【TV】鶴瓶の家族に乾杯 石巻・再会の旅 ― 2011/06/02
放映から数日経てしまったが、「テレビの可能性」を感じた一作として書き留めておきたいNHK「鶴瓶の家族に乾杯 石巻・再会の旅 (前・後編)」( 5月23日・30日)。
番組の趣旨を換言すれば、昨年(2010年)2月に番組収録で訪れた宮城県石巻を鶴瓶師匠が、さだまさし氏を伴って再訪するというもの。
そう、あの大震災で壊滅的な被害を受けた石巻を、だ。
だからこそこの番組は価値がある。
前編では、鶴瓶師匠が当地で出会った人たちの消息を訪ね歩くという、まさに「再会の旅」。日和山公園で出会ったサーファーの、津波のがれきな中を泳ぎきり九死に一生を得た体験をはじめ、師匠が再会する一人ひとりに凄まじい受難のドラマがあったことを思い知らされる。その一人ひとりと抱き合い、無事と再会を喜びあう鶴瓶師匠…。
そして、その“生きのびた”人びとの証言の一つひとつがまさに歴史的な価値を持ち、またかつてののどかで美しい風景と比較される、現在も続く被災地の惨状も、歴史の記憶として深くとどまる。
漁の盛んな石巻市渡波地区も壊滅的な被害を受けた。
“婚活中”とばかりに「夜のクラブ活動」に勤しんでいた、山田さんとも再会。だが、あのひょうきんだった山田さんもさすがに元気がない。それも無理はないだろう。北上川沿いに建てられていた自宅の根元がごっそりと削られ、津波に揉まれた1階は見るも無残な姿なのだ…。
ちなみにワタシの同級生の多くも、避難所から自宅に戻ったものの未だに2階暮らしを強いられているという…。つまりガス、水道、風呂がろくに使えないということだ。「復興」は、まだこれからなのだ。
後編では、津波を受けて閉館となった中石巻市民会館でかつてコンサートを開いたことがあるというさだ氏と共に、避難所になっている寺で落語&ミニコンサートを開く師匠たちを捉える。
鶴瓶師匠はかつてこの寺を訪れた際に、寺の住職に「落語会を開く」と約束した。師匠はこうして、今回の再訪で石巻と人びとと交わした約束を次々と果たしていく。つまり、“約束の旅”というじつにパーソナルな旅であり、ドキュメンタリーなのだ。
マスであるはずのテレビが、ここでは“個”に徹底する。個と個の関係性が、マスを超えてワタシたちの胸を打つ。そこにワタシはテレビの可能性を感じるのだ。
阪神大震災で“発見”されたラジオの役割は、此度の大震災でもその能力を大いに発揮したが、テレビでもラジオと同じように、あるいはラジオと違ったかたちでの役割が果たせることを示したのが本番組だったと思う。
それにしても鶴瓶師匠の“人たらしぶり”は流石で、出会う人、出会う人、どんな市井の人でも彼の話術と所作に操られるように見事に一人ひとりの“物語”が立ち上がってくる。
その“引き出し”の技(わざ)は、かの宮本常一に比してもおかしくないほどで、『ニッポン国・古屋敷村』で結実した小川プロによる映画的フィールドワークにも通じるものだ。
通奏するのは、一期一会の奇跡と、人と人をつなぐ絆。皮肉なことではあるが、震災という酷苦が、石巻を舞台にした一つのドラマを生んだ。(6月5日(日)16:45~17:30に後編が再放送予定)
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番組の趣旨を換言すれば、昨年(2010年)2月に番組収録で訪れた宮城県石巻を鶴瓶師匠が、さだまさし氏を伴って再訪するというもの。
そう、あの大震災で壊滅的な被害を受けた石巻を、だ。
だからこそこの番組は価値がある。
前編では、鶴瓶師匠が当地で出会った人たちの消息を訪ね歩くという、まさに「再会の旅」。日和山公園で出会ったサーファーの、津波のがれきな中を泳ぎきり九死に一生を得た体験をはじめ、師匠が再会する一人ひとりに凄まじい受難のドラマがあったことを思い知らされる。その一人ひとりと抱き合い、無事と再会を喜びあう鶴瓶師匠…。
そして、その“生きのびた”人びとの証言の一つひとつがまさに歴史的な価値を持ち、またかつてののどかで美しい風景と比較される、現在も続く被災地の惨状も、歴史の記憶として深くとどまる。
漁の盛んな石巻市渡波地区も壊滅的な被害を受けた。
“婚活中”とばかりに「夜のクラブ活動」に勤しんでいた、山田さんとも再会。だが、あのひょうきんだった山田さんもさすがに元気がない。それも無理はないだろう。北上川沿いに建てられていた自宅の根元がごっそりと削られ、津波に揉まれた1階は見るも無残な姿なのだ…。
ちなみにワタシの同級生の多くも、避難所から自宅に戻ったものの未だに2階暮らしを強いられているという…。つまりガス、水道、風呂がろくに使えないということだ。「復興」は、まだこれからなのだ。
後編では、津波を受けて閉館となった中石巻市民会館でかつてコンサートを開いたことがあるというさだ氏と共に、避難所になっている寺で落語&ミニコンサートを開く師匠たちを捉える。
鶴瓶師匠はかつてこの寺を訪れた際に、寺の住職に「落語会を開く」と約束した。師匠はこうして、今回の再訪で石巻と人びとと交わした約束を次々と果たしていく。つまり、“約束の旅”というじつにパーソナルな旅であり、ドキュメンタリーなのだ。
マスであるはずのテレビが、ここでは“個”に徹底する。個と個の関係性が、マスを超えてワタシたちの胸を打つ。そこにワタシはテレビの可能性を感じるのだ。
阪神大震災で“発見”されたラジオの役割は、此度の大震災でもその能力を大いに発揮したが、テレビでもラジオと同じように、あるいはラジオと違ったかたちでの役割が果たせることを示したのが本番組だったと思う。
それにしても鶴瓶師匠の“人たらしぶり”は流石で、出会う人、出会う人、どんな市井の人でも彼の話術と所作に操られるように見事に一人ひとりの“物語”が立ち上がってくる。
その“引き出し”の技(わざ)は、かの宮本常一に比してもおかしくないほどで、『ニッポン国・古屋敷村』で結実した小川プロによる映画的フィールドワークにも通じるものだ。
通奏するのは、一期一会の奇跡と、人と人をつなぐ絆。皮肉なことではあるが、震災という酷苦が、石巻を舞台にした一つのドラマを生んだ。(6月5日(日)16:45~17:30に後編が再放送予定)
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【演芸】浪曲定席木馬亭 ― 2011/06/04
先日木馬亭で聴いた三原佐知子師匠の名演にほだされて足を運んだ同席亭での定席「浪曲会」(6月4日)。
梅雨の晴れ間の浅草。観光やら散策を満喫する人波を抜けて、木馬亭に着いたときには、ちょうど神田陽司師匠による講談が始まっていた。
この人のプロフィールを読むと早稲田の一文を出て、あの「シティロード」編集部に入り演劇を担当、さらに副編集長まで務めていたというのだから驚く。
そうしたインテリ資質(?)を生かして、「レポート講談」なる新作を手がけているようで、本高座での「はやぶさ」を少年忍者に見立ての“サイエンス・ドキュメンタリー講談”も、そうした流れから創作されたものだろうか。
