【アート】ヨコハマトリエンナーレ2011(その2)2011/08/25

ヨコハマトリエンナーレ2011
横浜美術館での展示を眺めた(その1)に続いて、「ヨコハマトリエンナーレ2011」のヨコハマ創造都市センターと日本郵船海岸倉庫会場での展示を観賞(8月20日)。

このほかにも展示会場があるらしいが、この点在する会場を廻ることで、明治期の建築物を数多く残す横浜の町並みそのものが、本展のもう一つの会場であったことに改めて気づかされる。

創造都市センターもまたそうした風格と荘厳さを備えた建物で、楽器(音楽)と植物によるコラボ・インスタレーション「グリーン・ハウス」(ピーター・コフィン)を観た後に、こちらも古色蒼然たる日本郵船ビルに隣接する倉庫会場へと進む。

じつはヨコハマトリエンナーレは初参戦なので、これまでとの比較できないのだが、どこの会場も祝祭感に溢れ、観賞者たちもまた高揚感に包まれていたのが実に印象的。別な言い方をすれば、ライブ感溢れるアート展というべきか。

横浜美術館では日本人作家による作品に目を奪われることが多かったが、この巨大な港湾倉庫を利用した会場では、その場のダイナミズムに同期したかのような、まさにモダンでなトリッキーな作品が並んだ。

エントランスで出迎えるのは、どこかユーモラスな巨大な粘土のカバ(イェッペ・ハイン=上・画像)。2F展示で一際目を引くインド人作家リナ・バネルジーによるインスタレーション「お前を捕まえてやるよ、おじょうちゃん!」は、ファンタジックな世界にもどこか東洋・仏教的な極楽浄土感が漂うのはその出自ゆえか。

しかし、ワタシが大いに注目したのはヘンリック・ホンカーソンによる植物インスタレーションだ。2Fの「根のついた木」では、フロアから生える数本の木が置かれているだけで、これはデュシャンの「泉」の植物版パロディかと思いきや…それが3Fではその木の上部が床を突き破り、さらにその横では巨大なプランター群が水平に置かれた作品「倒れた森」が多を圧倒する…。
環境破壊/自然保護という強烈なメッセージ(?)を含んだアイロニカルでトリッキーな、いかにも現代アートを象徴するかのような作品。

デュシャンといえば、人気ゲームソフト『ぼくの夏休み』に出てくるようなやや懐かしい日常品を並べた泉太郎の作品には、そこからそれらの品々を使い、生活していた人の気配が立ち上がってくるような面白さがあった。

ほかにもこの会場では映像作品に目を惹かれるものが多く、死海に浮かぶスイカに囲まれた作家自身の裸身が美しくも、幻想的に流れていく様を写しとった「死視」(シガリット・ランダウ)。そして『スター・ウォーズ』よろしく宇宙の果てから、スケルトン状の果物が次々と浮遊してくるピーター・コフィンの作品(無題)は、3Dで観たくなるような不思議な映像だ。

観賞を終え、1Fのカフェ奥のドアから外で出てみれば、そこには横浜の波止場が…。なんとも贅沢な借景であり、この心憎い演出がまた、冒頭で記した祝祭感と高揚感につながっているかもしれないと感じた今回のトリエンナーレ体験だった。

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【アート】ヨコハマトリエンナーレ2011(その1)2011/08/14

ヨコハマトリエンナーレ2011
8月6日から開催されている「ヨコハマトリエンナーレ2011」に足を運ぶ(8月13日)。といっても、今回は主に三つある会場のうち横浜美術館での展示を眺めただけなので、まずは(その1)といったところ。

人波でゴッタ返す「みなとみらい駅」からほどなく歩いて会場に着くと、そこもまた奇妙な高揚感に包まれていた。その高揚感の原因は、若いカップルや子ども連れなど、おおよそ現代アート展ではあまりお目にかかれない入場者たちによるものであることに気づく。

