【演劇】イキウメ『図書館的人生Vol.3 食べもの連鎖』2010/11/01

イキウメ『図書館的人生Vol.3 食べもの連鎖』
前川知大率いる劇団イキウメによる「図書館的人生Vol.3 食べもの連鎖」(10月31日シアタートラム)。イキウメもこの「図書館的人生」シリーズも初めての観劇だが、今回は「食べ物連鎖」がテーマだという。

物語は四つの場面から成り、それぞれを「前菜」「魚料理」「肉料理」「デザート」に見立てたコース“料理”ならぬ“物語”。
まずは、ベジタリアン料理の講習会に通う主婦が、夫を菜食にすべく洗脳計画を遂行する。「食」をめぐる議論の果てに、主婦の企てに夫はとうとう…。
場面は換わり、独自の美学を持つ万引きの“プロ”が、同業者の傍若無人ぶりが許せず、たたかう様がシュールな笑いで描かれる。ここで語られるのは、ルールとは何か?だ。
メインデッシュでは、場面1の料理研究家が登場し、その健康の“秘密”を、やはり1で登場した夫の記者を前にとうとうと語り始める…。

というように、この物語は“食”を入り口にして、やがて“いのち”と“連鎖(ルール)”が重要なテーマが浮上し、オカルトともSFとも不条理とも、あるいは社会問題劇も言える様相を呈しながら、観客を不気味な思考回路へと引きずり込んでいく…。

ぴあMOOK『小劇場ワンダーランド』 のインタビューで、前川氏は「僕はお客さんが登場人物より1ミリ前にいて、両者がほぼ同時に状況を理解するという距離感を心掛けています」語っているが、観客の想像力を膨らませるその作劇は見事だ。
その作風は、骨太な大人のエンターテイメント・ゴシックホラーとでもいうべきか…。

机数台が置かれた簡素な舞台装置ながら、広々とした壁面に窓を配置するなど空間をうまく拡げて、料理教室、スーパー店内、病院、街頭を次々と描き出せるのも、やはり観客の想像力を借りてこそ。その引き出し方が上手いからだと思う。

舞台上の人物の過去を、他の人物が演じ、それを本人が解説し、ときに割り込む…という手法は「アンチクロックワイズ・ワンダーランド」でも長塚圭史氏が使っていたが、前田氏のそれの方がより練られており、まるでタランティーノの映画を観ているようにスリリング。個性的な役者陣も、それらに応えてケレン味のある舞台となった。

このところ、立て続けに早船聡(サスペンデッツ)長谷川寧(冨士山アネット)前川麻子(龍昇企画)はせひろいち(ジャブジャブサーキット)という若手作家(はせ氏は若手でもないが…)たちの芝居を観たが、いずれも才気溢れる作品ばかりで、その活況ぶりに目を見張る。
それに比してワタシは、岩松了松尾スズキ鴻上尚史長塚圭史といった中堅・ベテラン諸氏の新作にあまり刺激を受けなかったのだが、これが演劇の「今」の状況ということなのだろうか?

☆イキウメ「図書館的人生Vol.3 食べもの連鎖」おすすめレビュー一覧
ワンダーランド(初日レビュー)
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【本】二酸化炭素温暖化説の崩壊2010/11/02

二酸化炭素温暖化説の崩壊 (集英社新書)二酸化炭素温暖化説の崩壊 (集英社新書)
広瀬 隆

集英社 2010-07-16
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膨大な公表データ・取材記事等を駆使し、問題の所在・責任者たる“犯人”を追い詰めていく過程を克明に描き、ノンフィクション・ミステリーとでも言うべき手法を確立した著者による最新刊。『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』『危険な話』等によって80年代に鮮烈な登場をした広瀬氏だが、本書によって、いささかもその気概は衰えず、ますます冴えわたるその手練が確認できる。
そして今回のターゲットは、二酸化炭素温暖化説だ。

いわゆる二酸化炭素温暖化説は、ノーベル平和賞を受賞した「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」なる組織が喧伝してきたということだが、そもそもその主張の基になった「グラフがデタメラであることは、発表当初から私は分かっていた」と氏は言う。
過去1000年間の地球気温の変化を示したとされる「ホッケー・ステッィク」では、20世紀から気温は急上昇したとされるが、このグラフそのものが捏造されたものであり、「そのトリックについて『うまくだました』とはしゃぐメールが大量流出し」たクライメートゲート事件がそれを示しているという。(ちなみに本書では、「Wikipediaが、CO2温暖化説広告塔だったことも、現在では強く批判されている」と記されているので参照リンクには注意が必要)

ところが、1990年にIPCCが出した第一次評価報告書では、「中世には『二○世紀よりもはるか気温が高い』温暖期があり、そのあと氷河期が襲って気温が下がり、その後、人類がまだCO2をほとんど出さない一九世紀つまり1800年代初めから自然に気温が上がり始めた」がデータが示され、こちらこそ「考古学者、文化人類学者、天文学者が知っている長い間の常識」だとする。

