リニューアルのお知らせ2010/12/01

本ブログを開設してこの12月でちょうど1年になります。
今までさまざまなプチ・リニューアルを行ってきましたが、今回改めていくつかの修正を行ないました。

まず、サブタイトルを「このブログについて」の説明に合せて
Multi Culture Review Blog と修正し

プロフィールもブログネームとして使っていたmolly_gucciから 本名の
森口秀志(もりぐち・ひでし) に改めました。

なお今後は、「お薦め/参考レビュー」の部分を拡大し、さまざまな文化・エンタメジャンルを網羅した総合的なレビューサイト開設を目指します。
今後も続くかぎりの毎日の更新を目指していきますので、どうぞよろしくお願いします。

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最後になりましたが、今後も本ブログをご愛顧いただければ幸いです。

【本】ソーシャルライフログ 電子小説家の自分さらし2010/12/02

ソーシャルライフログ 電子小説家の自分さらしソーシャルライフログ 電子小説家の自分さらし
内藤みか

朝日新聞出版 2010-08-06
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日本には「私小説」というジャンルがあるので、作家による「自分さらし」はそれこそまったく目新しいものではないのだが、従来のそれはどこかジメジメした、ときにはおどろおどろしい印象さえある。

そうした「自分さらし」をあっけらかんと、才気走った豪腕によって作品化してしまったのが西原理恵子氏だと思うのだが、本作の内藤みか氏もまた、マンガとエッセイの違いはあれば、じつにあっけらかんと私生活をぶちまけている。

そのぶちまけぶりは、清々しささえ感じさせるものだが、男のそれが鬱々と情けなぶりを露悪するものが多いのに比して、「母さん」連中はじつに明るく力強いですな…と、軽い目眩を覚えているのはワタシだけではないと思う。

4章からなる本書は、まず導入の「電子書籍時代のネット人脈」で、ケータイ小説で1日16万ビューを記録した“ケータイ小説の女王”の電子小説家ライフが紹介される。
昨今の「電子書籍ブーム」以前から、積極的に電子ネットワークを駆使した作家活動を行なっている著者からの挨拶がわりの軽いジャブという感じ。いや、撃つ側はジャブかもしれないが、オヤジ世代にはきつい一発だろう。ブログ、ツイッター、ケータイ書籍のダウンロード販売、140字小説など、クラクラするような電子ライフが綴られる。
例として掲載されたツイッターによる140字小説が、見事に起承転結の「小説」になっていることに、改めてこの作家の如才のなさを知ることができる。

二章「イケメン時代の新ビジネス見学記」では、「イケメン評論家」を自称する著者の「自分さらし」がいよいよ本格化し、三章「10歳以上年下ばかりの恋愛騒動」で、それは全開する。

やがてその高揚感は、四章「シングルマザーの一芸子育て術」で収束に向かう。
娘のために自宅では飼えない犬を借りに行き、私立中で挫折した息子をそっと見守り、ときに支える…。親子二人三脚で臨んだ「数学大会」の件など、まるで“小説”を読むかの如く“感動的”だ。
そこから現れるのは、子を思い、家族を守るために懸命に働き、生きる一人の「母」の姿だ。ワタシたちは不覚にもそこにホロリとさせられ、見事に著者の術中に嵌まってしまったことに気づく。

AERA 連載の記事をこのような構成にまとめたのが、著者自身なのか編集者なのかは不明だが、見事なつくりで「自分さらし」本の範ともなる本書をものにした著者こそ讃えられていいだろう。

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【演劇】維新派『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき』2010/12/03

維新派『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき』
維新派による舞台『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき』のさいたま公演を観に行く(12月2日・さいたま芸術劇場)。

本作は、南米篇、東欧篇に続く「〈彼〉と旅をする20世紀三部作」の完結篇として、今夏、岡山県・犬島の精錬所跡地での公演が大きな話題を呼んでいたもの。この野外を会場としたスケールな大きなスペクタクル劇が、屋内劇としてどう再構築されるのか、注目を集めていた。