まずそれをもって、会場入り口に掲げられた主催者・キューレーターらの「意図」を見事に満たしている。「みる、そだてる、つなげる」の三つのテーマを掲げ、「子どもや家族連れまで楽しめるアート展」というのが、本展のコンセプトなのだ。

さて、会場に入るとまず目に飛び込んでくるのが、衣服からほどいた糸をフィルム状に巻いて、それらをとぐろ状に並べた尹秀珍(イン・シウジェン)の「ワンセンテンス」。その回路をたどりながら間近に見ているだけではそれほど面白みのある作品には思えなかったのだが、その後改めて二階から見下してみると、その表情を一気に変えてきた。
これが現代アートの面白さであり、大型展示・作品の面目躍如たるところ。

透明なアクリル板による迷路の終点に電話が置かれ、そこにときたま作者本人から電話がかかってくるという趣向は、ジョン・レノンを一気に惹きつけたかつての「YES」を彷彿させて、いかにもオノ・ヨーコ氏らしいコミュニュケーション・アート。

そんなふうに、一つひとつの作品に言及している余裕も技量もないワタシだが、「天転劇場」を思わせる静寂のパフォーマンス作品「五つの点が人を殺す」(ジェイムス・リー・バイヤース)、色とりどりの幻想的なミニチュア都市「シティ」(マイク・ケリー)、工事現場のような巨大な足場の下で音が鳴り響く「オルガン」(マッシモ・バルトリーニ)といった海外アーティストの作品よりも、どうしても日本の若い作家たちの作品群に惹かれたてしまう。

早世した石田徹也の孤独を抱きしめたような作品には胸が締めつけられるような思いにかられるし、今回は多数の動植物のスケッチ(デッサン?)を出展してきた池田学氏の筆致には改めて舌をまくし、『ナウシカ』(原作本)に登場する一つ目の「神聖皇帝」を模したかのようなメタルチックな陶芸(!)作品を創出した金理有氏も注目の作家だ。

佐藤允氏のリアリズム画も池田氏とはまた違った迫真があり、立石大河亜氏のレトロフューチャーな木馬ロボ世界にもまた惹かれる。

そして、「湯本憲一コレクション」で展示された名もなき作家による妖怪映画ポスターと並んだパチンコ台のなんたるキュートでエレガントなデザイン!

新旧の商品看板やいん石まで展示し、「すべてマルセル・デュシャンへのオマージュ」とした杉本博司作品も含めて、“なんでもあり”の現代アートを堪能できるまさに「マジック・アワー」を満喫。

「ヨコハマトリエンナーレ2011」の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「様々なアプローチで横浜を舞台に繰り広げられるアートの祭典」--弐代目・青い日記帳
「真の強さにつながる複眼的な発想」--朝日新聞(大西若人氏)
「バラエティに富んだ作品群」--日毎に敵と懶惰に戦う

【アート】coppers早川展 ~METAL CELL~2011/07/22

coppers早川展 ~METAL CELL~
「coppers早川展 ~METAL CELL~」を観賞した。(7月20日・新宿高島屋)

このcoppers早川なる親子ユニット(早川篤史・克己氏)が、美術界でどのように位置し、評価されているのか皆目見当がつかないワタシだが、先日たまたま高島屋2Fフロアーに展示されていた作品に目を奪われ、改めて個展に足を運んだ次第。

その作品をひと言で表わせば、銅を作品素材とした不思議な生き物たちの世界…ということなるが、たしかにそのレトロ・フューチャー感溢れた作品群はじつに魅力的に見える。

ますむらひろし氏の宮沢賢治作品 から飛び出してきたような「Dream」「ジェームズ」」のようなメルヘンチックな動物たちから、「イノブタ」のようなユーモラスなロボット・アニマル、さらに「増殖」のようなサイボーグ/マシナリーなものまで多彩な作品が並ぶが、銅という素材がそうさせるのか、そのテイストは不思議と一貫性を保持している。