しかしながら、その着想や話の構成は面白いと思えるものの、ケレンというかキレというかが、もう一つ…。
もっともワタシの講談“生”見聞は、天才肌の神田山陽(3代目)、正統派ともいうべき宝井琴柳、中堅として安定感のある宝井琴調…の各師匠とわずかな体験なので、比較検討しようもないのだが。
続く、港家小柳師匠はハウリン・ウルフばりに唸るベテランの女流浪曲師だが、いかんせんお年のせいか(失礼)音程が不安定。
一方、三門柳師匠は高音を生かしての女性らしい(?)美声を聴かせる。ときとして“小唄”を聴いているような風情があり、さすが美声で鳴らした三門博門下。長谷川伸の名作「瞼の母」で座を沸かせ、トリの国本武春氏につなぐ。
“三味線ロック”などの活動で知られる国本氏の生ライブに触れるのもじつは初めて。若い女性(?)の固定客もついているようで、客席から黄色い声援が飛ぶ。
忠臣蔵「赤埴源蔵 徳利の別れ」を演ったが、これはもう安心して聴いていられる極上のパフォーマンス。迫力の唸りはもちろん、細かいビブラートを刻みながらケレン味たっぷりに聴かせる、聴かせる。情と笑いを交えた芝居でも、観客を見事に引き寄せて大団円。
もちろん浪曲界の現況などワタシごときには毛頭掴みようがないが、中堅からベテランの域に入り、実力もある人気者という国本師匠の立ち位置は、落語界の柳家喬太郎師匠のような存在なのかもしれない。
しかしながら、現在の落語界の興隆は喬太郎師匠に継ぐ中堅・若手の人材がワンサといる点にある。
はたして浪曲界はどのような状況下にあるのか。
Wilkiでチェックすると関東だけでも60名を超える浪曲師が散見できるのだが…。
モンガイカンであるワタシには、「浪曲の未来」を判断できずにいる。
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梅雨の晴れ間の浅草。観光やら散策を満喫する人波を抜けて、木馬亭に着いたときには、ちょうど神田陽司師匠による講談が始まっていた。
この人のプロフィールを読むと早稲田の一文を出て、あの「シティロード」編集部に入り演劇を担当、さらに副編集長まで務めていたというのだから驚く。
そうしたインテリ資質(?)を生かして、「レポート講談」なる新作を手がけているようで、本高座での「はやぶさ」を少年忍者に見立ての“サイエンス・ドキュメンタリー講談”も、そうした流れから創作されたものだろうか。
しかしながら、その着想や話の構成は面白いと思えるものの、ケレンというかキレというかが、もう一つ…。
もっともワタシの講談“生”見聞は、天才肌の神田山陽(3代目)、正統派ともいうべき宝井琴柳、中堅として安定感のある宝井琴調…の各師匠とわずかな体験なので、比較検討しようもないのだが。
続く、港家小柳師匠はハウリン・ウルフばりに唸るベテランの女流浪曲師だが、いかんせんお年のせいか(失礼)音程が不安定。
一方、三門柳師匠は高音を生かしての女性らしい(?)美声を聴かせる。ときとして“小唄”を聴いているような風情があり、さすが美声で鳴らした三門博門下。長谷川伸の名作「瞼の母」で座を沸かせ、トリの国本武春氏につなぐ。
“三味線ロック”などの活動で知られる国本氏の生ライブに触れるのもじつは初めて。若い女性(?)の固定客もついているようで、客席から黄色い声援が飛ぶ。
忠臣蔵「赤埴源蔵 徳利の別れ」を演ったが、これはもう安心して聴いていられる極上のパフォーマンス。迫力の唸りはもちろん、細かいビブラートを刻みながらケレン味たっぷりに聴かせる、聴かせる。情と笑いを交えた芝居でも、観客を見事に引き寄せて大団円。
もちろん浪曲界の現況などワタシごときには毛頭掴みようがないが、中堅からベテランの域に入り、実力もある人気者という国本師匠の立ち位置は、落語界の柳家喬太郎師匠のような存在なのかもしれない。
しかしながら、現在の落語界の興隆は喬太郎師匠に継ぐ中堅・若手の人材がワンサといる点にある。
はたして浪曲界はどのような状況下にあるのか。
Wilkiでチェックすると関東だけでも60名を超える浪曲師が散見できるのだが…。
モンガイカンであるワタシには、「浪曲の未来」を判断できずにいる。
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【アート】華麗なる日本の輸出工芸--世界を驚かせた精美の技 ― 2011/06/05
新作展でもないので紹介するつもりはなかったのだが、足を運んでみれば瞠目の企画展だったのが「華麗なる日本の輸出工芸 --世界を驚かせた精美の技」(6月4日・たばこと塩の博物館)
江戸~昭和初期に海外に輸出されたさまざまな工芸品約200点が展示されているのだが、そもそも外貨獲得のためにかくも大量の工芸品が“国策”として輸出していた事実からして知らずにいた。
しかも、そうした精巧で優美な工芸品の数々は欧米諸国で大変な人気を呼び、ジャポニズムという文化的流行を引き起こすきっかけにもなったという。
その作品を前にすれば、さもありなんとまずは得心する。
なにしろ美しい。いや、単なる“美”ではなく、その精巧さに妖しささえ漂う。
じっと見入ってしまう、吸い込まれていく、見飽きのこない秀麗な“美”が備わっている…。
展示はまず貝を素材とした「長崎青細工」に始まるのだが、それに目を奪われていると、さらにまるで 現在の3Dを先駆けるかのように、鳥獣や人・風景が画面から飛び出す「芝山細工」に驚かされる。
それらの技法が衝立や小物類の装飾に活かされ、独特の小宇宙がそこに宿り、ため息を誘う…。
さらに、「寄木細工」の技法はどうだろう。
この技法によって製作されたライティングテープルはまるでコックピットでないか。
書類立て、引き出し、小物入れなどが縦横矛盾、かつ機能的に組み合わせされ、異様なオーラを放ちながら、ただ一人のご主人(使用者)のために静かに鎮座している。
「飾棚」に至っては、これはもうミニチュア建築だ。架空の“中空の寺院”を、棚という意匠に閉じこめたじつにアバンギャルドな世界が拡がる。
展示に寄せられた解説にあるように、これらの工芸品を制作した職人たちの誇らしげな様子が伝ってくるような逸品が並ぶ。
意外だったのは、焼き付けた印画紙一枚一枚に彩色を施した明治の古写真で、これがアルフィーの坂崎幸之助氏のコレクションだという。たしかに当時の日本の風景がノスタルジックに切り取られる一方で、彩色によってその意図を超えたなポップな“作品”として、我々の前に立ち現れている。
そう考えると、日本の中で独自の進化を続けてきた、これらJ-CRAFTもまた、現在のJ-CULTUREと同じようにキュートでクールなものとして世界に熱烈歓迎されていたのだろう。
J-CULTUREがそうだったように、ワタシたち日本人が知らないところで、J-CRAFTの素晴らしさが“発見”されていたのだ。
そうした意味では、この企画展もまた、近年美術界の一つの潮流となもなっている「近代の見直し」につながる、“新しい視点”を誘うアート展といえる。
◆「華麗なる日本の輸出工芸」展の参考レビュー(*タイトル文責は森口)
「工芸の本来の姿を伝える貴重な史料」--artscape(新川徳彦氏)