ワタシが維新派の舞台を観るのは、「青空」(94年)以来だが、朝日舞台芸術賞受賞を受賞した「カンカラ」(02年)の犬島公演はたしかTV放映で目にしていたかと思う。
いずれにせよ久しぶりに体験する維新派ワールドだ。

会場に入ってまず目に飛び込むのは、これこそ維新派の真骨頂と言っていい木材が組み合わされた巨大な舞台。本作のテーマは「アジア」ということで、それをイメージさせるゴツゴツとした船着場のような風景が拡がる。

舞台はいきなり維新派独特の「ヂャンヂャン☆オペラ」のスタイルで幕が明ける。登場した数十人の男女が、独特な変拍子のリズム(音楽・内橋和久)で身体を動かし、ケチャのような発語が、それと絡み合う。
その繰り返しの多いミニマムな動きは、まるでチャプリンの『モダンタイムス』を思わせるが、そのアジアン・テイストな衣装と相まって、“舞踏”にも似たパフォーマンスが繰り広げられる。

やがて、舞台ではさまざまな〈彼〉らが登場し、アジアと日本の“物語”が語られ始める。維新派がこんなにセリフの多い劇だったのかと思われるほど、アジアを“旅する”日本人と、アジア人の人びとが次々と現れては、自身とその時代、そしてその置かれた状況を独白していく。

タイ、フィリピン、インドネシア、台湾、サイパン…その舞台はまさしくアジア中に拡がっていくのだが、この“物語”のキモは、その光を20世紀初頭からに当てていることだ。
つまり、あの忌まわしい戦争へと突入していく以前に、どれほど多くの日本人がアジアを行き来し、かの地の人びとと関わりを持ったのか、その交流はどれだけの拡がりがあったのか。
それらをダイナミックな舞台を通じて詳らかにしていく試み。まさに歴史に封印されてきた市井の人びとに新しい汎アジア歴史地図の提示、それが本作の狙いなのだろう…とワタシは勝手に解釈した。

舞台は、中盤のフィリピンのダバオでの工事シーン、終盤の躍動感あふれる群舞など、いくつかのハイライトを配して、維新派のあのスペクタクル世界をワタシたちに魅せてくれる。終幕の、夜空に吸い込まれるかのような美しいシーンも見事に余韻を残す。

しかしながら、久しぶりに接する舞台に期待が大きかっただけに、ワタシには少々カタルシスが足りなかった。正直、途中やや退屈な場面も散見した。
その原因は、もちろん「ヂャンヂャン☆オペラ」を既に体験しているせいもあるのだろうが、あの“手法”に、もはや新鮮味を感じなくなっているワタシがいる…。二度にわたって登場した“巨人”(あれが〈彼〉なのか?)も、ワタシには「ジャンボマックス」に見えてしまい、そう驚きがない。

維新派の、あの世界を突き破るかのようなドラマトゥルギーを知るだけに、どうしてもワタシは“MORE”を求めてしまう。
本作の屋外バージョンを観ていないので、何ともいえないが、あるいは“屋内移築”がうまくいかなかったのか、それとも今の維新派には“場”が持つエネルギーが必要なのか…。

維新派『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき』の参考レビュー一覧
(*タイトル文責は森口)
「小さい人 途方もない世界」--ワンダーランド(岡野宏文氏)
「あの時代といまとのつながりを感じさせる作品」--劇チラ☆東京
「この作品はやはり犬島で観たかった」--タイとサバの盛り合わせ

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【本】写真記録 市民がベトナム戦争と闘った 大泉・朝霞 1968-19752010/12/04

『写真記録 市民がベトナム戦争と闘った』
12月2日付「朝日新聞」夕刊でも紹介されていた『写真記録 市民がベトナム戦争と闘った 大泉・朝霞 1968―1975』 (「大泉市民の集い」写真記録制作委員会編)だが、ワタシも知人から本書をいただき、何気なく頁をめくるうちにグイグイと引き込まれてしまった。

