【本】朝鮮通信使 いま肇まる2011/09/01

朝鮮通信使いま肇まる朝鮮通信使いま肇まる
荒山 徹

文藝春秋 2011-05
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600年に渡る歴史をもちながら、日帝による植民地支配によって歴史の隅に追いやられていたといっていい「朝鮮通信使」に再び注目が集まるようになったのは、1980年代も半ばを過ぎてからのことだろうか。

いわゆる日韓の民間交流が盛んになるつれて、かつて長きに渡って双国の友好関係構築に貢献してきた朝鮮通信使が、“再発見”されたのだ。そこには辛基秀氏をはじめ、多くの研究者たちの地道な努力があったことも忘れてはならないだろう。

そうした近年、さまざまな朝鮮通信使に関する書籍が刊行されるのなかで、本書が異彩を放っているのは、それを朝鮮通信史の“視点”から描いている点にある。それも歴史に登場する一人ひとりの通信史の視点で。

もちろん当人たちはすでに歴史上の人物であって、そこは当然、ノンフィクションの要素が強いのだが、そこは伝記作家として知られる荒山徹氏だ。妄想も含めて、朝鮮通信史を主人公とした“歴史物語”として作品を仕上げている。

もっもとそうした試みが、ワタシには必ずしも成功していると思えないのだが、一部の研究者にしか知られていなかった朝鮮通信使が、こうした歴史エンターテイメントとして作品化されることに、感慨を覚えざるをえない。

そのエンターテイメント性からいえば、本編よりも巻末に付された歴史上の通信史たちによる架空座談会が、何よりも愉快だ。作者の妄想が爆走し、研究書に押し込められていた歴史上の人物たちが、まるで目の前でツバを飛ばしあうかのようにキャラ立ち十分に放言しまくる。

精緻な歴史家は眉をひそめるやもしれないが、「歴史を知る」にはこんなアプローチがあってもいい。

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【映画】アウトレイジ2011/09/03

『アウトレイジ』
『アウトレイジ』(2010年・監督:北野武)

「全員悪人」をキャッチフレーズに、ヤクザの抗争劇を描いてカンヌ映画祭りで話題を呼んだ北野武監督作。…なのだが、この作品で北野監督はいったい何を描きたかったのだろうか? まずそんな疑念が沸いてしまった。

というのもヤクザの抗争劇などは、それこそ今まで数多(あまた)描かれてきたわけだし、血も涙もなく合従連衡を繰り返す策略・謀略劇にしても、『棒の哀しみ』などのヤクザ映画のみならず、『華麗なる一族』などの企業買収や『武士道残酷物語』などの時代劇でも散々語られてきたことだ。だから、本作における抗争劇最期の勝者にも意外感はない。

ではこれらの諸作と本作のどこが違うかといえば、北野監督が得意(こだわる?)とするスタイリッシュな暴力描写かと思うのだが、本作ではそれが全開しつつも北野監督がもう一つの「顔」ともいえる「静」がここにはない。あるいは効いていない、というべきか。

デビュー作『その男、凶暴につき』で北野氏がただただ路上を歩くシーン、そして『HANA-BI』での岸本加世子との“無言”の会話シーン。それらの「静」のシーンがあってこそ、「動」なる暴力描写が映え、水墨画のような陰影がついた。暴力のもつ「哀しみ」が伝わってきた。

本作にはどうもそれが足りない。あえて封印したのだろうか?
『ソナチネ』をして「ダーティーハリーと小津の幸せな結婚」と評された北野節は影をひそめ、ここでは結婚相手のいない殺人スプラッタームービーとなってしまった。

続編も制作されているというが、さて幸せな結婚は見られるだろうか?