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江戸~昭和初期に海外に輸出されたさまざまな工芸品約200点が展示されているのだが、そもそも外貨獲得のためにかくも大量の工芸品が“国策”として輸出していた事実からして知らずにいた。
しかも、そうした精巧で優美な工芸品の数々は欧米諸国で大変な人気を呼び、ジャポニズムという文化的流行を引き起こすきっかけにもなったという。
その作品を前にすれば、さもありなんとまずは得心する。
なにしろ美しい。いや、単なる“美”ではなく、その精巧さに妖しささえ漂う。
じっと見入ってしまう、吸い込まれていく、見飽きのこない秀麗な“美”が備わっている…。
展示はまず貝を素材とした「長崎青細工」に始まるのだが、それに目を奪われていると、さらにまるで 現在の3Dを先駆けるかのように、鳥獣や人・風景が画面から飛び出す「芝山細工」に驚かされる。
それらの技法が衝立や小物類の装飾に活かされ、独特の小宇宙がそこに宿り、ため息を誘う…。
さらに、「寄木細工」の技法はどうだろう。
この技法によって製作されたライティングテープルはまるでコックピットでないか。
書類立て、引き出し、小物入れなどが縦横矛盾、かつ機能的に組み合わせされ、異様なオーラを放ちながら、ただ一人のご主人(使用者)のために静かに鎮座している。
「飾棚」に至っては、これはもうミニチュア建築だ。架空の“中空の寺院”を、棚という意匠に閉じこめたじつにアバンギャルドな世界が拡がる。
展示に寄せられた解説にあるように、これらの工芸品を制作した職人たちの誇らしげな様子が伝ってくるような逸品が並ぶ。
意外だったのは、焼き付けた印画紙一枚一枚に彩色を施した明治の古写真で、これがアルフィーの坂崎幸之助氏のコレクションだという。たしかに当時の日本の風景がノスタルジックに切り取られる一方で、彩色によってその意図を超えたなポップな“作品”として、我々の前に立ち現れている。
そう考えると、日本の中で独自の進化を続けてきた、これらJ-CRAFTもまた、現在のJ-CULTUREと同じようにキュートでクールなものとして世界に熱烈歓迎されていたのだろう。
J-CULTUREがそうだったように、ワタシたち日本人が知らないところで、J-CRAFTの素晴らしさが“発見”されていたのだ。
そうした意味では、この企画展もまた、近年美術界の一つの潮流となもなっている「近代の見直し」につながる、“新しい視点”を誘うアート展といえる。
◆「華麗なる日本の輸出工芸」展の参考レビュー(*タイトル文責は森口)
「工芸の本来の姿を伝える貴重な史料」--artscape(新川徳彦氏)
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【TV】ETV特集「続報 放射能汚染地図」 ― 2011/06/06
やはり放映後、大きな反響を呼んだのであろう。
ETV特集『ネットワークでつくる放射能汚染地図 ~福島原発事故から2か月~』 (5月15日放送)の続編が急遽、「続報 放射能汚染地図」として昨晩(6月5日)放送された。
続編を決定づけたのは、前回放映後に福島第一原発正門から1.7キロ地点で採取した土壌の「調査結果を知りたい」という聴取者からの声が殺到したことによるようだ。
それはそうだろう。なにしろ汚染の本家本元が調査に応じないわけだから、その汚染元に最も近い地点の汚染状況がどうなっているのか、国民がいま最も知りたい重大事項ではないか。
検査結果の中でとりわけ注目されたのは、放射能の中でも猛毒を発するプルトニウムが検出されるかどうか…。
はたしてそれは検出されてしまい、またもやワタシたちはこの原発事故の重篤さを改めて思い知らされ、暗澹たる気分に陥る…。
今回はドキュメンタリーというのよりは、調査にあたった木村真三氏と岡野眞治博士を招いてのスタジオでのトークが中心であったが、それでも地元の要望で追加調査にあたった福島県南部のいわき市で新たなホットスポット(放射性物質が高レベルで検出される場所)が発見されるという驚愕の事実が明るみにされる。
というのもこの地域は計画的避難区域や緊急時避難準備区域から外れ住民は、何も知らされずにフツーの生活を送っているのだ。その数値は「飯館市と同じレベルで、チェルノブイリで言えば第2ゾーン。強制的避難地域です」という木村氏の言葉に、思わずのけぞりそうになる…。
本番組を観て、改めて国や行政に対して怒りが込み上げてくるのは、ワタシだけではないだろう。木村氏らが取り組んでいる調査は、本来、国や行政あるいは東電が率先して行うべきものではないのか? なぜ、心ある学者グループが実行できて、国や行政は出来ないのか?
地域ごとの放射能汚染レベルを測定し、細かい避難指示を出す。
それこそが、国や行政のやるべき仕事ではないのか!?
それにしてもここに登場する科学者たちが口を揃えて、「汚染の実態をきめ細かく調査したうえで、“住民の生活を基本”に考えて対処すべき」と意見していたことに、救われる思いがした…。
科学とは、いったい誰のためにあるのか?
それを放射能汚染地図をつくった科学者たちと、この番組は教えてくれている。
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ETV特集『ネットワークでつくる放射能汚染地図 ~福島原発事故から2か月~』 (5月15日放送)の続編が急遽、「続報 放射能汚染地図」として昨晩(6月5日)放送された。
続編を決定づけたのは、前回放映後に福島第一原発正門から1.7キロ地点で採取した土壌の「調査結果を知りたい」という聴取者からの声が殺到したことによるようだ。
それはそうだろう。なにしろ汚染の本家本元が調査に応じないわけだから、その汚染元に最も近い地点の汚染状況がどうなっているのか、国民がいま最も知りたい重大事項ではないか。
検査結果の中でとりわけ注目されたのは、放射能の中でも猛毒を発するプルトニウムが検出されるかどうか…。
はたしてそれは検出されてしまい、またもやワタシたちはこの原発事故の重篤さを改めて思い知らされ、暗澹たる気分に陥る…。
今回はドキュメンタリーというのよりは、調査にあたった木村真三氏と岡野眞治博士を招いてのスタジオでのトークが中心であったが、それでも地元の要望で追加調査にあたった福島県南部のいわき市で新たなホットスポット(放射性物質が高レベルで検出される場所)が発見されるという驚愕の事実が明るみにされる。
というのもこの地域は計画的避難区域や緊急時避難準備区域から外れ住民は、何も知らされずにフツーの生活を送っているのだ。その数値は「飯館市と同じレベルで、チェルノブイリで言えば第2ゾーン。強制的避難地域です」という木村氏の言葉に、思わずのけぞりそうになる…。
本番組を観て、改めて国や行政に対して怒りが込み上げてくるのは、ワタシだけではないだろう。木村氏らが取り組んでいる調査は、本来、国や行政あるいは東電が率先して行うべきものではないのか? なぜ、心ある学者グループが実行できて、国や行政は出来ないのか?