もちろん、日本での韓国民主化運動の中心人物であった和田春樹氏(ロシア史学者)のことは識っていたが、氏がその活動以前に「大泉市民の集い」のメンバーとしてこのような活動をしていたことは、まったくの無知であった。

というよりも、そもそもかつて埼玉県朝霞市に米軍野戦病院があり、地元朝霞市や東京都練馬区の住民たちが基地撤去を訴え、戦場から運び込まれた負傷兵たちに反戦をよびかけた活動を行っていたことも、まったく知らなかった。

いや、「知らなかった」ことをこの写真記録が教えてくれ、知識欲を満たしてくれたから、ここで本書を取り上げたというわけではない。

当初ワタシは、本書をありがちな市民運動の記録集として、何の考えもなしに頁をめくり始めた。当時盛んに行われていただろう市民デモの光景が、導入として写し出される。その光景は、1960年生まれのワタシにとってもとりたてて珍しくものではなく、パラパラと頁をめくり、先を急ぐ。
ところが、この会が「反戦放送」を始めた件から、その手はピタリと止まった。病棟に向けて、金網を挟んだ農地から英語による放送。日米の反戦集会のレボートやメッセージ、その合間にジョーン・バエズやPPMの反戦歌を流す…。
これこそ後の日本での「自由ラジオ運動」の先駆けではあるまいか。あるいは、ニコニコ動画を始めとする現在のインネーネット放送の原初的な姿をそこに見ることができる。

やがてこの放送に反応した兵士たちが、次々に金網越しにビラを受け取り、市民と交流する様を写しとった写真の数々は、まるでドキュメンタリー映画を観ているかように、ワタシたちに迫ってくる。
市民たちにピースサインを送り、集団で反戦放送を耳に傾ける兵士たちの姿は、実に臨場感あふれるショットだ。

さらにその「交流」は、野戦病院の外にまで拡がりをみせ、反戦兵士たちと市民が手に手をとって活動する様子までが、見事に記録として残されている。それらの画像たちは、まさに大泉・朝霞という小さな街から、グローバルな闘いが展開されたことを証言している。

もちろん「記録」としての価値も高い。
音楽好きのこのワタシですら、ウッドストック・フェスの翌年に、狭山湖畔で「ラヴ・イン」なる反戦ロック・コンサートが開催されていたことなど、まったく知らなかったのだから。

その活動と共に、数々の貴重な写真を当時から撮影・保存していた「市民の集い」のみなさんに敬意を表するとともに、“物語性”をもった見事な記録集に編んだその市民力に改めて感服する。

本書を、単なる“左翼・市民運動”の記録集として押し込めるのではなく、幅広い意味での市民活動、市井記録のあり方の“範”としてこそ、読まれるべき書であると思う。
そうした意味でも、本書をある程度売り尽くした段階で構わないので、ぜひこれらの記録をネット上に公開をしていただきたい。時代を超えた市民活動記録として、それこそグローバルな提示になるに違いない。

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【LIVE】竹内まりや Souvenir Again mariya takeuchi live 20102010/12/05

竹内まりや LIVE 2010
竹内まりやの10年ぶりのコンサート「Souvenir Again mariya takeuchi live 2010」の日本武道館公演2日目に参戦(12月4日)。

人はいったい何を求めてライブに足を運ぶのだろうか?
CDでは味わえない音の迫力? 動く生身のアーティストの姿? 臨場感? 共有感? ファンとしての義務感? もちろんその全てかもしれないのだが…。

夫君の山下達郎氏による寸分のスキもないプロディースによってつくられてきたその完璧な“竹内まりやワールド”を、これまた完璧な演奏とアレンジで山下達郎バンドが次々と「再現」していく夢のようなステージ。
その見事な「再現」ぶりに、ワタシはかえって冒頭のようなやや突き放した“愚問”を抱いてしまったのだが…。