つまり、ワタシたちが地球温暖化の象徴として、しばしば目にする氷山の氷解や氷河の後退なども、「昔から起こってきた自然な現象にすぎない」のだという。そのわかりやすい例として、今からおそよ100年前の1912年に起きたタイタニック号沈没の原因も、グリーンランドの氷河から押し出されてきた「巨大な氷塊」だったことを挙げる。

さらに、「海面水位の変化」を示すデータで、「1860年以前の変化をカットして」海水面が高くなり続けているように“錯覚”させる手口は、近年日本でも少年・凶悪事件をめぐる議論で同じような“操作”が行われことは記憶に新しい。

このように氏は、さまざまな傍証を挙げて、二酸化炭素の“冤罪”を訴えるのだが、その真意は「ありとあらゆる環境破壊と毒物生産を放任して、無実のCO2にその罪をなすりつけ、人類が大規模な環境破壊に踏み出し始めた」と警告する。

その一例として、氏は原発を「最悪の地球加熱装置」として位置づける。ちなみに原発から排出され海に捨てられる「温排水」は、「日本全体では毎日、広島に投下された原爆100個分に相当する巨大な熱量で海を加熱している」という。

そういえば、数年前に新潟・佐渡の海に潜ったときに、あまりの「温かい海」に驚いたことがある。子どもの頃によく泳いでいた新潟の「冷たい海」の記憶とあまりにかけ離れていたので、ワタシもてっきり地球温暖化の影響? と思ったが、じつは原発の温排水にも要因があったのだろうか?

しかし、IPCCはもとより、一部で指摘される『不都合な真実』で二酸化炭素温暖化説を世界中にPRして回ったアル・ゴアの「原発利権」問題などに触れていなかったのは、確証たるデータが得られなかったからだろうか…。

後半はオール電化キャンペーンの真意や、問題解決の一つとして、最新の火力発電技術を紹介するなど、見聞を新たにしたことも多々あり、本書を読んでとにかく勉強になった。

ところで、氏の過去の著作と同様に、当然の如く本書に対する異論・反論かまびすし…と思ってネット検索してみたが、正面切っての反論らしい反論は見当たらず、少々拍子抜け…。
氏の決意を込めた“警世の書”である。内容が内容だけに、ワタシも含めた科学シロウトには、その正否が判断できない部分もある。科学者サイドから、今後、賛同も含めた大いなる議論を期待したいところだ。

☆『二酸化炭素温暖化説の崩壊』のおすすめレビュー
仮寓ダークマター

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【映画】ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト2010/11/03

『ザ・ローリング・ストーンズ  シャイン・ア・ライト』
(c) 2008 by WPC Piecemeal, Inc. All Rights Reserved.
『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』(2008年・監督:マーティン・スコセッシ)

音楽映画の傑作『ラスト・ワルツ』を撮ったスコセッシが、ローリング・ストーンズの2006年ライブをフィルムに収めたライブ・ドキュメンタリー。じつは先に1972年のド迫力のライブ映像を観ていたので、平均年齢64歳となった現在のストーンズに期待していいのものかと少々心配したが、まったくの杞憂に終わった。これは素晴らしいライブ映画だ。

冒頭からスコセッシとミック・ジャガーの緊迫したつばぜり合いをカメラが追う。予定していた野外コンサートの収録が、NYのビーコンシアターでの撮影に変更になり、演出プランでぶつかる二人。セットリスト(曲順)を挙げてこないミックにスコセッシのイライラはつのるが、ぎりぎりまでカメラ割りが出来ずに頭を抱える…。そして、開演直前になってようやくセットリストが届き、スコセッシがすぐさま指示を出すとカメラはステージに切り替わり、そして大歓声の中、「Jumpin' Jack Flash」のリフがファンファーレのように鳴り響く。
…というようにまるでサスペンス映画をような見事なオープニング。そして、なんとカッコいいコンサートの幕開けか!

しかし、これはスコセッシ一流のフェイク・ドキュメンターではなかろうか? 何しろ黒澤明の『夢』でゴッホに扮した俳優経験もある彼だ。ミックと共謀して観客を騙すなんてお手のものだろう。
というのもあの緻密なカメラワーク(18台使用)を見たら、とてもセットリストが直前に挙がらなかった…とは思えない。ミックが歌いながら腰を振り、ステージを走る様を後方から追いかけ、花道を駆け上がればそれを見事なタイミングでフォーカスする…。メンバー各人の“見せ場”を自在なカメラワークでを追い、このライブを素晴らしい映像絵巻として演出しているのだ。