『アウトレイジ』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「昔の自分を殺した北野武」--シンジの“ほにゃらら”賛歌
「本家帰りしたバイオレンス映画の快作」--お楽しみはココからだ~ 映画をもっと楽しむ方法
「面白い映画だが、もう少し工夫の余地も」--映画的・絵画的・音楽的
「北野監督らしいトンガリ感が感じられず」--超映画批評(前田有一氏)
「北野監督が暴力の世界をリロードして臨む、ニュー・バイオレンス映画」
--映画通信シネマッシモ(渡まち子氏)

「新たなステージに立った暴力映画」--映画.com(高崎俊夫氏)
「エンタティンメントであると同時に、北野武監督による暴力論」
--映画ジャッジ!(小梶勝男氏)


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【本】僕たちのヒーローはみんな在日だった2011/09/04

僕たちのヒーローはみんな在日だった僕たちのヒーローはみんな在日だった
朴 一

講談社 2011-05-24
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芸能・スポーツ、財界などさまざまな分野で活躍する在日コリアンたちののルーツを明らかにした書としては、古くは『在日コリアンパワー』 (1988年)があり、 このテーマから『海峡を越えたホームラン』(1984年)や『コリアン世界の旅』 (1997年)といった秀作ルポルタージュも生れている。

そうした意味では、本書にそう目新しさはない。
力道山をはじめとする本書に登場する在日スポーツマンはほとんどすでに「コリアン」として知られている人たちであって、そこに登場するエピソードもどこかで目にしたものが少なくない。

芸能人にして然りなのだが、個人的には故・松田優作氏の件に心を痛めた。松田がコリアンであることも、それゆえにハリウッドを目指していたことも巷間に耳にしていたが、ここで語られるのは激しい在日コリアン差別であり、そこから逃れようとする松田の慟哭だ。

僕は今年の7月から日本テレビの『太陽にほえろ!』という人気番組にレギュラーで出演しています。(略)もし、僕が在日韓国人であるということがわかったら、みなさんが失望すると思います。特に子供たちは夢を裏切られた気持ちになるでしょう。

…という帰化を望む松田が法務大臣当てた「帰化動機書」からは、悲痛な叫びが伝わってくる。その一方で、「在日韓国人」であることは、人を「失望」させ、子供たちの「夢」を奪うことだと書かざるをえない、屈折した心情が何とも痛ましい…。

韓流ブームでかつてほど、在日コリアンに対する差別意識はなくなったのではないか? という意見も聞く。ならば未だに多くの芸能人が、自らの出自に口を閉ざすのは何故なのか? そこには厳然たる「差別」があるからではないか?

ワタシはTV画面に並ぶ日韓のタレントを見るたびに、韓流スターを迎える“日本人タレント”を演じる彼ら・彼女たちの心情はいくばくたるものか…と考え込んでしまう。もしかすると、在日コリアン・タレントにとって、韓流ブームは自分の出自が暴かれる危険性のある、ひどく迷惑なものなのではないのか、と。

『ソウルの練習問題』 (1983年)を契機にして「韓国ブーム」が起きた際には、ワタシはこれは「韓国ブームはあっても、在日韓国ブームではない」と断じたことがある。

それと同じように韓流ブームが、在日コリアン・ブームには繋がっていない。新大久保には多くの在日コリアンが住むのに、多くの日本人はその存在に気づかない(見ようとしない)まま朝鮮半島のスターたちに思いを馳せる。

このイビツな日韓(人)関係を改めて、本書を通じて知ってほしいと思う。

ネット上を跋扈する「在日認定」や、すでに忘却の彼方にあった「日立就職差別裁判」を改めて検証できたことも、ワタシ的には収穫だった。

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【落語】「残暑、Wホワイト落語会、よたび」三遊亭白鳥 桃月庵白酒 二人会2011/09/07

三遊亭白鳥 桃月庵白酒 二人会
なるほど、白鳥と白酒とでWホワイトか…。三遊亭白鳥桃月庵白酒両師匠による二人会だが、新作派と古典派というじつに対照的な芸風ながら、若手で、またともに実力派による会ということで、4回目を重ねての「残暑、Wホワイト落語会、よたび」。(9月6日・北沢タウンホール)