同様に完璧な「再現」を魅せる山下達郎氏のライブには、ライブならではのバンドの躍動感(グルーブ)があり、CDを超える達郎氏のヴォイス・パフォーマンスが堪能できる。そのクオリティの高いライブ・サウンドが、ワタシたちを高揚感で満たす。
そんなヤマタツ氏のステージを体感したばかりなので、つい今回のライブもそうした視点から比較してしまったのだが…。

この日のオープニング・アクトは、センチメンタル・シティ・ロマンスファースト・アルバム は、その浮遊感溢れるLAサウンドが素晴らしく愛聴したが、ワタシもライヴを観るのはおよそ30年ぶり。以来、ずっと活動を続けてきたベテランならではの安定感あるパフォーマンスだが、かつての軽やかさよりも、「めんたんぴん」を彷彿させる力強い演奏が際立った。

休憩を挟み、ステージには天上から布をなびかせたゴージャスなセットが現れて、いよいよまりや嬢の登場。そう、“嬢”と呼ぶのにふさわしい華やかな歌声を響かせての「家に帰ろう (マイ・スイート・ホーム) 」で幕開け。
大阪公演が残っているので、詳しいセットリストは記さないが、もちろん次々に繰り出される楽曲は耳馴染みあるものばかりで、さながら独りヒットパレードーの様相。

しかし、本人の伸びやかなアルトから紡ぎ出されるその名曲群から改めて伝わってくるのは、その“芯”の強さだ。
“女子会”ソングの代名詞「元気を出して」を始めとして、アイドルからはじまり主婦としてアーティストとして“自立”してきた、まばゆいばかりの竹内まりやの“強さ”をそこに見ることができる。

途中のMCでは、オーディエンスを年代別の拍手で調査。そこで改めて、彼女の音楽から多くの世代から愛されてきたことをワタシたちは知る。なにしろ10代から70代以上まで、拍手が途切れることがない。
そして、楽曲の説明と共に語られる“物語”に、その場の多くの“参加者”たちも自身の来し方を重ねたに違いない。

だから、まりや氏のコンサートは、至言すればじつは“ミーティング”なのだ。
夫君という最良のパートーナーを巻き込んで、素晴らしい楽曲群を生み出してきた稀代なアーティストと、彼女の音楽を愛してきたファンたちとの幸せな邂逅。
その素晴らしい音楽たちを、多くのファンやサポート・ミュージシャンたち共に愛で、慈しみ、祝福する、「祝いの会」なのだ。
そう思い至ったときに、ワタシの冒頭の“愚問”は、見事に氷解していた。

「なによりファンとみなさんと“会い”たかった」と、MCで力説するまりや氏。
きっと彼女にとっても、それは至福の時間であったことは間違いない。それは終盤、それまで完璧に近かった歌唱が、感極まって乱れたことで端的に顕れていた。
これまたライブならではの“共犯関係”ではあるまいか。

九段下駅から武道館への道すがら、「チケット譲ってください」の紙片・ボードを持った幾多の人たちを目にした。そうしたファンたちがうらやむ幸運を得て、この祝祭の会に参加できたことに、改めて感謝したい。

◆「竹内まりや Souvenir Again LIVE 2010」の参照レビュー一覧
www.さとなお.com
いつも一人ぼっち・・・ライブ日記

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【映画】女が階段を上る時2010/12/06

『女が階段を上る時』
世界的に知られる日本映画の名匠(故人に限って)といえば、まず黒澤明、小津安二郎、溝口健二の名が並び、その次に位置づけられるのが成瀬巳喜男あたりかと思うが、ワタシが最も惹かれるのはじつは成瀬作品だ。
その理由は、すでに多くから指摘されているように、女性(女優)の“強さ”を見事に引き出し、それを力強くスクリーンに映し出しただことで、そこが同じく女性を撮るに長けた小津監督との差異かと思う。

