【映画】愛のむきだし2010/09/05

愛のむきだし
『愛のむきだし』(2008年・監督:園子温)
3時間57分という長尺ながら、盗撮、虐待、宗教、暴力、純愛を壮絶に描き、国際的な評価も含めて、大きな話題を呼んだ邦画作。まず驚かされるのが、本作が監督が知り合った「盗撮のプロ」が新興宗教に入った妹を脱会させたという経験を基にししているという点。もちろんデフォルメはしているだろうが、「実話に基づいている」というのが、まさに現代ニッポンを象徴しているかの如くスゴイ!
つまりアメリカに大きな衝撃を与えた「9.11」が、いまだにアメリカ社会に深い傷を残していると同様に、この日本では「オウム」がそれと同様に深く突き刺ささったままでいることを本作は示し、さらに日本社会に深く根をおろす「虐待」をも照射する。そんな作品…だ。
それにしても、ワタシはこの作品に4時間もの間、惹きつけられっばなしデシた( ^ ^ ; 。これは展開が読めない強引ともいえるストーリーと、壮絶ななかにも全編ユーモアをにじませた脚本と演出の勝利でしょう。
ヒロインを演じた満島ひかりとカルト教団の安藤サクラの評判が高いようだが、主人公の西島隆弘も映画初出演とは思えない驚愕の演技(\_\) 。主人公の父である神父を演じた渡部篤郎も久々(?)の怪演もウレシかったっス。(^_-)

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_ 映画的・絵画的・音楽的 - 2010/09/18 07:03

 前日のブログ記事で書きましたように、TSUTAYAから『愛のむきだし』のDVDを借りてきて見てみました。
 この作品は、昨年さまざまの賞(注1)をもらって注目されていましたから是非映画館で見たいものだと思っていましたが、余りにも長尺のため二の足を踏んでいたところ、とうとう劇場公開は終わってしまい、そうなるとまあいいやとなって、DVDもそのまま見ずに終わるところでした。

(1)園子温監督の作品は、映画館では『ちゃんと伝える』しか見たことがありませんが、その映画のAKIRA(EXILE)といい、この映画の西島隆弘(注2)といい、歌手を俳優として使うのがとてもうまい監督だなと思いました。
 また、DVDで見た『紀子の食卓』は、この映画ほどではありませんが160分の長さの作品ながら、この映画同様その長さは少しも気になりませんでした。監督の類い稀なる長編制作力によっているものと思われます(注3)。

 そんなことはさておき、この映画は、長いだけあってストーリーはかなり複雑で、それを把握するだけで精一杯になってしまいます。大雑把には次のようでしょう。

 母を幼い時分に亡くしながらも、主人公の本田ユウ(西島隆弘)は、神父の父テツ(渡部篤郎)と二人で幸せな生活を送っていたところ、自由奔放なカオリ(渡辺真起子)が突然彼らの前に現れます。テツは神父でありながらカオリに溺れてしまいますが、そんな日は長く続かず、カオリは立ち去ります。
 ある日、ひょんなことから「女装」していた最中に、ユウは、街のチンピラに絡まれていたヨーコ(満島ひかり)に出会い救出しますが、彼女に「マリア」を見出し恋に落ちます。ヨーコも、自分を助けてくれた女装のユウ〔謎の女(サソリ)〕に恋をしてしまいます。
 そうしたところ、いなくなったはずのカオリが再び現れ、父はそのカオリと再婚すると言い出します。おまけに、カオリの連れ子がまさにヨーコだったのです。ヨーコは幼少期に父から受けた虐待で男という男を全て憎んでいますから、サソリの正体がユウだとは知らないこともあって彼を酷く毛嫌いします。
 同じころ、「ゼロ教会」という新興宗教団体が世間を騒がせていました。そこにはコイケ(安藤サクラ)という敏腕ながら性格の曲がった女性信者がいて、信者数を増加させるべくユウたちに近づいてきます。ついには、ヨーコに自分がサソリだと思わせ、

_ 映画的・絵画的・音楽的 - 2010/09/18 07:04

 ブログ「はじぱりlite!」の6月6日の記事「カメラ、盗み見る視線」では、ロンドンのテイト・モダン美術館の企画展『Exposed―Voyeurism, Surveillance and the Camera』(注1)を見て触発された注目すべき議論が展開されています。



(1)ブログにおけるtrippingdog氏の議論は、あらまし次のようなものです。

 この企画展のテーマは、写真の本質を「盗み見ること」のうちに見出そうという、いささかショッキングで挑発的なものだ。というのも、一般に、カメラの本質は、「盗み見ること」などではなく、堂々と目の前に広がる風景を写しとることだと思われているから。
 だが、目の前の風景をそのまま「写す」ためには、写している主体であるカメラの存在が、その風景からできる限り差し引かれなければならないのだ。すなわち、自然を写すためには、カメラはできるだけその存在を消さねばならないことになる。
 こう考えていくと、写真の本質が「盗み見ること」にあると分かってこよう。
 そういう本質をあからさまに示しているのは、公共の視線からは隠され秘められた「女性の裸体」を写すことだろう(ただそれだけでなく、恐怖や暴力、死といったものに強く惹きつけられた写真もあるが)。
 このように、カメラを構える我々は、世界から遠ざかり存在を消そうとする。しかしながら、他方で、その一挙手一投足は、「監視カメラ」によって記録され、我々は紛れもない世界の一員として、そこに投げ込まれるのだ。
 要すれば、盗み見るという行為のうちには、現場から逃れることと、現場に捉われるということの二重性があるように思われる。逆に考えると、カメラという小さな道具は、監視する権力の片棒を担ぐことであると同時に、その権力の裏をかいて、そこから逃れるための突破口を開くことを可能にするかもしれないのだ。

(2)これは大変興味深い見解だと思います。
 そこからは、様々な連想が湧いてくるところ、以下では、誠に卑近な例示になってしまいますが、当ブログの関心事項である映画の方に話を引き寄せることといたしましょう。

 実は、先般の映画『愛のむきだし』に関する記事においては、専ら満島ひかりに焦点を当てたため全然触れなかったのですが、映画の前半では、主人公ユウ(西島隆弘)の「盗撮」行為がかなり描かれているので