まずはハンドマイクを持った二人が登場し、この日の割引グッズである「白いハンカチ」を観客にかざしてもらっての記念撮影もまじえるなど、軽妙な掛け合いトークで場を温める。

話の内容から、「今日は怪談噺かな…」と推測したが、白酒師匠の一席目は「松曳き」。古典落語でお馴染みの粗忽者同士の珍妙なやりとりがやがてシュールな味わいさえ醸しだすという流石の話術だが、もともと人格が混濁する(?)などややこしい噺なので、ややわかりにくい描写も。

一方、白鳥師匠はトンデモないネタを持ってきた。
「女性芸人の怨念を描いた」という「珍景かさねが真打」は、本人をはじめ白酒師匠から弟子、女流落語ら「実名」で落語界のお歴々がバンバン飛び出す実録(?)業界裏話落語。とにかく危ない暴露話(?)が満載で、とてもここでは内容を書け(ききれ)ない(笑)。

なんと「中入り」を挟んでので50分にも及ぶ大ネタだが、話の入りで白鳥師匠の弟子同士の会話に「野ざらし」が、終盤の大怪談大会に見事につながるなど、メチャクチャだがよく出来た(?)噺。落語をまったく知らない御仁には「?」だらけの噺だろうが、ワタシらには抱腹絶倒の白鳥ワールド。

それを受けて白酒師匠は、「彼(白鳥)は一体どこへ行こうとしているんでしょうかね?…」とマクラでやって会場爆笑。世界を一気に、自分の土俵に引き込んでの「不動坊」。幽霊は登場するものの、こちらも古典落語お馴染みのドタバタ騒動を楽しく聴かせる。

「替わり目」の酔った亭主など、この人は人のいいおっちょこちょいを描かせたら絶品で、ここでも未亡人との縁談を持ちかけらて夢見心地の男らが、観客を夢見心地に…。

新作と古典、芸風も違うのに、なぜか通奏する笑いを感じる二人。方向に違っても、客を思いっきり幸せにするぞ、という心意気がそう感じさせるのだろうか。

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【本】ルポ 認知症ケア最前線2011/09/10

ルポ 認知症ケア最前線 (岩波新書)ルポ 認知症ケア最前線 (岩波新書)
佐藤 幹夫

岩波書店 2011-04-21
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全国の事例をもとに「認知症ケア」の最前線を取材・報告した最新刊。「認知症」といえば、少し前まで「ボケ」て何もわからなくなった人…というイメージがあったが、今ではその人なりの「ケア」が大切でされ、さまざまなケアの仕組みや方法が介護・医療の現場から実践されている。

それだけに現場サイドにいる人から話を聞くと、近年の認知症に対する認識やケアの進化は、かつてと比べると「隔世の感がある」という。近年、認知症対応のグループホームやデイサービスが急増していることも、こうした背景があるだろうし、何しろ「ケア」という考え方自体あまり認識されていなかった。もちろん“高速”と言っていい、急速な日本の高齢化社会への危機感がその根底にある。

それでは、具体的に「認知症のケア」というのはどういものなのか?
どのような施設で、どのようなスタッフが、どのようなケアを行っているのか?
一般の人にもわかりやすく、その最新型を紹介しようと試みたのが本書だ。

滋賀県守山市の「もの忘れカフェ」、京都市や宮津市にある「京都式」のえらべるデイサービス、全国に先駆けた共生型として知られる富山市のデイケアハウス、幼い子が高齢者とともに笑顔になる「幼老統合 ケア」など、全国のさまざまな先進的な事例が紹介される。

ただ一読して思うのは、高齢者医療や介護現場の取材を重ねてきた筆者ならでは労作であると思う反面、仕事の関係でこうした事例のビジュアル(画像・動画)を観てきた身としては、どうも活字だけでは伝わりにくい部分を感じてしまうのだ。