地域ごとの放射能汚染レベルを測定し、細かい避難指示を出す。
それこそが、国や行政のやるべき仕事ではないのか!?
それにしてもここに登場する科学者たちが口を揃えて、「汚染の実態をきめ細かく調査したうえで、“住民の生活を基本”に考えて対処すべき」と意見していたことに、救われる思いがした…。
科学とは、いったい誰のためにあるのか?
それを放射能汚染地図をつくった科学者たちと、この番組は教えてくれている。
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【映画】春との旅 ― 2011/06/07
『春との旅』(2010年・監督:小林政広)
『愛の予感』(2007年・ロカルノ国際映画祭グランプリ)で、ワタシたちに衝撃を与えた小林政広監督の最新作。
その『愛の~』では、中学生による同級生殺害事件を題材に、被害者と加害者の親同士の、えも言われぬヒリヒリとした関係をセリフを排除したドキュメンタリータッチで描いた同監督だが、本作では一転してセリフありストーリーありのストレートなドラマに真正面から取り組んでいる。
足の不自由な老人・忠男(仲代達矢)は妻に先立たれ、また娘も自死し、孫娘の春(徳永えり)と二人きりの生活を送っていた。ところが、春が職を失ったことで忠男は身を寄せる場所を探すために、兄弟たちを訪ね歩くのだが…。
いわゆる映画の常套であるロードムービーなのだが、祖父と娘というカップリングはたしかに新味であり、その旅から現代日本社会が抱える老人介護・福祉、雇用情勢、世代間格差、家族のあり方など、さまざまな問題が立ち上がってくる。
そういう意味では、山田洋次監督が列島を縦断する一家族の眼から観た高度経済のきしみを見事にとらえたロードムービーの傑作『家族』(1970年)に相通じるものがあるし、見方によっては好き勝手に生きてきた挙げ句に兄弟から見放される忠男の姿に、寅さんの末路をダブらせることもできる…。
しかしまた、当初、忠男を主軸に置くことで転がっていた“物語”が、やがて母(忠男の娘)の自死の秘密が明かされるあたりから、次第に春の物語へと転換していく。このあたりの小林監督の作劇のうまさが光る。
仲代をはじめ大滝秀治、淡島千景、菅井きん、小林薫、田中裕子、柄本明、香川照之といったひとクセもふたクセもある“大物”が顔を揃えたオールスターキャストであることからも、この監督の“演出””がいかに信望されているかがわかる。
ただ、ワタシには絶賛されたという仲代氏の演技がワザとらしく感じ、やや鼻白んだ。また、『愛の~』では“静寂”がじつに緊迫としたドラマを生んでいたが、ここでは全編に響きわたる音楽(佐久間順平)がかえって作品の邪魔をしていたような気がする。
それらが減点となり、残念ながら“傑作”には至らず。
◆『春との旅』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「日本が直面している問題を浮き彫りに」-- L-Cruise・日経トレンディネット(安部 偲氏)
「ひたすら引く波のような安堵と救済」--trivialities & realities
「悲しみを帯びたハッピーエンド」--映画通信シネマッシモ(渡まち子氏)
「家族、そして人と人との絆の大切さを説いた秀作」--未完の映画評
「『東京物語』が連想されるロードムービー」--映画瓦版
「大津波に見舞われた家族の物語」--再出発日記
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『愛の予感』(2007年・ロカルノ国際映画祭グランプリ)で、ワタシたちに衝撃を与えた小林政広監督の最新作。
その『愛の~』では、中学生による同級生殺害事件を題材に、被害者と加害者の親同士の、えも言われぬヒリヒリとした関係をセリフを排除したドキュメンタリータッチで描いた同監督だが、本作では一転してセリフありストーリーありのストレートなドラマに真正面から取り組んでいる。
足の不自由な老人・忠男(仲代達矢)は妻に先立たれ、また娘も自死し、孫娘の春(徳永えり)と二人きりの生活を送っていた。ところが、春が職を失ったことで忠男は身を寄せる場所を探すために、兄弟たちを訪ね歩くのだが…。
いわゆる映画の常套であるロードムービーなのだが、祖父と娘というカップリングはたしかに新味であり、その旅から現代日本社会が抱える老人介護・福祉、雇用情勢、世代間格差、家族のあり方など、さまざまな問題が立ち上がってくる。
そういう意味では、山田洋次監督が列島を縦断する一家族の眼から観た高度経済のきしみを見事にとらえたロードムービーの傑作『家族』(1970年)に相通じるものがあるし、見方によっては好き勝手に生きてきた挙げ句に兄弟から見放される忠男の姿に、寅さんの末路をダブらせることもできる…。
しかしまた、当初、忠男を主軸に置くことで転がっていた“物語”が、やがて母(忠男の娘)の自死の秘密が明かされるあたりから、次第に春の物語へと転換していく。このあたりの小林監督の作劇のうまさが光る。
仲代をはじめ大滝秀治、淡島千景、菅井きん、小林薫、田中裕子、柄本明、香川照之といったひとクセもふたクセもある“大物”が顔を揃えたオールスターキャストであることからも、この監督の“演出””がいかに信望されているかがわかる。
ただ、ワタシには絶賛されたという仲代氏の演技がワザとらしく感じ、やや鼻白んだ。また、『愛の~』では“静寂”がじつに緊迫としたドラマを生んでいたが、ここでは全編に響きわたる音楽(佐久間順平)がかえって作品の邪魔をしていたような気がする。
それらが減点となり、残念ながら“傑作”には至らず。
◆『春との旅』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「日本が直面している問題を浮き彫りに」-- L-Cruise・日経トレンディネット(安部 偲氏)
「ひたすら引く波のような安堵と救済」--trivialities & realities
「悲しみを帯びたハッピーエンド」--映画通信シネマッシモ(渡まち子氏)
「家族、そして人と人との絆の大切さを説いた秀作」--未完の映画評
「『東京物語』が連想されるロードムービー」--映画瓦版
「大津波に見舞われた家族の物語」--再出発日記
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【アート】ジパング展 ― 2011/06/08
日本の現代アートを担うとされる31人の気鋭作家が出展した「ジパング展」に足を運ぶ(6月8日・日本橋高島屋)
まず印象に残るのは、その多様な表現方法だ。
絵画、彫刻、立体、版画、映像など、「かたち」にこだわらない表現はもとより、和紙、木、アクリル、樹脂、顔料、リンサムニウム、鉛筆などさまざまな素材や画材が駆使された作品群に、その自由度と解放感が感じられる。
まさに、表現もその手法も、百花繚乱の様相を呈した作品展となっている。
ビデオ作品も出展している鴻池朋子氏による屏風に描かれた骸骨画「無題」や、会田誠氏が描く少女が巨大な両生類と戯れる「大山椒魚」からは、先日企画された「日本画の洋画」から綿々と続くアンビバレンツな和洋の衝動が感じられ、山口藍氏の“ふとんキャンバス”に描かれた「道すがら」からはアウトサイダー・アートのヘンリー・ダーガーが生み出した“ヴィヴィアン・ガールズ”へのオマージュを妄想する。
上田順平氏の「ウラシマ・ピーターパン」ら3対のオブジェもまた和洋のクロスカップリングを施すことでポップな笑いを生み出し、小谷元彦氏ばりに緻密な造形を生み出した森淳一氏の造形作品は、その素材(木)から静かな“生命感”を放つ。
“緻密”といえばこの人をおいて他にない池田学氏は、石と木々に囲まれて佇む大作「ブッダ」から、ロボット蟹がうごめく「航路」、ラピュタを連想させる「地下の種」などを出展し、その存在感を示す。
池田氏と対面に展示された三瀬夏之ヶ介氏による巨大な「だから僕はこの一瞬を永遠のものにしてみせる」は、そのおどろおどろしい迫力と和紙に墨という素材も相まってまるで現代の丸木位里を思わせる。
個展を見逃してしまった岡本映理氏は、カラフルな色使いの緻密画「奪還」で裏ディズニーのような異世界を、人気の束芋氏は古き下町を再現したかのような家屋のオブジェを覗くとアニメが流れる仕掛けで、妖し懐かしい世界を表出する。
通奏するのは、「和」だ。
だからこそ、本展を企画したミヅマアートギャラリーの三潴(みづま)末雄ディレクターは「ジパング展」と命名したのだろうが、じつのところワタシには本展はキュレーターの“意志”はあまり感じられず、とりあえず氏のお気に入りのアーティストの和テイストの作品を並べてみました…という印象。
作品解説や出展一覧も用意されておらず、若手現代アーティストのショーケース・ライブといった感じだ。「企画展」としては物足りなさを感じるが、あえて解説を排し、“素”のままに作品に触れてください、というのが本展の意図するところなのかもしれない。
そうした意味で、“素”のワタシを捉えたのは、展示の最終コーナーに置かれた二人の女性作家の作品だった。
風間サチコ氏による「大日本防空戦士・2670」(上図)と題された巨大“版画”では、鎧をまとった“スラムキング”を思わせる巨人がゴジラのようにビルの谷間にそそり立ち、兵士たちの攻撃と対峙する。
はたしてこの戦争は過去のものなのか、未来を暗示するものなのか?