なかでも魅力を放っているのが、海をテーマとした生き物(乗物? )たちで、機械仕掛けの魚「械魚」、鯨を模した「Ocean」、ノーチラス号を想起させる「Goldfish」など、まばゆい幻視の海洋世界が広がる。

「METAL CELL」と称されたコーナーでは、さまざまなロボットや探査船、工作機などがの小作品が展示され、さながら海洋SFコミック『ナチュン』で描かれた深海ワールドを再現したかのよう。

“ラピュタ”を彷彿させる「ダブルバルーン」や、蒸気で空を飛ぶ船型の飛行船「スチームスチーム」などの作品からは、宮崎駿作品からの影響も感じられるが、プロフィールにも記されているように、最も近しいのは押井守作品だろう。

これらの作品を「独学」で、作り上げてきたというのだがら、いったいこの親子はどんな連中なのだろうか? 興味とともに謎は深まる…。

だが、何よりワタシの心をとらえたのは、像が鎧をまとったかのような戦士「南の森のオサ」(=掲載画像)や、メタル感溢れる「ザイ」のような重量作品群で、それらが10F会場と離れた2Fフロアにしか展示されていないのがなんとももどかしい。

客の呼び込みという意味で仕方ないのかもしれないが、この2つの展示が合わさればさらに強力な磁場が生れたのではないかと思うのに、それがやや残念。

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【本】三瀬夏之介『冬の夏』2011/07/18

冬の夏冬の夏
三瀬夏之介

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ジパング展でもその巨大な作品「だから僕はこの一瞬を永遠のものにしてみせる」がひときわ目を引いていた三瀬夏之介氏の画集。2005年から2010年にわたるさまざまな作品がズラリと並び、改めて巨大かつ壮大な三瀬ワールドを堪能することができる。

そして、改めて本書で確認できるのは、三瀬氏が「日本画」家であること。和紙と墨を縦横に駆使して、時としてダークスターを思わせる暗黒のビックバン世界や、地中から宇宙へと膨張するファンタジーを描き続けてきたことが、本書によって明らかにされる。

よって、ジパング展のレビューでその作家の素性をよく知らないままに、ワタシが「そのおどろおどろしい迫力と和紙に墨という素材も相まってまるで現代の丸木位里を思わせる」と、その印象を記したこともあながち的外れではなかったようだ。

当初はカラーも駆使した西洋画に近い作品も描いていた三瀬氏が、やがて何ものかが憑依したかのように、その脳内世界を巨大墨絵に表出させる変容が、作品と解説によって語られていく。

つまり、確信をもって言うが、本書は三瀬氏による「日本画」論でもあるのだ。自身の作品を具体例としながら、作家側から提示された新しい「日本画」論なのだ。そしてそれは「日本画」の可能性に挑戦し続ける、覚悟の書でもある。

しかしながら、「日本画滅亡論」「日本画復活論」「日本の絵」「奇景」といったダイナミズム溢れる作品群を並べられると、やはり「本物」が観たくなる。そうした意味では、本書はまた読者をアートの現場(展覧会)へと誘う最良のカタログとしての機能も果たしている。

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【アート】日本民藝館名品展2011/06/18

日本民藝館名品展
開館75周年を記念して開催されている日本民藝館「名品展」に足を運ぶ(6月18日)。

日本民藝館といえば、初代館長を務めた柳宗悦による「民藝」運動の拠点として知られているが、じつのところ柳の功績については、よく理解しないでいた。ワタシの知りえる柳のイメージは、朝鮮文化に早くから注目し、白磁・青磁を始めとする朝鮮陶磁器や美術を広く日本に紹介した人、という程度でその全体像を掴むには至っていなかった。

その意味で、柳が収集した約500点にも及ぶ陶磁器、染織品、木漆工品、絵画や著書、自筆原稿、写真資料などが展示された本展を通じて、ようやく柳宗悦が“目指していたもの”がおぼろげながら理解できたような気がした…。