再三の提言になるが、こうした本こそ画像・動画と連携した電子書籍こそが効力を持つのではないだろうか? 最新の事例や試みはネットでも伺い知ることが出来る時代だ。ならば、『こんな夜更けにバナナかよ』(渡辺一史著)『母のいる場所 シルバーヴィラ向山物語』(久田恵著) などのようなヒューマン・ドキュメント的な“物語”が描かれていなければ、現代ではこうしカタログ・ルポ的な「本」はそれほど意味を持てなくなってしまった…。

残念ながら本書を読んで、そんな「本が本であることが難しい時代」を、改めて実感してしまった。

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【本】新書 沖縄読本2011/09/11

新書 沖縄読本 (講談社現代新書)新書 沖縄読本 (講談社現代新書)
下川 裕治

講談社 2011-02-18
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いわゆる「沖縄本」があまた世に氾濫するなかで、「沖縄ブームに落とし前をつける」として、この道の手練である二人の書き手(下川裕司氏・仲村清司氏)が書き下ろした、沖縄の今(真の姿)を直視した書。

冒頭から本土(ウチナンチュ)が描く沖縄のイメージを壊すショッキングな報告がなされる。長寿県として知られる沖縄が、じつは今、危機的な状況に陥っているというのだ。沖縄の伝統食に支えられてきた長寿文化は、ファストフードの急速な普及によって肥満率はなんと日本一となり、県民総メタボ化が進む。

さらに元気で働くオジィ、オバァたちの姿も消えつつある。その背景にあるのは、本土資本の流入による地域の崩壊と貧困だ、著者たちは指摘する。

ワタシも目にしたが石垣島などは、本土資本による観光開発と本土からの移住者によってホテルやマンションが急増。土地の値段も高騰しているという。それによって老舗ホテルが廃業に追い込まれるなど、多重債務に喘ぎ、自殺者も急増する深刻な沖縄経済の実相をあぶり出していく。

このように著者たちは、自らが加担してきた「沖縄ブーム」の影で、さまざまな“沖縄クライシス”が進行していることを自戒を込めて告発する。

もちろん基地の問題も避けては通れない。
『好きになっちゃった沖縄』『沖縄オバァ列伝』 といった、ノベルティな(?)沖縄エンタメ本を手がけてきた著者たちも、ここでは「アメリカが普天間にこだわる真の理由」として、真正面から基地問題に切り込む。

もっとも政治的なテーマだけではなく、沖縄の人々や暮らしを深く考察してきた著者たちだけあって、食生活や高校野球、音楽・芸能から、本土からは伺いしれない独自の文化世界を描き出していく。

そのあたりが二人の強みだろう。『観光コースでない沖縄』『だれも沖縄を知らない 27の島の物語』 といった、他のアナザーサイド沖縄本とは一線を画する所以だ。

「離島」に対するアンビバレントな感情などもディープに切り込む。
ワタシも西表島を旅した際に、近隣の島から移住した人たちによる稲作の跡をみたが、それが厳しい「人頭税」によるものであったことを本書によって知った。そこには牧歌的な風景とは縁遠い、歴史の軛(くびき)が影を落とす。

ほかにも、本土復帰前に沖縄に住んでいた期間の保険料が免除される「年金特例」など、本書で学んだことは少ないないが、手軽に手にとってもらえる「新書」にこだわったためだろうか、一冊に収めるにはやや窮屈なボリューム感も感じられた。

 「沖縄が好き。癒やされる」と言うウチナーンチュに対して、知念ウシ氏(ライター)は、「沖縄には日本(本土)から年間五百万人が来る。沖縄が好きなら五百万人で国会議事堂に座り込んで基地をなくしてほしい」と、喝破した。