異様な迫力で観る者にその問いを迫る。
そして、熊澤未来子氏の「浸食」。
セーラー服の少女からゴミ箱から人形から交通標識まで、ありとあらゆるものがブラックホールに吸い込まれるかのように、球体ガジェットと化してキャンバスに渦巻く。
それもまた、われわれの社会の写し絵として、鋭く提示される。
この二人の若い作家と出会えたことでも、ワタシにとっても収穫であった。
それにしても、最後に展示された指江昌克氏の「MOON」はじつに暗示的だ。
2009年の作品だというが、ガレキの上に、救い出されたかのような昭和レトロな店々が球体となって中空にポッカリと浮かぶ不思議な絵図。背景には暗くよどんだ雲の下に、かすかに明るい空が拡がる…。
この絵をあえて最後に展示したこともまた、企画者の意図なのだろうか…。
◆「ジパング展」の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「現代アートの名作が目白押し」--弐代目・青い日記帳
「保証書付きの現代美術の展覧会」--noricolumn
「31人もの大デレゲーション持ち味の異なる作品が並ぶ」--Art & Bell by Tora
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まず印象に残るのは、その多様な表現方法だ。
絵画、彫刻、立体、版画、映像など、「かたち」にこだわらない表現はもとより、和紙、木、アクリル、樹脂、顔料、リンサムニウム、鉛筆などさまざまな素材や画材が駆使された作品群に、その自由度と解放感が感じられる。
まさに、表現もその手法も、百花繚乱の様相を呈した作品展となっている。
ビデオ作品も出展している鴻池朋子氏による屏風に描かれた骸骨画「無題」や、会田誠氏が描く少女が巨大な両生類と戯れる「大山椒魚」からは、先日企画された「日本画の洋画」から綿々と続くアンビバレンツな和洋の衝動が感じられ、山口藍氏の“ふとんキャンバス”に描かれた「道すがら」からはアウトサイダー・アートのヘンリー・ダーガーが生み出した“ヴィヴィアン・ガールズ”へのオマージュを妄想する。
上田順平氏の「ウラシマ・ピーターパン」ら3対のオブジェもまた和洋のクロスカップリングを施すことでポップな笑いを生み出し、小谷元彦氏ばりに緻密な造形を生み出した森淳一氏の造形作品は、その素材(木)から静かな“生命感”を放つ。
“緻密”といえばこの人をおいて他にない池田学氏は、石と木々に囲まれて佇む大作「ブッダ」から、ロボット蟹がうごめく「航路」、ラピュタを連想させる「地下の種」などを出展し、その存在感を示す。
池田氏と対面に展示された三瀬夏之ヶ介氏による巨大な「だから僕はこの一瞬を永遠のものにしてみせる」は、そのおどろおどろしい迫力と和紙に墨という素材も相まってまるで現代の丸木位里を思わせる。
個展を見逃してしまった岡本映理氏は、カラフルな色使いの緻密画「奪還」で裏ディズニーのような異世界を、人気の束芋氏は古き下町を再現したかのような家屋のオブジェを覗くとアニメが流れる仕掛けで、妖し懐かしい世界を表出する。
通奏するのは、「和」だ。
だからこそ、本展を企画したミヅマアートギャラリーの三潴(みづま)末雄ディレクターは「ジパング展」と命名したのだろうが、じつのところワタシには本展はキュレーターの“意志”はあまり感じられず、とりあえず氏のお気に入りのアーティストの和テイストの作品を並べてみました…という印象。
作品解説や出展一覧も用意されておらず、若手現代アーティストのショーケース・ライブといった感じだ。「企画展」としては物足りなさを感じるが、あえて解説を排し、“素”のままに作品に触れてください、というのが本展の意図するところなのかもしれない。
そうした意味で、“素”のワタシを捉えたのは、展示の最終コーナーに置かれた二人の女性作家の作品だった。
風間サチコ氏による「大日本防空戦士・2670」(上図)と題された巨大“版画”では、鎧をまとった“スラムキング”を思わせる巨人がゴジラのようにビルの谷間にそそり立ち、兵士たちの攻撃と対峙する。
はたしてこの戦争は過去のものなのか、未来を暗示するものなのか?