貫祿のステージングでダルな演奏イメージが強いストーンズだが、じつは実に緻密に計算されたライブ演奏を行っていることはすでに明らかにされている。これはもう制作総指揮の“ストーンズ・コングロマリット”のCEO・ミックとの共犯に間違いない(とワタシは妄想するのだが…)。

前置きが長くなったが、とにかく主役であるストーンズのステージが素晴らしい。72年の『レディース・アンド・ジェントルマン』が、大音響の大輪の連発花火だとすると、こちらは色とりどりの花火を見事な構成美で魅せる極上のエンターテイメントと言うべきか。
とにかく、ミックの一挙手一投足に改めて“天才パーフォーマー”ぶりを思い知らされ、キース・リチャーズのあまりのカッコいいオヤジぶりに声も出ない…。ゲストのジャック・ホワイト、バディ・ガイ、クリスティーナ・アギレラもステージに華を添えるが、主役はあくまでもストーンズで、誰が来ようと王者はまったく揺るぎなし。

演奏シーンに挟み込まれる若きメンバーのインタビューも効果的で、おそらく膨大な過去映像からスコセッシがチョイスしたのだろう。キースとロン・ウッドの「俺たち二人ともギターは下手だが、二人になる最強になる」という語りのあとに、まさに“最強”のツインギター・シーンが飛び出すといった絶妙な構成。
また、間もなく70歳になるチャーリー・ワッツが、立て続けのドラム演奏の後に「フゥ…」と疲れた息も漏らす表情をとらえたり、ペダル・スティール・ギターの演奏をミスったロンに「間違えやがって!」と悪態をついたミックが、その後自分もMCをミスして「しくじった!」というユーモラスなシーンを入れ込むなど、スコセッシの緩急をつけた演出が、酸いも辛いも乗り越えてきたヒューマン・ストーンたちを写しだす。

それにしても50年近くに渡る活動のなかで、前述の72年作と83年『 レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー』、そして本作と、3本もの傑作ドキュメンタリー映画をものしたストーンズはなんと幸せ者だろう。これはビートルズもプレスリーもなし得なかった偉業だ。そして、その歴史の偉業を享受できるワタシたちもまた大変な果報者である。

☆『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』おすすめレビュー一覧
映画ジャッジ(福本次郎氏)
映画.com(芝山幹郎氏)
映画の森(藤枝正稔氏)
音楽生活-music life-
It's a Wonderful Life

【TVドラマ】シューシャインボーイ2010/11/04

TVドラマ『シューシャインボーイ』
今年の「ソウル国際ドラマアワード」でグランプリを受賞したということで、『シューシャインボーイ』(テレビ東京)の再放送を観る(11月3日)。

内容は、戦争孤児から一代で会社を築き上げた社長と、大手銀行を辞めて社長の運転手となった男との交流のなかで、戦後のニッポン社会、そして夫婦や家族のあり方を問う、というもの。

脚本は鎌田敏夫氏。いい脚本とは、まさにこういうホン(台本)を指す。
以前、『俺たちの旅』シリーズ制作陣から、鎌田氏は脚本に取りかかる前に、その人物がどんな家庭で育ち、親の職業、出身地、どんな性格か…といったドラマに出てこない部分まで、人物設定をかなり綿密に書き込むという話を聞いたことがある。
そして本作でも、背景も含めた人物をしっかりと描き、無駄なくしかも含蓄あるセリフ、ワンカット、ワンシーンを重ねることで、豊穣な物語を紡ぎだしていく…。

例えばこうだ。
食品会社社長(西田敏行)の関連会社が不祥事を起こし、件の社長が謝罪に訪れる。「いっちゃん、スマン…」。
そのひと言、佇まい、表情で、この二人の関係がどういうものだったか、どんな苦労を共にしてきたのか、ワタシたちはたちまち知ることができる。
あるいは、社長が工場で働く社員を細かく指導する様など、おそらく丹念な取材をしたであろう。(原作を読んでないのでどこまでそれに沿っているかわからないが)。その細やかな差配ぶりが、この人物を見事に造形している。

そして、その社長と、新宿のガード下で今も仕事を続ける老靴磨き(大滝秀治)との因縁めいた関係や、運転手(柳場敏郎)の過去やトラウマも、その秀逸な脚本によって薄皮を剥ぐように少しずつ明らかにされる…。そのなかで、戦後を経験した世代と現代人との価値観の衝突が顕在化する一方で、世代を超えた“悩み”や“共感”もまた浮き彫りにされる。「ドラマアワード」で広くアジア人の“共感”を得たのも、おそらくそこにあるのだと思う。

予算の関係か(失礼)、映像的には陳腐な場面が散見されるものの、そのファンタジーめいた結末が陳腐に貶められていないのは、そのセリフや展開に十分に“リアル”があるからだろう。そして、その“リアル”さは、やはり脚本から生れたものに違いない。