端的に言えば、柳は民藝運動によって暮らしの中に息づく美の世界を発見・紹介することで、芸術家ら一部の特権(?)階級に独占された美を解放したのだ。
いわばポピュラー音楽界における、伝承歌・フォーク/ブルースの発見のような運動だったのかもしれない。つまり柳は、日本アート界のアラン・ローマックスだ(…かえってわかりにくい例えか(笑))。

つまりそれは、「美の視点」の転換を迫ったものであり、またそれは強固な信念(思想)と緩やかな感性を伴うものだったに違いない。それらが基層にあったからこそ、当時の文化人が誰も見向きもしなかった“朝鮮の美”が、虚心坦懐な柳の心をとらえたのだろう。

しかしながら、この「名品展」で開陳されるのは、朝鮮のそれのみならず、室町から昭和に至るさまざまな時代の美術・工芸品、そしてアイヌ、台湾少数民族、アメリカ先住民…と、時間軸も地平軸も拡がりをもった“民藝の美”たちだ。

そこに息づく人びとの暮らしを垣間見ることができる“美”。そして、アイヌの人たちによる刺繍と台湾の少数民族によるそれを並べることによって、“美”の伝播や、通奏する美的感性を提示している。
それは人間にとって“美”とは何か? という問いかけでもある。

名もない名工たちの時と地平を超えた逸品たちの技を堪能するとともに、濱田庄司ら柳らと交流のあった作家たちによるアート感溢れる作品にも圧倒されたが、なにより柳自らが設計したという「民藝館」そのものが素晴らしい。
さらに、柳の居宅となった「西館」の佇まいも、いわく言い難い風格と風情をそなえ、とりわけ(入り口奥の小窓から覗ける)庭から見上げた外観は、まさに柳が愛した暮らしに息づいた美術品そのものだ。

ちなみに展示説明が少なく、最初はなんと不親切な展示だと感じたが次第にそれも気にならなくなった。改めて本館のパンフレットに目をやると、「本館では作品の説明書きを意識的に少なくしていますが、それは知識で物を見るのではなく、直感で見ることが何よりも肝要であるという、創立者柳宗悦の見識に基づいている」と記してあった。

なるほど得心。ワタシもその「直感で」を、オススメする(6月26日まで)。

『日本民藝館名品展』の参考レビュー(*タイトル文責は森口)
「『民藝』とは、インターナショナルな概念」--見もの・読みもの日記
「『名品』を選んで展示するという発想自体に危うさが…」--白い鹿を見たか?

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【アート】ジパング展2011/06/08

風間サチコ「大日本防空戦士・2670」(ジパング展)
日本の現代アートを担うとされる31人の気鋭作家が出展した「ジパング展」に足を運ぶ(6月8日・日本橋高島屋)

まず印象に残るのは、その多様な表現方法だ。
絵画、彫刻、立体、版画、映像など、「かたち」にこだわらない表現はもとより、和紙、木、アクリル、樹脂、顔料、リンサムニウム、鉛筆などさまざまな素材や画材が駆使された作品群に、その自由度と解放感が感じられる。
まさに、表現もその手法も、百花繚乱の様相を呈した作品展となっている。

ビデオ作品も出展している鴻池朋子氏による屏風に描かれた骸骨画「無題」や、会田誠氏が描く少女が巨大な両生類と戯れる「大山椒魚」からは、先日企画された「日本画の洋画」から綿々と続くアンビバレンツな和洋の衝動が感じられ、山口藍氏の“ふとんキャンバス”に描かれた「道すがら」からはアウトサイダー・アートのヘンリー・ダーガーが生み出した“ヴィヴィアン・ガールズ”へのオマージュを妄想する。

上田順平氏の「ウラシマ・ピーターパン」ら3対のオブジェもまた和洋のクロスカップリングを施すことでポップな笑いを生み出し、小谷元彦氏ばりに緻密な造形を生み出した森淳一氏の造形作品は、その素材(木)から静かな“生命感”を放つ。

“緻密”といえばこの人をおいて他にない池田学氏は、石と木々に囲まれて佇む大作「ブッダ」から、ロボット蟹がうごめく「航路」、ラピュタを連想させる「地下の種」などを出展し、その存在感を示す。

