【本】グーテンベルクの銀河系 ― 2010/09/12
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で、本書は、非文字の「部族社会」から中世・ルネッサンス、そして現代(1960年初頭)に至るその「銀河」をつぶさに検証していくわけだが、…部族共同体、精神分析、ホメロス、シェイクスピア…と哲学書を繙くような(ワタシにとっては)難解な、渦巻くような論理と解析が展開され、これは(ワタシには)ちょっと太刀打ちできないかも…。と、思い始めた矢先に、俄然、本書の言葉が頭に入り始めた。
筆者自ら「本書『グーテンベルクの銀河系』は[グーテンベルクに発した文化が含む]さまざまな問題に対するモザイク的な接近方法(アプローチ)を開発するものである」と記しているが、このモザイク的な事例・エピソード・分析がじつに面白いのだ。
「活版印刷の発明は、応用知識の特色である新しい視覚強調を保証し、拡大した。その結果生れたのが、最初の、均質にして反復可能な<商品>であり、最初に組み立てライン、最初の大量生産方式であった」「印刷されたページからわれわれに伝わってくる均質的反復可能性の概念が、人生の他の部面まで拡張されるとき[新しい]生産様式や社会形態が誕生する。西欧世界はそこから多くの満足を手に入れたのであり、またそれらは西欧世界のほとんどすべての性格的特色の源泉となった」として、その影響は近代のテクノロジーと消費社会を産み、さらには個人主義・ナショナリズムまでを形成したという。
「均質化され反復可能な商品が登場するまで、品物の値段は買い手と売り手の交渉によってはじめて決まったものであった。本の均質性は反復可能性は、このように文字使用および産業と切っても切れない関係にある現代の市場や価格システムを作り出した」と指摘し、さらに「われわれがここ数世紀の間、『国民(ネーション)』の名で呼んできたものはグーテンベルクの印刷技術が出現する以前は発生したことはなかった」と喝破する。
が、本書におけるこうしたマクルーハンの卓越した分析や論点を連ねても、本書の面白さは伝わらないかと思う。ワタシが本書に魅力を感じるのは、ワタシたちが生きるこの「現代」にあてはめて、さまざまな「読み換え」ができることだ。
例えば、「人間の身体の直接的な技術的延長としての印刷によって、それが発明されてしばらくというもの、ひとびとはけっして手に入れることができなかったような力と興奮とを手に入れた」「印刷はいわば筆写(スクリプト)という『冷たい(クール)』媒体によって幾千年間も仕えられてきた世界のなかに、たいへん『熱い(ホット)』媒体として登場した」とする、この「印刷」を「インターネット」としてみたらどうだろうか? あるいは、印刷技術登場によってそれ以前の本の製作技術であった「写本」がどうなったかについての記述もじつに興味深い。
クルト・ビューラー『十五世紀--書記、印刷屋、装幀家』の記述を引いて、「では写本家たちはどうなったのだろう」「修道院の大きな写本室でそれまでやとわれていたプロの写本家たちは肩書きを変えて書道家に変身したかに見える」「とはいうものの身についた技術を生かして書道家となった連中は、専らとはいわずとも、必然的に[豪華本の]「特別注文承り屋」とならざるをえなかった」「書道は応用技芸、最悪の場合はたんなるホビーに堕ちてしまった」という。
どうだろう、デジタル技術と電子出版の革新が押し寄せる現代にあって、この「写本家」を「編集者」と言い換えられる日は近いのではあるまいか?
しかし、その一方で「中世の学生は自分が読む著作者たちの校訂者、編集者および発行人である必要がった」「印刷が出現する以前の読者、つまり本の消費者は、文字どおり本の製作者として製作過程にも加担していた」「写本文化は会話的であった。それは、<公演による新作発表>によって同座する作者と読者とが身体的に結びつけられていた」というだから、今でいう「集合知」に近かったに相違ない。
またこんな記述も見られる。「十七世紀の後半になると、印刷物の量が急激に増大しはじめた現象に対して、相当な警戒心と不安、そして嫌悪の念が表明された」。ここでも「印刷物」を、「インターネット」に置き換えることができる。
そして、マクルーハンは本書が刊行された1962年にすでに予見している。 「電子時代は[中略]、機械の時代ではなく、有機的組織化の時代であり、そのため活版印刷技術[中略]によって手に入れられた諸価値にほとんど共感を抱くことのない時代だからである」「地球上のすべての成員を巻き込んで呉越同舟の状態にしてしまう力をもつ電気回路技術が到来した今日以降、そうした旧来の「国民」は生きのびルことはできないであろう」「電気的情報構造から生れる『同時発視野』は、今日社会のあらゆる面で専門主義や個人の創意よりむしろ、対話や参加のための条件や必要を復活させている」「そして対話と参加といったあたらしい相互依存に迫られているわれわれの状況は、多くの人びとのなかに、西欧人がルネッサンス時代から受けついできた遺産から引き離されるための不安と不安感と挫折感を生み出しているのも事実だ」としている。ここでマクルーハンのいう「電子」とは、テレビやラジオ、映画を指しているのだが「インターネット」と読み換えることも十分可能なはずだ。
このようにマクルーハンは、活版文化を礼賛しているわけではなく、むしろ活字(書物)が視覚強調を促進することで聴覚・触覚を抑圧し、「人間は文字文化、とくに印刷文化の導入によって生への全体的な了解から疎外された」として、「電波文化は楽園への復帰の条件を整えた」(訳者の森常治氏による)と主張している。
哲学者・文芸評論家のジョージ・スタイナーはマクルーハンに触れて、この歴史的な流れを『言語と沈黙』(1967年)でこう記している。
「長い口語時代があり、つぎにごく短い記録可能であり、記憶可能な芸術の時代(マクルーハンのグーテンベルグ銀河系の時代)があり、そしておそらくわれわれは再び多種多様な形式をもつ口語芸術の入口に到達した」 この「口語芸術」(視覚・聴覚芸術)を経て、いまワタシたちは「記憶可能」で、「同時発視野」かつ「対話や参加」が可能な電子の時代に入った。したがって、「本書の読者とともに、まずわれわれ西欧人が、活版印刷革命と、電子技術革命の両方がもつ意味をしっかりと把握理解することを願ってやまない」としたマクルーハンの言葉は、この現代にこそ生きてくる。
今ごろ本書を読んだワタシが言うのもおこがましいが、出版・活字文化に携わる者ならば、一度は「読むべき」名著だと思う。
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