ワタシが生れた年(1960)に撮られた『女が階段を上る時』もまた、女性(女優)の“強さ”と“美しさ”を十分に引き出した作品といえよう。
銀座のパーで雇われママをする高峰秀子を軸に、華やかな銀座の社交界の裏側を悲喜こもごもに描いた秀作だが、そのスキのない脚本と高峰の見事な演技、それらを美しい“写真”として切り取った成瀬監督の手練が素晴らしい。

冒頭の、バーの控室でのホステスたちの談笑シーンからして、“女たち”が置かれたままならぬ状況を端的に説明する。売上と“身持ち”の間で揺れるヒロインにさまざまな試練が押し寄せ、一方で、次々に現れるイイ男たちは観客の期待を裏切って、ヒロインをなかなか“幸せ”にしない。
“幸せ”がその手からするするとすべり落ちるたびに、さまざまな感情を見事に体現するデコ。さらに、何度となく繰り返される「階段を上る」シーンでの“足どり”によって、見事にヒロインの心情を演じて魅せる。
その、まるで違う冒頭とラストの足どりの違いよって、この物語のテーマである女性の“強さ”“したたかさ”がくっきりと姿を現すのだ。

ワタシは、本作のラストショットが忘れられない。
その映画的美学に支えられた見事な引きのショットによって、ヒロインの晴々とした“決意”を撮らえる。これこそ「映画」なのだと思う。

そこにワタシは、アップを多用する「テレビドラマ」では表現しきれない、映画的カタルシスを感じるのだ。

最後になったが、仲代達矢、加東大介、中村鴈治郎、森雅之、小沢栄太郎、淡路恵子、団令子といったアクの強い脇役陣の演技もまた、本作に貢献している。

◆『女が階段を上る時』の参照レビュー一覧
日々是映画(ヒビコレエイガ)
銀の森のゴブリン
映画と暮らす、日々に暮らす。
100% CINEMATIC JUICE
みにいの欲張りな日々。
LE CERCLE ROUGE BLOG

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【本】ジョニー・B・グッジョブ 音楽を仕事にする人々2010/12/07

ジョニー・B・グッジョブ 音楽を仕事にする人々ジョニー・B・グッジョブ 音楽を仕事にする人々
浜田淳

カンゼン 2010-06-26
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本書は、副題にある通り、ミュージシャン、エンジニア、DJ、レコード店経営、音楽教師、音楽ライター、アーティスト・マネージメント、イベンター、レーベル経営、レコード会社社員、楽器リペア(修理)、PA、舞台監督など、20数種にわたるさまざまな「音楽を仕事にする人々」のインタビューをまとめたもの。巻末には、著者自身も編集の傍ら、「RAWLIFE」なるイベントを主宰した経験を持つイベンターとして登場する。

本書を読み始めて、真っ先に頭に浮かんだのは、インタビューの名手として知られるスタッズ・ターケルの諸作だ。なぜなら、じつはワタシもかつてターケルの手法で何冊ものインタビュー集 を上梓しているので、ああ、こんな若い世代にもワタシと同じ“ターケルズ・チルドレン”がいたのかと、つい思い及んだ次第。

もっとも72年生れの著者が、ターケルを意識をしていたかどうか定かではないが、ターケルが市井の人びとから魔術のように引き出す言葉たちから、見事に“物語”を紡ぎだす手法は、本書でもイキイキと再現されている。

なにしろそのインタビューイーたちの語り(体験)が面白い。
いわゆるスタジオ・ミュージシャンと呼ばれる人たちにも「ジャズ屋かそれ以外」の二種類のタイプがいて、ジャズ屋は「芝居でいったら新劇出身者みたいなもので(略)、基本が完全にできている」だの、「『なんだこのメンバーは?』っていうバンドでツアーに行かされ(略)、そういうのが苦手な人はノイローゼになります」という“人間関係”に悩み、「友だちで売れた人はいませんから。死屍累々です(笑)」という音楽業界の厳しい現実が、まず開陳される。