たしかに西田敏行は上手い役者だと思うが(近年の“臭み”のある演技はワタシはどうも好きになれないが)、この水準の脚本があれば、出演者を全取っ換えしても成立するのではないか? そう思わせるほど、脚本のチカラを感じたドラマだった。
芸術祭参加作品なので、おそらく何らかの受賞があれば再放送、DVD化もされるだろう。その時はお見逃しなく。

【CD】紅龍/バルド2010/11/05

バルドバルド
紅龍

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上々颱風のリーダー・紅龍の初ソロアルバム。上々颱風も今年デビュー20周年かと、改めてその時の流れの速さに驚くが、その上々颱風の前身である「ひまわりシスターズ」 、さらに前身のソロ活動に立ち還ったような“叙情派・紅龍”炸裂の味わいある作品だ。

否、単なる原点回帰ではない。上々颱風が主にアジアを舞台に“音楽の旅”を続け、かの地の音や人びとの営みを吸収、咀嚼したうえで独自の上々サウンドを生み出してきたように、本作で紅龍の“放浪”はヨーロッパを幻視させる…。それもユーラシア大陸の辺境の町々を往く姿だ。
そして、上々颱風が“旅”の果てに、“誰も聴いたことのない”ネオ・アジアン・ミュージックを創出したように、紅龍のそれもマガイモノ感たっぷりの怪しい欧羅巴音楽紀行。クラシカルなピアノ曲、ブルース、トラッド、フォークダンス…ゲスト陣の手を借りて、上々颱風にはなかった紅龍の音世界が拡がる。

なにより本作で印象に残るのは、その歌詞たちだ(⑨のブレヒト詞を除き楽曲はすべて紅龍の手による)。上々颱風でもほとんどの詞・曲を手がける紅龍だが、バンドサウンドに比して音数が少ないからだろうか、紡ぎだす言葉が耳にストレートに飛び込み、みるみるとその歌世界が浮かび上がる…。

②で「切符は2枚さ、車掌さん!」と唄われれば、車窓を背にやさぐれた男女の姿が浮かび、⑩で「星が堕ちてくる、正直者のテーブルの上に…♪」と唄われれば、満天の星空に下で暮らす人びとの姿が静かに立ち現れる…。
それはまるで、10篇の短編映画を観るかの如き夢物語。

その言葉が鋭く突き刺さるのは、⑥「大逆殺のバラード」。
「100頭のパンダがもしも殺されたなら世界は大騒ぎさ…100人のウイグル人、もしも殺されたなら世界はだんまりさ 」と唄い、⑦で「夢を見ていた頃の大通りはまるで記念日のパレード」から一転して「終わりのない戦争が始まっていた」と、世界大戦おぼしき戦禍が唄われる…。
これはもう紅龍流の強烈なプロテストソングだ。しかし、およそ30年にわたってこうしたプロテストソング(それも上質な)を作り続けてきた紅龍に、ワタシは改めて敬意を表したい。

紅龍らしい自虐・悪露趣味のジャケットはいかがなものかと思うが(笑)、アナログLPを模したCDデザインもGJ。音楽誌のインタビューで、「今度(次回作)はカントリーアルバムとかね」と冗談めかして答えていたが、本作の好調ぶりを識れば、マジで紅龍流のカントリーアルバムも聴いてみたい!…期待してます。(^_-)

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【韓国ドラマ】砂時計2010/11/06

韓国ドラマ『砂時計』
『砂時計』(모래시계 モレシゲ)は1995年に韓国で放映された全24回のドラマで、光州事件を正面から扱って大きな話題となり、かの国で社会現象を起こしたという。
日本では2006年に放送され、その後2009年に一度再放送されたきり、放送がない。連日星の数ほどの韓国ドラマがいずれかのチャンネルで放送(再放送も含めて)されているなかで、これはどうしたことだろう?
韓国では平均視聴率45.3%(最高視聴率63.7%は歴代3位)を記録し、放送時間には街が閑散となった…という『君の名は』(例が古い!)現象を起こしたというのに、日本では人気が出なかった?

放送がないのでシビレを切らしたワタシはDVDで観たが、さもありなん。これは日本人にはわかりにくいだろう…というのが第一印象。
時代背景の理解がまず難しい。韓国では87年の「民主化宣言」が行われるまで、実質的な軍政が敷かれていた。
例えば、ある年齢の韓国人ならば、非常戒厳令が宣布された「1972年」と聞ければそれがどんな時代だったか、即座に思い浮かぶだろう。73年に金大中事件が起こり、79年には朴正熙大統領(当時)が暗殺される。そして80年には民主化を求めるデモ全国に拡がり、その年の5月に光州事件が起こるが、画面に映し出されるそうした年代やフラッシュバック映像によって、韓国の視聴者たちは否が応でもその時代に引き戻されるに違いない。
そこがまずわれわれ日本(に住む)人とは決定的に違う。ドラマの後半で「私も4.19世代ですから」というセリフが出てくるが、そこに込められた意味をすぐさま理解する日本の視聴者はそういないだろう。

