶴、近松門左衛門、上田秋成といった庶民に愛された作家たちをはじめ、俳諧、連歌、和歌、戯作、狂歌、川柳、漢詩文にいたる庶民文学までつぶさに紹介し、独自のメスをいれる。
そして本書を通奏する氏の視点は、最期までブレない。

幕府によって二百五十年の長きにわたって維持された泰平の孤立は、表層的な観察者の目には、あらゆる「変化」に対する拒絶、幕閣の政策を指導した儒臣たちによるひたすらな保守と体制保持の世、と映るかもしれない。だが、そこに展開した文学を子細に点検するとき、われわれが発見するのは、なんという「変化」だろう。(近世篇三・p326)

ワタシはここに網野善彦史観に通じる、庶民文化への曇りのない視座を感じることができる。

それにしても、キーン氏という“異邦人”によって日本近世文学のなんたるか教えられるというのも奇異な話だが、考えてみれば故・中村とうよう氏(音楽評論家)が辺境・日本に居て距離を置いて欧米(のみならず世界)のポピュラー音楽に対してあれだけ鋭い論評が展開できたと同じように、キーン氏の“異邦人”という矜持があってこそ、これほど深く、冷静に日本の文化を捉えることができたのではないかという気もするのだ。

キーンさん、これからも日本文化を愛でつつ、鋭い論説を発し続け、そして長生きしてください。

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【映画】赤い鳥逃げた?2011/09/14

赤い鳥逃げた?
『赤い鳥逃げた?』(1973年・監督:藤田敏八)

原田芳雄追悼特集として日本映画専門チャンネルで放映された本作をチェックしたが、じつに70年代日本映画な、じつに藤田ビンパチな、じつに原田芳雄な逸品。

鬱屈した日々を送るアラフィー(28歳)な原田芳雄と、その弟分・大門正明、その恋人で名家から家出してきた桃井かおりの3人が織りなす、破天荒でビターな青春物語。

チンピラ兄貴と小心者の弟分という関係性は、後の『傷だらけの天使』(1974年)の原形を思わせ、そこへ若くて魅力的なオンナが侵入して男たちの関係が揺らぐ様は『俺たちの旅』(1975年)を想起させて、さらには桃井かおりという特異なキャラクターと後半のロードムービー展開からはどうしても『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)を思い起こしてしまう。

というように、もしやするとこのビンパチ・ワールドがその後の男男女ドラマに多大な影響を与えたやもしれないと妄想するが、もっともラストはボニー&クライドなので、本作自体もあの時代の(ニューが付いた)シネマ・ムーブメントからの影響は免れてはいないのだろう。

それにしても、若き原田芳雄のやさぐれ感は、まさに本作のテーマ・雰囲気(カラー)にピッタリで、地でいっていんだか何だがようわからんまま、まさに自然体で演じている(ように見える)。

それにも増して、終戦後30年にして廃墟だった東京の街並みはかくも変貌し、またこのようなセツナな若者たちを生んでいたことに感慨深い。改めてその急激な変容に驚くと同時に、3.11を経て本作から40年を経ていったいワタシたちの何が変わり、何が変わらなかったのか? という思いにも駆られてしまう…。

それはさておいても、冒頭に記したようにまさに70年代の空気を思いッきし吸い込んだこの日本版フィルム・ノワールは、原田芳雄の雄姿とともに後世に記憶されていい作品だと思う。
桃井かおりのまぶしい裸身も、ピコ(樋口康雄)のジャジーな音楽も、目に耳に残る。

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