さらには「マスタリングなんて要らないと思いますよ」というエンジニアの発言や、地方のオーガナイザーとのつながりを大切にし「土曜日はすべて地方にあてています」というDJ、レーベルを立ち上げ、節約のために「デザインは全部自分でやっちゃいますよ」と外貼りシールのデザインまで手がけるミュージシャン、事務所を持たず「打合せなら公園で会ってもいい」というマネージャーまで、知らないこと、目からウロコな話がドサドサ出てくる。

ビジュアル系バンドのマネージャーが、メンバーと直接話ができる打ち上げに高い会費をとってファンを誘い、「ライブの打ち上げはいちばんの稼ぎ頭です」など、抱腹絶倒(失礼)もののエピソードも飛び出す。

「サービス業なんですよ、これは(笑)」と、自身の仕事を自嘲気味に話す私立高校の音楽教師による音楽教育の現場レポートも瞠目で、シラケ気味の生徒たちが授業でトランスや義太夫(!)に触れるなかで、次第に目を輝かせていく様子は、感動的ですらある。

著者も冒頭で記しているように、本書は、よくある職業(業界)案内本でもなければ実用的なカタログでもない。
「もっとも実用的なものというのは個々のリアリティのなかにしか存在しないのではないか」という姿勢でインタビューに臨んだ著者が、「いたって平熱な、『素』の言葉たち」を紡ぎ、「実用書より実用的なであることを目指し」「『仕事とはなにか』を考えるきっかけになればいい」として始めたそれは、見事に“グッジョブ”として結実していると思う。

ターケル的な視点でつけ加えて言えば、本書を通して立ち上がってくるのは、日本の音楽業界・文化を下支えする愛しき“音楽バカ”たちの実像だ。そして極東の地で、欧米から流入したポピュラー音楽が栄えたある時代の貴重な記録だ。
ヒトの芸術・文化は“バカ”によってつくられてきたことを改めて証左し、この愛しき“バカ”たちと著者に、敬愛の念を以て本書をお薦めしたい。

◆『ジョニー・B・グッジョブ 音楽を仕事にする人々』の参考レビュー一覧
ele-king(三田格氏)
Riddim | RING RING RING(荏開津広氏)
星ぶどうぱん
はぐレ企画

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【映画】ゴールデンスランバー2010/12/08

『ゴールデンスランバー』
『ゴールデンスランバー』(2010年・監督:中村義洋)
中村義洋監督作品を観るのは本作が初めて。まったく先入観なく鑑賞を始めたのだが、とにかく冒頭から中盤にかけての、その荒唐無稽なテレビドラマチックな展開は、先日レビューした『誰も守ってくれない』のデジャヴかと…当初は頭を抱えた。

とにかく首相暗殺犯に仕立てられた主人公(堺雅人)に対して、いきなり警官は発砲するし、警察のスナイパーは“狙撃”するし、端から目的は“犯人逮捕”ではなく、“殺害”が目的のような追走劇が展開される。

本人だけでなく、単なる大学時代の友人(劇団ひとり)宅に押しかけて、メチャメチャに暴行するなど、もうやりたい放題。
もちろん冒頭から主人公は「オズワルド」にされているわけだから、超法規的な“捜査”が行われるのは、“物語”としては正しいのかもしれない。ところが、おそらく原作 (未読)では書き込まれているのであろう暗殺劇の背景や真相が、本作ではスッポリと端折られているので、ワタシの頭の中は「ありえない!」の連続で、もう笑うしかなくなる…。

ところが中盤になって、伊東四朗扮する父親が衆人が見つめるテレビカメラに向かって、「オレは息子を信じているんじゃない。息子のことを誰よりも知っているんだ!」と、これまた「ありえない」啖呵を切ると、ワタシはなぜかこの映画的な“ファンタジー”にほだされ始める。