加えて、冒頭の3回で主要登場人物の生い立ちと、それぞれの“出会い”が語られるのだが、これが冗長だ。なにしろ一人につき、1話(50分)をたっぷり使っての説明だ。ちょっと日本のドラマではありえない導入だと思うが、家族・地縁の結びつきが強い韓国社会だ。ここをしっかり描かないと、視聴者が納得しないのだろうか?…

というわけで、日本人には非常にとっつきにくいドラマだと思う。
しかし、しかしだ!ここは黙って第7話まで観続けてほしい。7話で、この壮大な物語は転がり始める。それまでとにかく我慢して観続けてほしい。
そう、この7話で、実写も含めた光州事件の壮絶な光景が繰り広げられる。そして、この光州事件での“歴史の皮肉”によって、主人公二人のその後の“運命”は、翻弄され続けるのだ…。

これはネタバレだが、このドラマを貫くテーマといってもいい重要なシーンなので、書いておくべきだろう。
正義を目指すウソク(パク・サンウォン)が光州制圧軍として民衆に銃を向け、ヤクザのテス(チェ・ミンス)が民衆側として闘う…。このシーンを目にした韓国の人たちは、なんという“歴史の皮肉”だろうかと思うと同時に、我が身につまされたに違いない。今も徴兵制が敷かれる韓国では、“他人事”ではなかった(ない)からだ。

この事件を起点として、物語は怒濤の展開をみせる。テスの恋人となったヘリン(コ・ヒョンジョン)は、学生運動に挫折し、やがて父の仕事を継いで、次第に闇世界・政界へと近づいていく。
テスは“父の仇”となって闇世界を支配し始め、一方、検察官となったウソクが、闇世界の捜査を進める。その間に、誰と誰が手を組み、裏切り、邂逅するのか…先の読めないスリリングな展開が次から次へと繰り出される。その語り口、脚本の出来は、前半のもたつきが信じられないキレの良さ。

最終盤では、香港ノワールに影響を受けたであろう“男の世界”もたっぷりと描かれ、日本のドラマではあまり見ることのない(?)非情なラストで、この物語は深い余韻を残して幕を閉じる。
前半の難はあれど、ワタシは傑作ドラマだと思う。

それにしても、光州事件から15年としてこのドラマがつくられたことは、改めて韓国の民主化が進んでいることを示している。はたして中国が天安門事件をドラマ化するのは、いつになることだろうか…。

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┃◆『砂時計』のおすすめレビュー一覧
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Leeの韓国ドラマ紹介
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【TVドラマ】大阪ラブ&ソウル2010/11/07

ドラマ『大阪ラブ&ソウル』
このところドラマづいて、昨夜(11月6日)放映されたNHK大阪制作の芸術祭参加作『大阪ラブ&ソウル この国で生きること』を観る。

"在日コリアン"の青年と"ミャンマー難民"の女性が大阪で恋に落ち、そこから詳らかにされる在日と難民の苦悩の歴史。家族、国籍、生きることを問う意欲作…なのだが、結論から言えばいわゆるドラマとしては、十分な出来とは言えまい。
1時間15分という枠に、脚本(林海象)を押し込むのに精一杯だったのか、登場人物の心の移ろいが型通りで、見せ方もやや性急。おそらく芸術祭でもそう評価は高くないと思う(あくまでワタシの予測だが)。

それでも本作には、あえて特筆すべき点がいくつかある。
まずは、"在日コリアン"のパートナーが、日本人、コリアン以外の"在日外国人"であるということ。在日と日本人の恋愛ドラマといえば、無残な結果に終わった『東京湾景』などの試みがあるが、対外国人というのは新機軸。
しかしながら、外国人登録者が221万人、オーバーステイ(超過滞在)を含めた外国人は300万人を超えると言われる現在で、こうしたカップリングも自然な流れだろう。
この“外国人”の視点を“在日”にぶつけることで、新たな衝突や発見、そして喜びが生れ、本作をより重層的なドラマに仕立てた。

次に、主人公の在日三世青年(永山洵斗)がバイト先で難民女性と出会うシーン。
「私は“ビルマ”から来ましたネイチーティンです」と、挨拶したのには驚いた。私は“ミャンマー”という呼称は軍事政権が勝手に付けたもので、本来の国名はビルマだと思っている。日本政府は“ミャンマー”を認めているが、わが国営放送でいきなり民主化運動側が掲げる“ビルマ”が出てきたことに驚き、さらにはこのネイチーティンが日本で民主化運動に参加しており、アウンサンスーチー氏の肖像画まで映し出したのだのだからビックリだ。
NHKは例の番組改変問題以降、かえって“重し”が取れたのだろう。いい意味でやりたい放題。本作もまるでビルマの総選挙にぶつけてきたかのようだ。