池田氏と対面に展示された三瀬夏之ヶ介氏による巨大な「だから僕はこの一瞬を永遠のものにしてみせる」は、そのおどろおどろしい迫力と和紙に墨という素材も相まってまるで現代の丸木位里を思わせる。

個展を見逃してしまった岡本映理氏は、カラフルな色使いの緻密画「奪還」で裏ディズニーのような異世界を、人気の束芋氏は古き下町を再現したかのような家屋のオブジェを覗くとアニメが流れる仕掛けで、妖し懐かしい世界を表出する。

通奏するのは、「和」だ。
だからこそ、本展を企画したミヅマアートギャラリーの三潴(みづま)末雄ディレクターは「ジパング展」と命名したのだろうが、じつのところワタシには本展はキュレーターの“意志”はあまり感じられず、とりあえず氏のお気に入りのアーティストの和テイストの作品を並べてみました…という印象。

作品解説や出展一覧も用意されておらず、若手現代アーティストのショーケース・ライブといった感じだ。「企画展」としては物足りなさを感じるが、あえて解説を排し、“素”のままに作品に触れてください、というのが本展の意図するところなのかもしれない。

そうした意味で、“素”のワタシを捉えたのは、展示の最終コーナーに置かれた二人の女性作家の作品だった。

風間サチコ氏による「大日本防空戦士・2670」(上図)と題された巨大“版画”では、鎧をまとった“スラムキング”を思わせる巨人がゴジラのようにビルの谷間にそそり立ち、兵士たちの攻撃と対峙する。
はたしてこの戦争は過去のものなのか、未来を暗示するものなのか?
異様な迫力で観る者にその問いを迫る。

そして、熊澤未来子氏の「浸食」。
セーラー服の少女からゴミ箱から人形から交通標識まで、ありとあらゆるものがブラックホールに吸い込まれるかのように、球体ガジェットと化してキャンバスに渦巻く。
それもまた、われわれの社会の写し絵として、鋭く提示される。

この二人の若い作家と出会えたことでも、ワタシにとっても収穫であった。

それにしても、最後に展示された指江昌克氏の「MOON」はじつに暗示的だ。
2009年の作品だというが、ガレキの上に、救い出されたかのような昭和レトロな店々が球体となって中空にポッカリと浮かぶ不思議な絵図。背景には暗くよどんだ雲の下に、かすかに明るい空が拡がる…。

この絵をあえて最後に展示したこともまた、企画者の意図なのだろうか…。

「ジパング展」の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「現代アートの名作が目白押し」--弐代目・青い日記帳
「保証書付きの現代美術の展覧会」--noricolumn
「31人もの大デレゲーション持ち味の異なる作品が並ぶ」--Art & Bell by Tora

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【アート】華麗なる日本の輸出工芸--世界を驚かせた精美の技2011/06/05

華麗なる日本の輸出工芸
新作展でもないので紹介するつもりはなかったのだが、足を運んでみれば瞠目の企画展だったのが「華麗なる日本の輸出工芸 --世界を驚かせた精美の技」(6月4日・たばこと塩の博物館)

江戸~昭和初期に海外に輸出されたさまざまな工芸品約200点が展示されているのだが、そもそも外貨獲得のためにかくも大量の工芸品が“国策”として輸出していた事実からして知らずにいた。

しかも、そうした精巧で優美な工芸品の数々は欧米諸国で大変な人気を呼び、ジャポニズムという文化的流行を引き起こすきっかけにもなったという。

その作品を前にすれば、さもありなんとまずは得心する。
なにしろ美しい。いや、単なる“美”ではなく、その精巧さに妖しささえ漂う。
じっと見入ってしまう、吸い込まれていく、見飽きのこない秀麗な“美”が備わっている…。

展示はまず貝を素材とした「長崎青細工」に始まるのだが、それに目を奪われていると、さらにまるで 現在の3Dを先駆けるかのように、鳥獣や人・風景が画面から飛び出す「芝山細工」に驚かされる。