異様な迫力で観る者にその問いを迫る。
そして、熊澤未来子氏の「浸食」。
セーラー服の少女からゴミ箱から人形から交通標識まで、ありとあらゆるものがブラックホールに吸い込まれるかのように、球体ガジェットと化してキャンバスに渦巻く。
それもまた、われわれの社会の写し絵として、鋭く提示される。
この二人の若い作家と出会えたことでも、ワタシにとっても収穫であった。
それにしても、最後に展示された指江昌克氏の「MOON」はじつに暗示的だ。
2009年の作品だというが、ガレキの上に、救い出されたかのような昭和レトロな店々が球体となって中空にポッカリと浮かぶ不思議な絵図。背景には暗くよどんだ雲の下に、かすかに明るい空が拡がる…。
この絵をあえて最後に展示したこともまた、企画者の意図なのだろうか…。
◆「ジパング展」の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「現代アートの名作が目白押し」--弐代目・青い日記帳
「保証書付きの現代美術の展覧会」--noricolumn
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【本】メディアと日本人--変わりゆく日常 ― 2011/06/12
メディアと日本人――変わりゆく日常 (岩波新書) 橋元 良明 岩波書店 2011-03-19 売り上げランキング : 1929 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
本書を読まれた方から、おそらく寄せられるであろうコメントの一つは、メディアの盛衰を語る際、それらが伝える内容、質への言及がほとんどない、というものだろう。
著者自らがこう記すように、本書は江戸前期から現代に至るまでの「メディアと日本人」の関係を、冷静な“データ”解析よって読み解いた本である。
なにしろ冒頭から、1590年(!)に天正遣欧少年使節によってグーテンベルク印刷機が持ちこれまれていたという事実に驚かされ、「日本に立ち寄った西洋人たちは、現代でもしばしば指摘される日本人の知的好奇心や外国文化受容の柔軟性、模倣能力もつとに指摘していた」として、「近代日本人の情報意識」を紐解き始める。
この1章で、新聞、ラジオ、電話、テレビ、インターネットの登場とその影響・広がりについて俯瞰し、2章ではその利用実態の変遷を詳らかにする。
3章からはやや視点を変え、「メディアの『悪影響』」「ネット世代のメンタリティー」の考察へと続く。
なにしろデータ主義だ。
そこには壮大なドラマも、著者によるおしつけがしまい論もない。
データに基づいた解析文が淡々と続くのだが、時折、著者独特の眼力がギラリと光を放つ。
例えば、「電話の登場とその影響」(1章)では、「携帯電話は、固定電話が我々にもたらした影響の一つの『空間の再配置・モザイク化』をさらに進めた」として、著者らによる若年層対象の調査で「携帯電話の通信の相手で、最も頻繁にやり取りするのは身近な親友であった」ことを引いて、「電話は『心理的隣人』を創出したと言われたが、携帯電話は『心理的同居人』を作り出した」と結論づける。
また、「テレビの衝撃」(同)では、「精神世界におけるテレビの最大の『功績』は、原初的な視覚世界を復権させたことであろう」として…
ヒトが、その処理能力において圧倒的優位性を誇る視覚情報を、日常的に十全にメディア上のコミュニケーションに載せることができるようになったのはテレビの登場以降である。テレビの普及以降、雑誌、書籍でも写真などグラフィカルな要素が多用されはじめたことは、テレビが視覚動物本能を刺激したことと無関係ではなかろう。
…と興味深いテレビ/視覚論を展開する。
また、「携帯ネットの長時間利用」に触れて、「今の多くの若者にとって、日本も将来も自分が見えない」「若者層全体を覆う『心理的巣籠もり』現象である」と指摘し、「多くの若者が、SNS、ミニブログの世界から、言いっぱなしが許されるTwirtterに流れていく心理がわかるような気がする」と、若者たちの閉塞感に寄り添う…。
一方で、喧伝される「メディアの悪影響」については、さまざまなデータを引き合いにNO!を突きつけ、「ネットがテレビを衰退させた」論についても疑義を唱える…といった具合。
冒頭の“批判”に対する著者の反論はこうだ。
メディアの変化によって、中身にも変容が生じていること。さらには我々の世界認識にも影響が及びうる(略) 私たちの日常は変わりつつある
この主張こそが、本書の基調をなすものだ。
メディアの変容に興味ある方は、読んで損のない一冊。
◆『メディアと日本人』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「データが覆す、読みがいのある新書」--asahi.com(姜尚中氏)
「『煽り』がない信頼できる実証的な研究」--見もの・読みもの日記
「社会とメディアの関係について考える上で非常に有益な本」--山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期
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【映画】戦場でワルツを ― 2011/06/14
『戦場でワルツを』(2008年・監督:アリ・フォルマン)
2008年のアカデミー外国語賞を『おくりびと』と競った、レバノン内戦の悲劇を斬新なアニメーション手法で描いた作品。
なるほど、冒頭からアメリカン・コミックを思わせる人物の輪郭をクッキリと描き、実写の演技をアニメに興したかのようなスタイリッシュな手法には、ぐっと引き込まれる。
冒頭の犬に追われる“夢”のシーンからしてスリリングで、何度も再現される照明弾が灯る夜の海や海原で巨大裸女と戯れる幻想的な場面など、アニメならではの見どころも少なくない。
写実的ではあるが、どこかメルヘンチックな世界。
監督自身が本人役として登場し、レバノン内戦時の“忘れられた記憶”をたどっていくという夢の道程を描く意味でも、この手法を選択したことは当然の帰結だったのかもしれない。
しかしながらワタシは、物語が進むうちにこのアニメ手法が、しだいに疎ましいものに感じてしまった…。なぜなら、本作はアニメではあっても、れっきとしたドキュメンタリー作品だからだ。
作者(監督)自身がぬぐい去りがたい過去と向き合い、自身が19歳の時にその場に立ち会った「サブラ・シャティーラの虐殺」を告発した映画なのだ。
ならば、戦闘シーンや夢、幻覚(想)シーンはともかく、本人役として登場している人物は実写で描くべきだったのではないだろうか?
そのあたりの事情をネットで探ってみると、どうやら「自分で書いた脚本をもとにまず実写で撮影し、そのビデオをもとにアニメをつくりあげていった」(フォルマン監督(という。
「中年の男が、25年前の暗い過去について取材する様子を、当時の映像もないままに語っていたら退屈な作品になってしまう」ということらしい…。
そうした事情はあるにせよ、レバノン内戦の社会的背景に疎いこともあって、ワタシにはどうもそのアニメのゆったりとした動きに冗長な印象を受けてしまった。
タイトルに由来する戦場のライフル乱射シーンも、それほど衝撃的ではなく、やはりインパクトがあるのはラストの“実写”だ。
そこでは“虐殺”後の生々しいニュース映像が、ワタシたちを突き刺し、重い軛をもって問いかける。
だからこそ中途半端なアニメに逃げないでほしかったというのが、ワタシの本音だ。
◆『戦場でワルツを』の参照レビューの一覧(*タイトル文責は森口)
「映画史に確かな足跡を残す作品」--映画通信シネマッシモ(渡まち子氏)
「アニメと現実の狭間の不思議なトリップ」--映画ジャッジ!(岡本太陽氏)
「ドキュメンタリー・アニメーションという独自の映像表現」--映画ジャッジ!(山口拓朗氏)
「ラストで一転、ざらついた『真実』が登場するショック」--映画ジャッジ!(小梶勝男氏)
「"架空の世界"のアニメで"事実を記録する"試み」--映画のメモ帳+α
「表現のつたなさは否定できない」--シネマポスト
「虚無と悲しみが覆う実体験を描いた作品」--asahi.com(宮崎陽介氏)
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2008年のアカデミー外国語賞を『おくりびと』と競った、レバノン内戦の悲劇を斬新なアニメーション手法で描いた作品。
なるほど、冒頭からアメリカン・コミックを思わせる人物の輪郭をクッキリと描き、実写の演技をアニメに興したかのようなスタイリッシュな手法には、ぐっと引き込まれる。
冒頭の犬に追われる“夢”のシーンからしてスリリングで、何度も再現される照明弾が灯る夜の海や海原で巨大裸女と戯れる幻想的な場面など、アニメならではの見どころも少なくない。
写実的ではあるが、どこかメルヘンチックな世界。
監督自身が本人役として登場し、レバノン内戦時の“忘れられた記憶”をたどっていくという夢の道程を描く意味でも、この手法を選択したことは当然の帰結だったのかもしれない。
しかしながらワタシは、物語が進むうちにこのアニメ手法が、しだいに疎ましいものに感じてしまった…。なぜなら、本作はアニメではあっても、れっきとしたドキュメンタリー作品だからだ。
作者(監督)自身がぬぐい去りがたい過去と向き合い、自身が19歳の時にその場に立ち会った「サブラ・シャティーラの虐殺」を告発した映画なのだ。
ならば、戦闘シーンや夢、幻覚(想)シーンはともかく、本人役として登場している人物は実写で描くべきだったのではないだろうか?