変わりゆく沖縄と、そこに深く関わる日本(本土)。ブームに隠された沖縄の真実を、今後も地についたレポートとして照らし出してほしい。
巻末のブックガイドも秀逸。

『新書 沖縄読本』の参考レビュー(*タイトル文責は森口)
「ブーム終焉後を漂う今」--琉球新報(新城和博氏)

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【映画】ビリー・ザ・キッド 21才の生涯2011/09/12

ビリー・ザ・キッド 21才の生涯
『ビリー・ザ・キッド 21才の生涯』(1973年・監督:サム・ペキンパー)

サム・ペキンパーといえば、暴力描写を得意とするアクション映画の名匠として『ワイルド・バンチ』(1969)、『わらの犬』(1971)、『ゲッタ・ウェイ』(1972)といった諸作が思い浮かぶが、一方で移りゆく時代への郷愁を込めた『砂漠の流れ者』(1970)のような印象深い作品も撮っている。

本作もそうした後者の系譜に入るものと思われるが、考えてみれば代表作である『ワイルド・バンチ』にしても、『ガルシアの首』(1974)にしても、どこか哀愁を漂わせた“滅びの美学”を謳っているわけで、この人のこうした持ち味が激しい暴力シーンとコントラストとなって、その作品に深い陰影を与えているのかもしれない。

本作にしても、若きビリー・ザ・キッドをハイエナのように追い詰める保安官パット・ギャレット(ジェームズ・コバーン)との銃撃戦や、お得意のスローモーションでそのペキンパー節を隠そうとしないが、重点はむしろ“郷愁”と“滅びの美学”に置いている。

そのうえで、『砂漠の~』との差異をあげれば、キッドがかつて兄のように慕っていたギャレットとの世代間闘争を持ち込み、時代(70年代)とよりリンクさせたことだろう。

ここでのキッドは、早世したロック・スターたちの姿に重ね合せることができる。
ジミ・ヘンドリックス、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリン…あの頃は、多くのミュージシャンたちが次々と死んでいった時代だった。権威や体制に背を向け、Don't Trust Over Thirtyを地で行くように生き急いでいったミュージシャンたち。
みなキッドと同様に、20代の若者だった。

ペキンパー監督は、キッドに彼ら彼女らの姿に重ね合わせたのではないか。
なにしろキッドに、後に『スター誕生』で見事なやさぐれ元ロック・スターを演じた文字クリス・クリストファーソンを配し、キッドを慕う若者(!)にボブ・ディランあのを抜擢しているのだ。

これは西部劇の名を借りたロック・ムービーと言ってもいい。
音楽を担当したディランのうた詩歌も、あくまでも映画音楽としてストーリーと場面により沿い、この“音楽映画”を盛り立てる。
名曲『天国の扉』も、なるほどこのシーンがあってからこそ生れた名曲なのだと納得するマッチング。

そうした意味でも、時代(時間)を貫通するフェイク・ドキュメンタリーであり、カルトな音楽ムービーであるといっていい。

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【本】スピリチュアル市場の研究2011/09/13

スピリチュアル市場の研究 ―データで読む急拡大マーケットの真実スピリチュアル市場の研究 ―データで読む急拡大マーケットの真実
有元裕美子

東洋経済新報社 2011-04-22
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日本にそれが紹介された当初はキワモノ的な扱いをされていた(と思う)「スピリチュアル」だが、いつの間にか「スピ系」としてフツーの人があたり前のように語るようになった興隆ぶりを受けて、それを「成長産業」としてビジネスの視点から俯瞰した書。

「スピリチュアル」というと、つい『アクエリアン革命』ニューエイジシャーリー・マクレーンといった欧米の精神世界ブームばかりを想起してしまう世代だが、じつは「スピリチュアリティは日本人にとって意外にも身近なのもである」と、まずは筆者が指摘する。