それらの技法が衝立や小物類の装飾に活かされ、独特の小宇宙がそこに宿り、ため息を誘う…。

さらに、「寄木細工」の技法はどうだろう。
この技法によって製作されたライティングテープルはまるでコックピットでないか。
書類立て、引き出し、小物入れなどが縦横矛盾、かつ機能的に組み合わせされ、異様なオーラを放ちながら、ただ一人のご主人(使用者)のために静かに鎮座している。

「飾棚」に至っては、これはもうミニチュア建築だ。架空の“中空の寺院”を、棚という意匠に閉じこめたじつにアバンギャルドな世界が拡がる。

展示に寄せられた解説にあるように、これらの工芸品を制作した職人たちの誇らしげな様子が伝ってくるような逸品が並ぶ。

意外だったのは、焼き付けた印画紙一枚一枚に彩色を施した明治の古写真で、これがアルフィーの坂崎幸之助氏のコレクションだという。たしかに当時の日本の風景がノスタルジックに切り取られる一方で、彩色によってその意図を超えたなポップな“作品”として、我々の前に立ち現れている。

そう考えると、日本の中で独自の進化を続けてきた、これらJ-CRAFTもまた、現在のJ-CULTUREと同じようにキュートでクールなものとして世界に熱烈歓迎されていたのだろう。

J-CULTUREがそうだったように、ワタシたち日本人が知らないところで、J-CRAFTの素晴らしさが“発見”されていたのだ。

そうした意味では、この企画展もまた、近年美術界の一つの潮流となもなっている「近代の見直し」につながる、“新しい視点”を誘うアート展といえる。

「華麗なる日本の輸出工芸」展の参考レビュー(*タイトル文責は森口)
「工芸の本来の姿を伝える貴重な史料」--artscape(新川徳彦氏)

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【本】駆けぬける現代美術 1990-20102011/05/18

駆けぬける現代美術 1990-2010駆けぬける現代美術 1990-2010
田中 三蔵

岩波書店 2010-12-16
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朝日新聞の美術評で健筆する田中三蔵記者による20年にわたるレビュー選集。それだけに、ニッポンの現代美術界の動静が俯瞰できる内容になっており、この世界について少し突っ込んで知りたい・考えてみたいと読み手にとってはありがたいガイドにもなっている。

一読して感じるのは、女性作家の進出と、アジアの活況だ。
女性については、わざわざ「女性作家群の開花と主導」という章まで設け、オノ・ヨーコ草間彌生といった重鎮から、束芋やなぎみわといった気鋭のアーティストまで、その活動の幅と質をとらえる。

「アジア」については、第四章「進展する国際化」の中でまばゆく紹介される。それはポピュラー音楽界で90年代で起こった“ワールド・ミュージック”ブームを思わせる活況ぶりだが、一方で、欧米のミュージシャンが非西欧文化を搾取しているという批判が起こったと同じように、アフリカの現代美術を例にとって「『魔術師』として消費するな」と警告する。

そうしてみると、先日ワタシが足を運んだヘンリー・ダーガーに代表される“アウトサイダー・アート”などは、さしずめ現代美術界におけるパンク・ロック・ムーブメントだったのだろうか?

しかしながら、本書でその代表作家として紹介されているバスキアなどは、パンクというよりはヒップホップ・アーティストだろう。アートを街(それもダウンタウン)に解放し、ストリートを展覧会場にしてしまったその活動スタイルは、ドゥーワップやホコ天バンドを連想させる。

もう一つの潮流として取り上げられているのは、「回顧展」への視座だ。
「回顧」といってもそれはけっしてノスタルジアなものではなく、第一章の「近代の見直し」にもつながる、“新しい視点”を誘うものだ。

ワタシも刺激を受けた「『日本画』の前衛 1938-1949」展「船→建築」展 、さらには「シュールレアリスム展」などもそうした、新しい視点、異なる角度からのアプローチによって、アートの名を借りたある種の思想・論考の提示になっていたかと思う。