ちなみに、ネイチーティンを演じるダバンサイヘインさんは、実際にビルマで民主化運動に取り組み、身の危険を感じて04年に観光ビザで日本に入国。入国管理局に収容された後、ようやく08年難民認定を受けたという経験を持つ。したがって演技はまったくの素人だという。

さらなる驚きは、チェサ(祭祀)のシーンが登場したこと。
祖先と家族の結びつきな大切にするコリアン社会では、チェサとても重要な行事だ。ワタシがほとんどドラマを観ないこともあるが、このチェサを取り上げたことは、このドラマの制作陣が在日社会をより理解しようとしている姿勢が伺える。

そして、この在日家族の歴史に、済州島で起きた「四・三事件」を持ち込んだこともある意味、英断だと思う。

激しく対立する父(岸部一徳)と息子が、初めて訪ねた祖国、韓国・済州島。親族から「辛い時代に自分たちだけ日本に逃げた」と罵声を浴びせられ、激しく動揺する父。祖国の海を前に慟哭する二世・父の姿を見て、自らのアイデンティティと向き合う三世の主人公…。
このシーンが胸を打つのは、前述した数々の“伏線”があってこそ。

それだけ冒険心に富んだ重層的なドラマであるはずなのに、その試みが十分結実しなかったのは、じつに残念。やはりもう少し時間枠を拡げて、じっくりと物語を紡いでほしかった…。

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【演劇】五反田団『迷子になるわ』2010/11/08

五反田団『迷子になるわ』
フェスティバル・トーキョーの一貫として出展(店)されたやなぎみわプロディースのおばあちゃんメイド・カフェ「カフェ・ロッテンマイヤー」を横目に、五反田団『迷子になるわ』に駆け込む(11月6日・東京芸術劇場小ホール)。

前田司郎氏(作・演出)が率いる同劇団だが、ワタシは初観劇。
チラシに掲載された本人の弁では、「この頃どうも戯曲を書くのが上手くなってきてしまっていて、これはいかんなと思っている」そうで、「今回は予定を決めずにバッと出かけて迷子になってみようと思います」と記されている。
…まあ、その通りのような芝居だった。

結婚や仕事やら家族やら…自分の人生に閉塞感を感じているらしい(それが“迷子”ということか)30歳になる女性が思いめぐらす脳内模様を、時空を越え、錯綜交えて“開示”したかのような舞台…。まずはそんな印象だ。

死んでしまったのか、始めから存在しないのか(あるいは主人公の分身?)謎めいた“姉”が冒頭から登場し、“恋人”となるウエイター青年との出会いが、“過去”として語られ始める。そして、青年とつきあう以前に不倫関係にあった男との寝間に、時間を遡って青年が乱入し…。
かと思うと巨大な“母親”が現れ、一体となった“父親”が、シュールな笑いを誘いながら登場する。それが前田氏なので、なおさら可笑しいのだが。
さらに、“自分の中”に入っての“家族の物語”が展開し(このあたりは『マルコヴィッチの穴』を想起させる)、登場人物たちもワタシたちも“迷子”にされたまま、オチらしい“オチ”もなく幕が降りる。

舞台に登場するのは、前田氏も含めてわずか5人。舞台装置もステージ中央に置かれたベットと、その回りに客席のように置かれたいくつもの椅子、そして“東京タワー”という簡素なもの。
“タワー”を見上げながら椅子の間をブラブラと歩き回り、“デート”を重ねる二人。ベッドはラブホテルのそれと、自室の、そして診察室の、とクルクルとその役割を変えていく…。

前田氏は“静かな演劇”の系譜とされているそうで、たしかに舞台上で繰り広げられるのは、友人や気心の知れた者同士の“ダベり”のような会話と所作ばかりで、それがまたダラダラと続く…。しかし、そのセリフが英語字幕で映し出されることからもわかるように、アドリブなどではなく、かなり練り込まれたものであることは確か。

いやいや、冒頭に記したように、氏はあえて今回“それ”をやらなかった!?

時間や空間が交錯し、それらをメビウスの輪のように継ぎはいでいく脚本は、それなりにスリリングで興味深かったのだが、最終幕の“ONN/OFF”問答など冗長に感じ、またワタシには“オチなし”の放り出され状態にどうもうまく“迷子”になれず、芝居としてのカタルシスが感じられなかった。
氏のプロフィールには、「日常にひそむおかしみや哀れさから人間の本質を描きだす独特の世界観が話題を呼び」と記されているが、その“独特の世界観”とやらがワタシの脳内に表出しなかった…のだろう。

次は、同氏の「上手く」なった戯曲での作品を観てみたい。

◆五反田団『迷子になるわ』の参考レビュー
ワンダーランド(芦沢みどり氏)