『ミンボーの女』でヤクザの親分を思いっきりのアップで演じたベンジャミン伊東が、これまた思いっきりのアップで息子の無実を訴えたときに、可笑しみ以上に、なぜかこの無垢な主人公へ感情移入している自分に気づく…。
そして、これはもう“ファンタジー”として本作につき合うしかないとワタシが腹を括り始めると、ようやく前半に付された数々の“伏線”が回収され始め、映画的な面白みが醸しだされる。
まあ、怪優・柄本明扮する“裏家業の男”らによる大がかりの“仕掛け”によって、永島敏行扮するスナイパーが吹っ飛ぶのは、“ファンタジー”なのだから笑って済まそう(笑)。

それにしても、元恋人の竹内結子が幼子を抱えながら、あそこまで危険を侵して主人公を助けようとしたのは、ワタシには伏したる“純愛”というよりも、仲間たちと「ゴールデン・スランバー」を共有しえた、かつての自分に出会うための“自分探し”だったのではないかと思えるのだ。

“暗殺”に協力したはずの整形外科医が、なぜ途中から主人公の逃走に“協力”したのかという疑問はさておき、冒頭のシーンにループする清々しいラストは、“再生”した主人公の中に、本作のテーマである“人を信じる”ことがきっかりと引き継がれたことを示している。

◆『ゴールデンスランバー』の参考レビュー一覧
映画的・絵画的・音楽的
超映画批評(前田有一)
JanJanニュース(石川雅之)
映画通信シネマッシモ
LOVE Cinemas 調布
映画のブログ
『映画と音楽で生きてます』
ブログ de ビュー
必見!ミスターシネマの最新映画ネタバレ・批評レビュー!

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【本】傷だらけの店長 それでもやらねばならない2010/12/09

傷だらけの店長 〜それでもやらねばならない〜傷だらけの店長 〜それでもやらねばならない〜
伊達雅彦

パルコ 2010-07-31
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これはもう、対面で凄まじい独白を聞いてしまったかのような読後感。いや、凄まじい“自伝”か。あるいは、現場からの“告発”か…。

「ただ、本が好き」で書店でアルバイトを始め、やがて書店員から「店長」となった著者が、閉店に追い込まれるまでの悪戦苦闘の日々が克明に描き出される。ありそうでなかった、“街のリアル書店”から放たれた異色の“出版文化論”といえよう。

冒頭から、「どうしてわたしは書店員であり続けるのだろうか」と、自問する著書の深い深いため息と共に、書店労働者の凄まじい労働実態が明らかにされる。
巷間伝えられるように、雑誌・書籍の出版点数は増え続け、一方で売上は落ちるばかり。今、書店の置かれた状態は、「ただ入ってきた客を待ち、客を待っていりゃいい」という過去のイメージから、はるか遠くにある。なにしろこの十年で、全国で5000軒の書店がつぶれているのだ。

連日山のように届く商品(本)の棚入れ、数分ごと対応を迫られる客からの問い合わせ、営業マンへの対応、追加注文、伝票処理、そして疲弊する万引き犯との逃走劇…。
どんなに“ボランティア労働”に追われても、人員補充は夢のまた夢で、安い時給ではアルバイトも寄りつかない。むしろ本部からノルマをクリアするために自費で本を買うありさま。
それらの出来事を、自らの思いも込めて丁寧に描写する筆者の筆力も見逃せないのだが、そんな「先の見えない」の“街の書店”に、追い打ちをかけるように大型店が近くに進出し…。

出版業界の末席をケガすワタシだが、本と読者を最終的につなぐ、その端末のデバイスたるリアル書店がこんなにも疲弊していたことに改めて驚き、自分の無知を恥じた。同時に、いまも人知れず奮闘するあまたの書店員たちに、頭の下がる思いがした。