そのあたりの事情をネットで探ってみると、どうやら「自分で書いた脚本をもとにまず実写で撮影し、そのビデオをもとにアニメをつくりあげていった」(フォルマン監督(という。
「中年の男が、25年前の暗い過去について取材する様子を、当時の映像もないままに語っていたら退屈な作品になってしまう」ということらしい…。
そうした事情はあるにせよ、レバノン内戦の社会的背景に疎いこともあって、ワタシにはどうもそのアニメのゆったりとした動きに冗長な印象を受けてしまった。
タイトルに由来する戦場のライフル乱射シーンも、それほど衝撃的ではなく、やはりインパクトがあるのはラストの“実写”だ。
そこでは“虐殺”後の生々しいニュース映像が、ワタシたちを突き刺し、重い軛をもって問いかける。
だからこそ中途半端なアニメに逃げないでほしかったというのが、ワタシの本音だ。
◆『戦場でワルツを』の参照レビューの一覧(*タイトル文責は森口)
「映画史に確かな足跡を残す作品」--映画通信シネマッシモ(渡まち子氏)
「アニメと現実の狭間の不思議なトリップ」--映画ジャッジ!(岡本太陽氏)
「ドキュメンタリー・アニメーションという独自の映像表現」--映画ジャッジ!(山口拓朗氏)
「ラストで一転、ざらついた『真実』が登場するショック」--映画ジャッジ!(小梶勝男氏)
「"架空の世界"のアニメで"事実を記録する"試み」--映画のメモ帳+α
「表現のつたなさは否定できない」--シネマポスト
「虚無と悲しみが覆う実体験を描いた作品」--asahi.com(宮崎陽介氏)
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【CD】河内音頭三音会オールスターズ/東京殴り込みライヴ 完全盤 ― 2011/06/15
東京殴り込みライヴ『完全盤』 河内音頭三音会オールスターズ 歌舞音曲 2011-05-22 売り上げランキング : 14715 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
1982年7月、関東で初めて行われた本格的な河内音頭ライヴの記録として、またその名演を見事にパッケージした音源として、30年の時を経てもまったく色褪せることがない。
当時、この河内音頭の“東京殴り込み”は、文字サルサのファニア・オールスターズ来日公演(1976)、喜納昌吉&ザ・チャンプルーズの東京上陸ライヴ(1977)と比して語られるほど、音楽通から熱狂的な歓迎を受けた。
つまり大阪の一地域(河内)で愛好されていたローカル・盆ダンスミュージックが、東京の音楽ファンから“ワールドミュージック”として「発見」された、その歴史的な瞬間をとらえたものなのだ。
河内音頭の魅力。
ワタシもその妖力に魅せられ、本盤が収録された錦糸町・銀星劇場(パチンコ屋の2Fだった)に居合わせた一人だが、とにかく演目は「赤城の子守歌」や「無法松の一生」といった無頼の伝承的な歌物語にもかかわらず(だからこそ、か)、緩急自在ともいえる音頭取り(ヴォーカル)と伴奏(三味線、ギター、太鼓、囃子)とのインタープレイの応酬とめくるめくグルーヴの底無し沼に熱く興奮したものだ。
なかでも、転がるように音頭にまとわりつく、エレキ・ギターには瞠目で、その奏法はまさに“発明”ともいえる画期的なものだった。
いわば、ドーナル・ラニーがギリシャやバルカン半島の民俗楽器であったブズーキをアイリッシュ・ミュージックに持ち込んだことで、それが異化反応を起こし世界的なブレイクしたように、この現代的なエレクトリック楽器が、河内音頭に現代に響く生命力を持ち込んだことは想像に難くない。
まさに河内音頭は、当時の東京者(モン)にとって、土着のエネルギーとモダンがスパークした最新型の音楽だった。
ここでは三音家浅王丸と三音家あきらという二人の音頭取りの熱唱が楽しめるが、やはり浅王丸師匠のそれは当代髄一。コブシ、唸り、語り、いずれも微妙な引き押し・強弱をつけたその音頭ワールドを堪能できる。
赤城の子守歌/三音家浅王丸
「完全盤」と謳うだけに、旧盤では削除されていた吉野夫二郎作詞・古賀政男作曲の「無法松の一生」の一節がそのまま生かされた(④「歌入り無法松の一生」)。ただし、新たに追加録音されたダブ仕様の「赤城の子守歌惰撫」は、本盤にはそぐわない気がする。
こうなれば、幻の“名カセット”『浅丸のいない夏』もぜひ復刻してほしいものだ。
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【映画】トゥルー・グリット ― 2011/06/16
『トゥルー・グリット』(2010年・監督:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン)
ジョン・ウェイン主演の『勇気ある追跡』(1969)をジェフ・ブリッジス主演で、コーエン兄弟がリメイクした話題作だが、『勇気~』は未見(たぶん)なのでワタシには本家との比較はできない。が、さすがコーエン兄弟!と手を打ちたくなるような、魅力ある作品に仕上がっている。
“魅力”の第一は、父親の復讐を誓う14歳の少女マティ(ヘイリー・スタインフェルド)のキャラクターだ。父親を雇い人のチェイニー(ジョシュ・ブローリン)に殺されたマティは、遺体の引き取りとともに復讐を果たすために、街へとやって来る。
犯人追跡の資金をつくるために、遺体置き場を宿とし、商人と掛け合うマティ。冒頭から智恵と度胸で、大人たちと対等以上に渡り合うこの少女パワーに、観客は一気に西部劇を舞台にした少女活劇の世界に引き込まれる。
その、いたいけでこまっしゃくれたキャラは、“守ってあげたい”と思わせると同時に頼もしきジャンヌ・ダルクでもあり、宮崎アニメによってその洗礼を受けているワタシたちにとっては、「ナウシカ」や「千尋」を想起する。
そこに、大酒飲みで片目(アイパッチ)の連邦保安官ルースター(ブリッジス)が疑似・父として、また、かねてからチェイニーを追い続けてきたテキサス・レンジャーの若きラビーフ(マット・デイモン)も疑似・恋人としてこの追跡劇に加わり、役者が揃う。
グラミー賞では、スタインフェルドが助演女優賞に、ブリッジスが主演男優賞にノミネートされたが、「助演」というにはあまりの「主演」ぶりだし、ブリッジスの凄味さえ感じさせるやさぐれ感は、主演賞に輝いた『クレイジー・ハート』より本作の方が、ワタシは好き。
その、それぞれのキャラを全開させたセリフも見事で、大自然をバックにしたアクション・サスペンス劇であるにもかかわらず、味のあるセリフ劇も堪能できるという寸法。このあたり、コーエン兄弟の上手さがじつによく出ていると思う。