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【本】ニュー・ジャズ・スタディーズ --ジャズ研究の新たな領域へ--2010/11/09

ニュージャズスタディーズ -ジャズ研究の新たな領域へ- (成蹊大学アジア太平洋研究センター叢書)ニュージャズスタディーズ -ジャズ研究の新たな領域へ- (成蹊大学アジア太平洋研究センター叢書)
宮脇 俊文 細川 周平 マイク モラスキー

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これはもう、ワタシにはお手あげだ。

冒頭のジェッド・ラスーラ氏(ジョージア大学教授)による論文「記憶のメディア--ジャズ史におけるレコードの誘惑と脅威」からして、こんな調子だ。
ドゥルーズガタリのノマドロジー(遊牧論)の議論は、非連続性のパラダイムとしても、世界を動き回るジャズという生命体の状況を認めるひとつの考え方としても明らかに有効である」
この一節を読んで、即座にその意味を理解できる人こそ、本書の読者である。ワタシはもちろんチンプンカンプン(笑)。しかし、久しぶりに目にしたなぁドゥルーズ=ガタリ…。つまり本書とは、そうした“ジャズ研究”書である。

近年、日本でも注目が集まるカルチュアル・スタディーズだが、本書もそうした世界的な文化研究潮流を受けての編纂かと思われるが、多様な領域に広がるジャズ研究の代表的な論考と最新論文を収めたアンソロジー…だという(「だという」と記したのは、「代表的な」論考かどうかワタシには判断できないから)。

編著者の一人であるマイク・モラスキー氏(一橋大教授)は、本書の狙いをこう記す。
「ジャズに関する雑誌記事や書籍は、今や、おびただしい分量に及ぶ。ただし、従来の『ジャズ本』のほとんどが、ガイドブックや、歴史学のアマチュアによるジャズ史入門書や、ミュージシャンの伝記、あるいはレコード評などのカタログ的な集成になっている」(中略あり)として、90年以降に興隆してきた民族音楽や歴史学、文学及び映画研究、社会科学の諸分野に及ぶジャズを題材とする多様な学術研究、つまり「このニュー・ジャズ・スタディーズという新たな研究分野の刺激的可能性を、日本の読者に伝えること」としている。
つまり、ワタシ流の勝手な捉え方をさせてもらえば、多分野の専門家による“ジャズ偏愛”研究書なのだろう…。

というわけで、本書は〈聴く〉〈見る〉〈読む〉〈書く〉〈演る〉の5章から成り、メディア論、ジャズとパンク、村上春樹、楽器の表象、中国ジャズ、歴史叙述、即興、マイルス、フリー・ジャズ、音響など、多彩なテーマが論じられている。

が、しかしながら、当方の理解力(アタマ)が足りないのか、あるいは専門家による“論文”のためだろうか、どうも周縁部を撫でているかのような印象で、読んでいて、だから結局何が言いたいの!? 早く結論を言ってよ!? とツッコミを入れたくなることしばし(苦笑)。

例えば、「『音を外す』:意味、解釈、マイルス・デイヴィス諸問題」の論考に比して、ジェフ・ベック(ロック・ギタリスト)について、やはりギタリストである鈴木賢司氏が評した「コンサートでもレコードに刻まれているもの中でもそうだが、けっこうミストーンが多かったりするである。しかし、驚くことに次の瞬間、ベックは、理論的に明らかにアウトしたその音をその曲の一部にしてしまう。という恐ろしい技を持っている」(レコード・コレクターズ1989年5月号より)との、ひと言の方がよほど説得力を持ってはいまいか。
あるいは、「ジャズの歴史叙述とルイ・ジョーダンの問題」では、「従来のジャズ史にほとんど登場しないサックス奏者ルイ・ジョーダンの歴史的な位置づけ考察している」というが、R&B~ロック・ヒストリーの文脈で、何度となくその重要性が語られたきた彼を知るワタシとしては、「えっ、今さらルイ・ジョーダン? ジャズ研究って遅れているじゃん」という感も…。

どうもケチばかりつけるようだが、ひとつはジャズが研究されてきたようで、され(でき)なかった要因の一つに、その“出自”がはっきりしないという点があるのではないだろうか?
というのは、本書でも記されているようにジャズの初録音は1917年で、すでにジャズが“誕生”してから数十年が経過しているとされる。つまりこれだけ世界を席巻したジャズというボピュラー音楽の本当の“歴史”がわかっていないのだ。
一般的には、ジャズは「西洋音楽とアフリカ音楽の組み合わせにより発展した音楽」とされるが、その誕生の瞬間を見た人も聴いた人もいない。ラグタイムを発展させて、ニューオリンズで「初代ジャズ王」と呼ばれたバディ・ボールデンの録音も残っていない。一方で、近年ではアイルランドのジグの影響も指摘されているが、ワタシの知る限りでは、この関連性についての研究もあまり見当たらない。
というわけで、ジャズはその出所が不明なまま発展してきたからこそ、研究“萌え”する大衆文化として、本書のような研究書が産み出されたのやもしれない…。