なんと「神社仏閣の数は約16万と、コンビニエンスストア数(4.3万)や郵便局数(約2.4万)の合計よりもはるかに多い」「初詣参拝客は1億人に迫る勢いであり、アンケート調査でも4分の3以上が年1回以上参拝していると」と意表をつく「和スピ」の浸透を指摘をしたうえで、「それでも日本人はスピリチュアルなことを信じているのだろうか」と疑問を呈し、米国のスピリチュアル・ビジネスとの比較(差異)を明らかにしていく。

米国内のレイキ利用者120万人(米国成人の約0.6%)、ヨガ利用者1600万人(人口の約5.3%)、ヨガ市場約3000億円以上という数字を紹介しないがら、「移民社会である米国であるからこそ、出身国の文化の一部として風水やヨガといったスピリチュアルなものが持ち込まれ、それらが生活の一部となって定着し、多様性を重視する中で広く社会に浸透している」とする。

一方で、2000年代中頃から興隆した日本のスピリチュアル・ブームについては、「スピリチュアリティが浸透したのではなく、スピリチュアルな考えに深く触れた経験のない多くの人々が批判的吟味をする材料が乏しかったがために、表面的に手軽な開運などの考え方に飛びついて広がったとも解釈できる」として、「お参りや占いゲーム等を中心に利用する大量のライト・ユーザーがマジョリティを占めるというわが国固有のスピリチュアル・マーケット構造が生れている」としている。

スピリチュアル・ビジネスを利用する目的やメリットを問うたアンケート調査でも「特にない、なんとなく」を選んだ人の割合が高いことも、その証左とするなど、冷静な視線でこのブームを分析する。

もっとも本書の構成は、主にこうしたスピリチュアル・ビジネスに関するさまざまなデータを羅列したものなので、「深い分析」を求める読者は物足りなさを感じるだろう。
しかし、冒頭にも述べたように本書の目的は、スピリチュアル・ブームをビジネスとして分析しようとする試みなので、そうした要求は本書に続く今後の研究に委ねるべきだろう。

いずれにせよスピ系にハマッてしまった人は、今ワタシたちが今どこにいるのか確認する意味でも、読んで損のない一冊だと思う。

『スピリチュアル市場の研究』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「“スピリチュアル”市場から学ぶところも多いが、気になる点も」--宗教情報センター(藤山みどり氏)
「スピリチュアル・ビジネスをさまざまな角度からレポート」-- 一条真也のハートフル・ブログ
文字「「キワモノ」で済まぬ成長ぶり」--asahi.com(梶山寿子氏)

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【映画】赤い鳥逃げた?2011/09/14

赤い鳥逃げた?
『赤い鳥逃げた?』(1973年・監督:藤田敏八)

原田芳雄追悼特集として日本映画専門チャンネルで放映された本作をチェックしたが、じつに70年代日本映画な、じつに藤田ビンパチな、じつに原田芳雄な逸品。

鬱屈した日々を送るアラフィー(28歳)な原田芳雄と、その弟分・大門正明、その恋人で名家から家出してきた桃井かおりの3人が織りなす、破天荒でビターな青春物語。

チンピラ兄貴と小心者の弟分という関係性は、後の『傷だらけの天使』(1974年)の原形を思わせ、そこへ若くて魅力的なオンナが侵入して男たちの関係が揺らぐ様は『俺たちの旅』(1975年)を想起させて、さらには桃井かおりという特異なキャラクターと後半のロードムービー展開からはどうしても『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)を思い起こしてしまう。

というように、もしやするとこのビンパチ・ワールドがその後の男男女ドラマに多大な影響を与えたやもしれないと妄想するが、もっともラストはボニー&クライドなので、本作自体もあの時代の(ニューが付いた)シネマ・ムーブメントからの影響は免れてはいないのだろう。

それにしても、若き原田芳雄のやさぐれ感は、まさに本作のテーマ・雰囲気(カラー)にピッタリで、地でいっていんだか何だがようわからんまま、まさに自然体で演じている(ように見える)。