しかしながら、いくらなんでも14歳の小娘が犯人追跡に同行すれば足手まといになるのは明白で、荒唐無稽な“ありえな~い”展開はまるでコミックかコメディのよう。
そもそも、マティがなぜそこまで執拗に復讐や追跡の同行にこだわるのか? あるいはなぜ、法律やラテン語の知識まで持ち得ているのか、説明がなされていない。
その謎を解くカギは、全編を覆う宗教的寓話的なトーンにあるのかもしれない…。
冒頭スクリーンに写し出された「天罰は必ず下される」という一節も旧約聖書から引かれたものらしく、セリフ中にもたびたび宗教的な引用が施される。
もしやワタシのようなニッポン生まれでニッポン育ちの浅学には量りえない宗教的なモチーフが隠され、何らかの宗教体験を持つ欧米の観客ならば、マティやルースターたちの行動にある宗教的なモチベーションやこの物語の背景などもまたたく理解されているのかもしれない。
そういえば、同じコーエン兄弟によるアメリカ南部を舞台にした『オー・ブラザー!』も寓話的な喜劇であったし、その一方で不気味な殺人鬼を描いた『ノーカントリー』もまた、(今にしてみれば)どこかコーエン兄弟の死生観漂う宗教的な作品だったような気がする。そのあたりは、コーエン兄弟がユダヤ人であるということも関係しているのかもしれない…。
いずれにせよ、マティのその後の人生に「天罰」らしきものが施されたこともまた、そうした背景があってのことだろうと推察し、その神話的なラストに至極納得をするのだ。
◆『トゥルー・グリット』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「西部劇の体裁ながら、宗教寓話的ファンタジーが魅力」--「らりるれろ」通信 Remark On The MGS
「『現在』の背後に『過去』が隠された新機軸」--粉川哲夫のシネマノート
「批評家的思いを注ぎ込んで飛躍したリメイク作」--THE MAINSTREAM
「オフビートな感動をクライマックスに用意」--日刊サイゾー(長野辰次氏)
「復讐劇、ロードムービー、そして奇妙な友情の物語」--映画通信シネマッシモ(渡まち子氏)
「コーエン兄弟映画の新たな展開」--お楽しみはココからだ~ 映画をもっと楽しむ方法
「不幸大好きのコーエン兄弟らしい演出」--LOVE Cinemas 調布
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ジョン・ウェイン主演の『勇気ある追跡』(1969)をジェフ・ブリッジス主演で、コーエン兄弟がリメイクした話題作だが、『勇気~』は未見(たぶん)なのでワタシには本家との比較はできない。が、さすがコーエン兄弟!と手を打ちたくなるような、魅力ある作品に仕上がっている。
“魅力”の第一は、父親の復讐を誓う14歳の少女マティ(ヘイリー・スタインフェルド)のキャラクターだ。父親を雇い人のチェイニー(ジョシュ・ブローリン)に殺されたマティは、遺体の引き取りとともに復讐を果たすために、街へとやって来る。
犯人追跡の資金をつくるために、遺体置き場を宿とし、商人と掛け合うマティ。冒頭から智恵と度胸で、大人たちと対等以上に渡り合うこの少女パワーに、観客は一気に西部劇を舞台にした少女活劇の世界に引き込まれる。
その、いたいけでこまっしゃくれたキャラは、“守ってあげたい”と思わせると同時に頼もしきジャンヌ・ダルクでもあり、宮崎アニメによってその洗礼を受けているワタシたちにとっては、「ナウシカ」や「千尋」を想起する。
そこに、大酒飲みで片目(アイパッチ)の連邦保安官ルースター(ブリッジス)が疑似・父として、また、かねてからチェイニーを追い続けてきたテキサス・レンジャーの若きラビーフ(マット・デイモン)も疑似・恋人としてこの追跡劇に加わり、役者が揃う。
グラミー賞では、スタインフェルドが助演女優賞に、ブリッジスが主演男優賞にノミネートされたが、「助演」というにはあまりの「主演」ぶりだし、ブリッジスの凄味さえ感じさせるやさぐれ感は、主演賞に輝いた『クレイジー・ハート』より本作の方が、ワタシは好き。
その、それぞれのキャラを全開させたセリフも見事で、大自然をバックにしたアクション・サスペンス劇であるにもかかわらず、味のあるセリフ劇も堪能できるという寸法。このあたり、コーエン兄弟の上手さがじつによく出ていると思う。
しかしながら、いくらなんでも14歳の小娘が犯人追跡に同行すれば足手まといになるのは明白で、荒唐無稽な“ありえな~い”展開はまるでコミックかコメディのよう。
そもそも、マティがなぜそこまで執拗に復讐や追跡の同行にこだわるのか? あるいはなぜ、法律やラテン語の知識まで持ち得ているのか、説明がなされていない。
その謎を解くカギは、全編を覆う宗教的寓話的なトーンにあるのかもしれない…。
冒頭スクリーンに写し出された「天罰は必ず下される」という一節も旧約聖書から引かれたものらしく、セリフ中にもたびたび宗教的な引用が施される。
もしやワタシのようなニッポン生まれでニッポン育ちの浅学には量りえない宗教的なモチーフが隠され、何らかの宗教体験を持つ欧米の観客ならば、マティやルースターたちの行動にある宗教的なモチベーションやこの物語の背景などもまたたく理解されているのかもしれない。
そういえば、同じコーエン兄弟によるアメリカ南部を舞台にした『オー・ブラザー!』も寓話的な喜劇であったし、その一方で不気味な殺人鬼を描いた『ノーカントリー』もまた、(今にしてみれば)どこかコーエン兄弟の死生観漂う宗教的な作品だったような気がする。そのあたりは、コーエン兄弟がユダヤ人であるということも関係しているのかもしれない…。
いずれにせよ、マティのその後の人生に「天罰」らしきものが施されたこともまた、そうした背景があってのことだろうと推察し、その神話的なラストに至極納得をするのだ。
◆『トゥルー・グリット』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「西部劇の体裁ながら、宗教寓話的ファンタジーが魅力」--「らりるれろ」通信 Remark On The MGS
「『現在』の背後に『過去』が隠された新機軸」--粉川哲夫のシネマノート
「批評家的思いを注ぎ込んで飛躍したリメイク作」--THE MAINSTREAM
「オフビートな感動をクライマックスに用意」--日刊サイゾー(長野辰次氏)
「復讐劇、ロードムービー、そして奇妙な友情の物語」--映画通信シネマッシモ(渡まち子氏)
「コーエン兄弟映画の新たな展開」--お楽しみはココからだ~ 映画をもっと楽しむ方法
「不幸大好きのコーエン兄弟らしい演出」--LOVE Cinemas 調布
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