さて、そうした本書のなかでワタシの興味を最も惹いたのは、E・テイラー・アトキンズ氏(北イリノイ大学教授)による「『お国のためのジャズ』:戦時日本の新文化体制に向けて」で、ここでは戦時中にもジャズが演奏され続けた事実や戦争協力したジャズ・ミュージシャンについて言及されている。
まさに盲点をつかれたような瞠目の研究で、これらが日本の研究者ではなく、他国の研究者によって成されていることに、なんとも言えぬ悔恨を抱いてしまうのはワタシだけであろうか。できれば、このテーマだけで一冊読んでみたい…そう思わせる同氏の“労作”だ。

ほかに、録音技術の進化がどのように演奏者に影響を及ぼしたかを考察した上田泰氏(成蹊大学救助)による「フォノグラフ効果とジャズ:マーク・カッツの議論を中心に」も、ありそうでなかった視点で、面白く読ませてもらった。

いずれにせよ、冒頭に記したようにワタシは本書を“批評”するような力量もないので、今後もこうした研究ならびに“議論”にぜひ期待をしたい。

◆『ニュー・ジャズ・スタディーズ --ジャズ研究の新たな領域へ』

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【LIVE】藤井郷子オーケストラ2010/11/10

ZakopaneZakopane
Satoko Fujii Orchestra Tokyo はぐれ雲永松(tb) 古池寿浩(tb) 城谷雄策(tp) 渡辺隆雄(tp) 田村夏樹(tp) 福本佳仁(tp) 高橋保行(tb)

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久かたぶりのジャズ・ライブ。新宿ピットインへ藤井郷子オーケストラを聴きに行く(11月9日)

CDでは耳にしていたものの生ライブを体験するのは初めての藤井オーケストラ。
ジャズ・オーケストラというと、一般的にはビッグバンド・ジャズ=スイング・ジャズというイメージが強いが、現在日本で活躍するジャズ・オーケストラは、世界的に見ても高水準のフリー系オーケストラが、しのぎを削るように活躍している。
藤井郷子オーケストラもその一つで、メンバーを替えながら世界で活躍している。

で、この日のパーソネルは以下の通り。
早坂紗知、泉邦宏(as) 松本健一、木村昌哉(ts) 吉田隆一(bs) 田村夏樹、福本佳仁、渡辺隆雄、城谷雄策(tp) はぐれ雲永松、高橋保行、古池寿浩(tb) 藤井郷子(p) 永田利樹(b) 堀越彰(ds) ゲスト(エリオット・シャープG、臼井康浩G)
ゲストも含めて、錚々たる面々だ。

それで1曲目が始まったのだが、不協和音が多いせいもあって、どこか現代音楽を思わせるオーケストレーション。藤井氏は構築美を追求するタイプなのだろうか、「渋さ知らず」に代表される“爆走&カオス系”とは、趣を異にする端正な音で、ややおとなしめの印象。
かつてICPオーケストラ(82年)やアート・アンサンブル・オブ・シカゴ(84年)、カーラ・ブレイ(84年)を生聴きしてきたワタシとしては、どうも“祝祭感”が足りない…と、感じていこところ、2曲目の早坂氏のサックス・ソロあたりから、ようやく演奏が熱くなる。
3曲目には“干支”をモチーフにしたという新曲を披露。初めに藤井氏の解説があったせいか、干支の動物たちをイメージしながら楽しく聴く。ここで1セット目が終わり、休憩へ。

休憩でアルコールが入ったせいか(?)メンバーもリラックス。2セット目は肩の力の抜けたよりフリーキーな演奏が繰り広げられた。
ゲストの二人のギタリストはもうフツーにギターは弾きたくないのか(笑)、スケール無視のでたらめフレーズに、ボディを擦り、叩き、ボリュームコントロール弄りまくりと、やりたい放題。
まるでギターの“暗黒舞踏”なのだが、一応、他のプレーヤーは“モダンダンス”を演っているのだから、もうちょっと弾いてくれないかなぁ…と思っていたら終盤、二人のギター・バトルが炸裂!

また後半3曲目からは、田村氏が自作曲の指揮を執り、ここで初めて、この楽団がじつはトシコ=タバキンならぬ藤井=田村・双頭オーケストラであることに気づく。藤井氏も指揮を離れ、アクロバティックにピアノを弾く。
管楽器陣が次々と立ち上がり、重厚かつフリーキーな演奏をたたみかけ、このオーケストラの“実力”を存分に発揮し、“祝祭”は終宴した。

改めて、藤井オーケストラ、ひいては日本のフリー系ジャズ・オーケストラの“底力”を感じた一夜だった。

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