それにも増して、終戦後30年にして廃墟だった東京の街並みはかくも変貌し、またこのようなセツナな若者たちを生んでいたことに感慨深い。改めてその急激な変容に驚くと同時に、3.11を経て本作から40年を経ていったいワタシたちの何が変わり、何が変わらなかったのか? という思いにも駆られてしまう…。

それはさておいても、冒頭に記したようにまさに70年代の空気を思いッきし吸い込んだこの日本版フィルム・ノワールは、原田芳雄の雄姿とともに後世に記憶されていい作品だと思う。
桃井かおりのまぶしい裸身も、ピコ(樋口康雄)のジャジーな音楽も、目に耳に残る。

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【本】日本文学史 近世篇一~三2011/09/17

日本文学史―近世篇〈1〉 (中公文庫)日本文学史―近世篇〈1〉 (中公文庫)
ドナルド キーン Donald Keene

中央公論新社 2011-01-22
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先頃、日本への永住・帰化を表明したドナルド・キーン氏による大著(原著は1976年刊行)。「日本文学」に明るくないこともあって、いつかは読みたいと思ってようやく手にした書だが、キーン氏という最良のナビゲーターに得て、その大河のような流れにたゆたう至福の時を過ごした。

この名著を批評するほどの知識も資格もないことは重々承知しつつも、いくつかの印象に残った点を記させてもらえば、まずもってその豊かな知識と鋭い考察以上に、その心にしみ入るような日本語表現の確かさに魅了される。
「~やぶさかでない」など、次々に繰り出される表現や言い回しに引き出しの多さに驚嘆し、豊穣な筆致に圧倒される。

そのうえで本書を特徴づけているのは、「文学」を活字だけではなく、幅広いジャンルの文化として位置づけているのもキーン氏の眼目といえる。それゆえ、歌舞伎や浄瑠璃の記述に紙面を大きく割き、江戸文学/文化の興隆を立体的に活写している。

歌舞伎の祖といわれる出雲阿国の「念仏踊り」を綴った場面など、まるで400年前の京都・四条の河原にタイムワープして目の前でその艶やかな姿を目にしているかのような錯覚に陥る。手垢のついた表現で申し訳ないが、阿国をこれほど見事に「再現」した文章にお目にかかったことがない(近世篇二)。

そこに写し出されるのは、江戸・上方という町民の街に花開いた庶民文化だ。
キーン氏は序文の冒頭でこう記す。

徳川期の文学の特色は、なににもまして、それが(武家階級も含めて)民衆のものだったという点であろう。

井原西鶴、近松門左衛門、上田秋成といった庶民に愛された作家たちをはじめ、俳諧、連歌、和歌、戯作、狂歌、川柳、漢詩文にいたる庶民文学までつぶさに紹介し、独自のメスをいれる。
そして本書を通奏する氏の視点は、最期までブレない。

幕府によって二百五十年の長きにわたって維持された泰平の孤立は、表層的な観察者の目には、あらゆる「変化」に対する拒絶、幕閣の政策を指導した儒臣たちによるひたすらな保守と体制保持の世、と映るかもしれない。だが、そこに展開した文学を子細に点検するとき、われわれが発見するのは、なんという「変化」だろう。(近世篇三・p326)

ワタシはここに網野善彦史観に通じる、庶民文化への曇りのない視座を感じることができる。

それにしても、キーン氏という“異邦人”によって日本近世文学のなんたるか教えられるというのも奇異な話だが、考えてみれば故・中村とうよう氏(音楽評論家)が辺境・日本に居て距離を置いて欧米(のみならず世界)のポピュラー音楽に対してあれだけ鋭い論評が展開できたと同じように、キーン氏の“異邦人”という矜持があってこそ、これほど深く、冷静に日本の文化を捉えることができたのではないかという気もするのだ。

キーンさん、これからも日本文化を愛でつつ、鋭い論説を発し続け、そして長生きしてください。

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