【落語+演劇】『ラクエン!』柳家喬太郎+松村武 ― 2010/12/24
終わってみれば、結局は“柳家喬太郎ショー”だった。やはり並みの噺家ではない。そんな感想を抱いた一夜だった。
本作は四部構成になっており、一部でまず喬太郎師匠が古典落語の「抜け雀」を演り、二部の演劇ではその後日談が展開される。休憩を挟んで三部では、別の角度からやはり後日談を新作落語で、さらに四部で演劇、最後に再び喬太郎師匠の新作という進行。
なにしろ3時間にわたる落語と演劇のコラボだ。テーマとなるしょばなの「抜け雀」は時間も関係もあるのか、師匠の高座の“お楽しみ”であるマクラもなく、いきなり本筋に。
この噺は以前、喬太郎師匠の“師匠”である柳家さん喬師匠で聴いたことがあるが、さん喬師匠のどっしりと構えた芸風を踏襲しながら、喬太郎師匠ならではの落差のある人物像、演じ分けで無難にまとめる。
まずは、本日の“お題”の提示といったところ。
それを受けての芝居は、「抜け雀」が描かれた屏風を二千両出して買いたいと申し出た小宮山家での後日譚。“籠の鳥”の生活に厭いた若殿が屏風の中に入り、自由に戯れるものの、お家の大事に屏風より出でてケレン味よろしく活躍するというもの。
再び登場した喬太郎師匠も、やはり後日譚ではあるものの、「抜け雀」で栄えたその後の宿に場面を換えて、「なぜ絵師ばかりが讃えられる?」と憤慨する屏風職人が屏風に変身してしまうというゴシック・ホラーテイストな新作。
人間屏風が空を飛んで行く描写に、会場は大爆笑。
その“しゃべる屏風”を手に入れようと探索する泥棒一家が、屏風の罠に翻弄されるマクベス的な展開から、アクション劇へと転じる芝居を挟んで、最後に〆るは喬太郎師匠。
今回のコラボはどのように創作していったのか?
これはまったくの想像だが、二部の芝居は「抜け雀」を基にした松村氏の創作。屏風師の噺も、芝居と関係なく喬太郎師匠が「抜け雀」の後日譚として創作。
そのキテレツな噺を村松氏が膨らませて芝居として揚げ、それらをすべてを引き受けて、強力(ごうりき)で壮大なイリュージョン落語にまとめ上げたのが喬太郎師匠ではなかなろうか。
それほど、このコラボを〆た最後の噺は、まさに喬太郎ワールド。喬太郎落語の真骨頂だった。
舞台は現代で、小宮山家の屏風伝説を研究する大学教授とその教え子たちを軸に話が進むのだが、なにしろ“二人”の男子学生と二股をかける女子学生と彼らの会話からして喬太郎節が全開し、時流を捉えた(外れた)ネタとリアルな言葉と形態がコロコロと転がる。
やがて、失踪した女子学生を探しに教授と男子学生は、四部の芝居に登場した“屏風墓場”に行き着き、“しゃべる屏風”と対決するのだが…。
もうここまで来ると、噺の強引な展開はどうでもよくなり(笑)、羽織を屏風に見立てるという“芸”を繰り出し、顔を真っ赤にして“屏風”になりきる喬太郎師匠。怒号撒き散らし、のたうち回り、これまでの登場実物を全て登場させて合戦を再現するという熱演。
ここで喬太郎師匠の“爆笑王”たる所以は、客の集中力が切れかかると「お客さん、怒っていませんか~!?」「この噺、もう二度と演やらないから」などと、間一髪のクスグリ(?)を入れて、客を飽きさずにそのバカバカしい世界に最後までつき合わせてしまう手練だ。
これはもう喬太郎師匠ならでは芸当だろう。
一方でワタシは、“人気劇団”という「カムカムミニキーナ」も、松村武氏の関わった芝居も未見なので何とも判然としないのだが、役者が突然唄い出して「ふるさときゃらばん」化したり、これは新国劇か!?とツッコミを入れたくなるような古くさい(失礼)演出に、これはパロディか? と脳内に?マーク浮かぶことしばし。
今までありそうでなかったコラボという意味では、面白い試みだったが、今後は芝居の中で落語が演じられるなどの“入れ子”構造にしたり、落語の中に芝居のシーンを入れ込むなどの、さらなる“ケミストリー”も期待したい。
奇才・喬太郎師匠ならば、それも可能だと思うから。
◆『ラクエン!』の参考レビュー一覧
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