そうした意味でも、著者が二科展や日展などの団体展を例に挙げて、「全体として『類型化』『旧態依然』の感がぬぐえない」と切って捨てているのは、ワタシ的にはじつに心地よった。
常に革新しプログレス(進化)するからこそ、モダン=現代・アートなのだから。

『駆けぬける現代美術 1990-2010』の参考レビュー(*タイトル文責は森口)
「濁流に身を投げながら水先案内」--asahi.com(横尾忠則氏)

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【アート】ヘンリー・ダーガー展2011/05/06

ヘンリー・ダーガー展
「アメリカン・イノセンス。純真なる妄想が導く『非現実の王国で』」と題された本展に足を運ぶまで、じつは寡聞にしてこのヘンリー・ダーガーなる作家のことは、まるで知らずにいた。まったくお恥ずかしい限りだが、その鬼気迫る創作欲と奇異なる人生に驚愕し、また大いに考えさせられるという貴重な体験を得た(5月4日・ラフォーレミュージアム原宿)

何しろその謎にみちた生涯の間、誰一人として知られることなく、黙々と創作活動を続け、死後その膨大な作品が死後発見された…。そしてその作品が、暴走する妄想にあふれたアートワークとして、驚愕をもって迎えられた。
じつはそれだけの情報だけで本展に駆けつけたわけたが、その壮大な“物語世界”は、実に摩訶不思議な、なんとも言い難い魅惑をもって、観る者に迫ってくる。

19歳から81歳で死を迎えるまで、ダーガーが執筆・作画したとされる15,000ページにも及ぶ小説『非現実の王国で』は、彼が部屋を去った後、部屋の片付けに入ったアパートの大家によって発見されたという。 そこには子どもを奴隷として虐待する暴虐非道な男たちを相手に、壮絶な戦いを繰り広げる7人の美少女姉妹“ヴィヴィアン・ガールズ”の苦難に満ちた冒険が綴られていた…。

作品展はダーガーの生涯を辿りながら、そのポップ感溢れる挿絵の展示を主に展開される。まるで子どもが描いたようなその“作品”はけっして「上手い」というシロモノではないが、よく見れば人ひとりの役割(所作)がキッチリと描かれたキッチュなヘタウマ感に溢れている。

作画に自信のなかったダーガーが、必要に迫られてトレースやコラージュといった技法を駆使したことで独特のガジェット感が生れた。その独自(特異)性によって、“アメリカン・アウトサイダー・アートの代表的な作家”と称されるに至る。

しかしながら、その絵物語はけっしてメルヘンチックなものばかりでなく、少女たちの股間にはペニスが生え、南北戦争の戦禍を連想させる壮絶な戦いが描かれ、医学書をも研究したとおぼしき陰惨な虐殺体の内蔵までが緻密に描かれる。

まるで、人の人生が、人の“業”がそうであるように、愛と暴力と不条理が混在したカオスが、ダーガーの脳内ワールドから解き放たれる。

それをターガーは、たった一人の読者である自身のために、60年にもわたって書き(描き)続けた…。つまりこのダーガーの膨大な作品群は、表現とは何なのか? アートとは何なのか? ひいては人間とは何のなのか? という根源的な問いをワタシたちに突きつけているのだ。

そうした「問い」に呼応するかのように、会場には、やくしまるえつこ(相対性理論)、菊地成孔(ジャズ・ミュージシャン)、リリー・フランキー(作家)、斎藤環(精神科医)、藤田康城(演出家・ARICA)など、さまざまな立場からこの奇異なる作家への賛辞とオマージュが掲げられている。

そして、ダーガーの作品には戦争や自然災害に立ち向かう人たちの勇気が讃えられている…と、解説されたエピローグには、こうも記されている。
「人生は残酷で壊れやすい。だが美しく、人は力強く生き抜いていく。ヘンリーの人生と創作は その痛ましい証明だ。」…