じつは、ワタシが住む街でも今春、商店街のメインストリートにあった、街で一番大きな書店が閉店になった。突然のことでワタシも驚いたし、多くの街の住人も驚いたのではないだろうか。なにせ60年にわたってこの地で愛され続けた書店なのだ。
いつ訪れても店内に客が途絶えることなく、そこそこに賑わっていただけに、閉店は意外だった。リアル書店の苦境ぶり改めて目の当たりにした思いがした。知り合いの書店員もいて、ときどき言葉を交わしていただけにじつに残念だった。…

しかし、そう言うワタシも、ご多分に洩れずここ数年リアル書店の利用がめっきり減った。「リアル書店」という言い方も当たり前に使われるようになった。本書の購入も、じつはアマゾンだ。
件の閉店した書店で購入する書籍も、ほとんどが雑誌か新書。おそらく、そうしたワタシのような客がこの書店を閉店に追い込んだのだろう…。
そして、本書の舞台となった「書店」もまた。

本書から何らかの解決策を導き出すことは難しいだろう。
出版界が抱える問題は、巨大で構造的、かつ複雑だ。電子書籍の登場で、リアル書店の衰退はますます抗しがたいものになっていくだろう。
しかし、活版印刷の登場からその後の変革を壮大に描いた『グーテンベルグの銀河系』がそうであったように、その電子書籍版が書かれたときに、おそらく本書から必ず「その時」の様子が引かれるに違いない。

そうした歴史の記録性という意味からも、本書の果たす役割は大きいと思う。

◆『傷だらけの店長 それでもやらねばならない』の参考レビュー一覧
知ったかぶり週報
横丁カフェ(大井達夫氏)
レーベル運営の悲喜交々
asahi.com(四ノ原恒憲)
少佐の記憶-Memoirs of a major-
佃島ひとり書房

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【CD】Olof Arnalds(オルロフ・アルナルズ)/Innundir Skinni2010/12/10

Innundir SkinniInnundir Skinni
Olof Arnalds

One Little Indian Us 2010-09-28
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アイスランドのミュージシャンといえば、まず思い浮かぶのはビョークだが、そのビョークがゲスト・ヴォーカルとして参加しているオルロフ・アルナルズ(Olof Arnalds) の最新アルバム。

プロフィールを読むと、同国のエレクトロニカ・バンド、ムーム(Mum)のメンバーとしても活動していたらしい。というかアイスランド音楽については、ワタシも不案内で、ビョークは別格として、彼女が在籍したシュガーキューブスやシガーロスを耳にしてきた程度。

しかしながら、このアルバムを一聴して、ワタシが近年愛してきた北欧やアイルランド音楽に通じる清楚で燐とした歌とサウンドに、一気に引き込まれた。
本人の弾き語りらしきギター、チャランゴに乗せて、鳥のさえずりのように響くキュートな歌声と簡素なサウンドは、かの地を思わせる清涼感溢れるもので、部屋の空気さえも一変させてしまう。

ほかにも、ヴァイオリン、ヴィオラ、ピアノ、ティンパニーなどの楽器を操る才人のようだが、なかでも目(耳)を引くのはチャランゴだ。
アイスランド音楽のなかで、チャランゴという楽器がどのような位置を占めているのかは判然としないが、ドーナル・ラニーがギリシャの民俗楽器であるブズーキを持ち込んだことで、アイルランド音楽がワールド・ミュージックとしての可能性を拡げたように、南米生れのこの楽器が自分の音楽としてしまったアルナルズにも“革新者”としての矜持が感じられる。

ビョークが参加した「Surrender」でも、アルナルズが奏でるチャランゴに乗せて、ビョークがさすがに存在感のあるヴォーカルを聴かせる。官能的な映像で綴るPVも必見だ。↓


小国だけにミュージシャン・ネットワークも濃密のようで、シガー・ロスのキャータン・スヴィーンソン(key)が本作のプロデュースを手掛け、また多彩な面々が彼女をサポートしているようだ。

あまり注目してこなかったアイスランドだが、こんな異才が現れるのなら、少しこの国の音楽を追い掛けてみようかと思う。

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