まさに、大震災後のこの日本で、本格的なダーガー展が開らかれたことに、不思議な縁を感じてならない。

『ヘンリー・ダーガー展』の参考レヴュー一覧(*タイトル文責は森口)
「非現実と現実のパラレルワールドの如き世界観」--弐代目・青い日記帳
「2011年の中で、最高の展示」--atsushisaito.blog
「表現者としてショック。でも愛おしくて面白い」--なんでも研究室
「壮大な空想世界を築きあげた孤独な作家の、創造の神秘」--asahi.com

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【アート】シュールレアリスム展2011/05/04

シュールレアリスム展
当初5月9日までの開催と聞いていたので、新規事業準備で超多忙の日々の中で「シュールレアリスム展」になんとか駆け込む(5月4日・国立新美術館)。

じつはつい先日知ったのだが、英『Art News Paper』によると、日本は6年連続で美術鑑賞人口世界一の国だという。ほぉ、という感じだが、本展に足を運び、改めてその美術熱を目の当たりにした。

チケット売り場こそそう混雑ぶりは見られなかったものの、展覧会入り口は人が群れを成し、会場に足を踏み入れればもう列をなして作品に群がるという様相。へぇー、こんな訳のわからない前衛(失礼)に、なんでこんなに人だかりが出来るの!? という感慨も。

この熱気は、上野で観た若忠展以来か…。

その人気ぶりを分析できるほど、ワタシは美術情報通ではないが、近年のアート・ブームともいうべきモダン・アートに対する熱い視線は、各種の展覧会でも肌身で感じていた。

天気にも恵まれたGW最中、震災復興のために街に出よう!というかけ声にも背中を押されたのか、近年のアート界の活況ぶりを象徴するかのような催しとなっているようだ。

さて、その作品群だがパリ、ポンピドゥセンター所蔵作品から、約170点を一挙に公開したというだけあって、量的にも質的にもたしかにシュールレアリスムの歴史とその世界が俯瞰できる展示になっている。

切り取られた顔が解け出したルネ・マグリッドの「秘密の分身」、白日夢のようなソフティケイトされたジョアン・ミロの「シェスタ」、ポップでキュートなマックス・エルンストの「ユビュ肯定」、不思議な浮遊感を漂わせるルネ・マグリッドの「夏の行進」といった多様な作品たちが、ワタシの脳内を心地よく刺激する。

絵画だけではなく、マルセル・デュシャンの「瓶掛け」、アルベルト・ジャコメッティの「咽を切られた女」、マックス・エルンストの「クイーンとともにゲームをするキング」、ヴィクトル・ブローネルの「狼・テーブル」といった造形作品にも目を奪われる。

ワタシ的には、シュール化した“巨神兵”のようなアンドレ・マッソンの 「迷宮」や、メタル&トーイで不思議な静寂感を紡ぎ出すイヴ・タンギーの「岩の窓のある宮殿」など、あまり馴染みなかった作家・作品に触れられたことも収穫だった。

一方で、ワタシをシュールの世界に導いたサルバドール・ダリの作品が2点と、ちと寂しい。あのシュールレアリスムを体現したかのような圧倒的な存在感、ギミックに溢れた世界観を妄想する御大の、その魅力のごく一端しかここでは堪能できない。

もちろんそれは本展の企画意図とは外れるし、そうした“目玉商品”がなくても、現在に至るまで、世界中のさまざまな分野に影響を与えたこの震撼すべきこの“アート・ムーブメント”を体感できるイベントになっていると思う(5月15日まで会期延長)。

「シュールレアリスム展」の参考レヴュー一覧(*タイトル文責は森口)
「シュルレアリスムの影響とその意義を明らかにしようとするもの」-- 弐代目・青い日記帳
「なぜか癒される『シュルレアリスム展』」--続・カクレマショウ
「反合理主義、シュールに共感」--asahi.com(西田健作氏)
「近代と現代とをつなぐ重要なジョイント」--PEELER(菅原義之氏)

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