【アート】「船→建築」展2011/03/05

「船→建築」展
陸上に建てられた建築と海に浮かぶ船。そこに類似性が見てとれるというじつにユニークな視点によって企画された「船→建築」展に足を運んだ(3月2日・日本郵船歴史博物館)。

その“類似性”は単なる偶然ではなく、明らかに関連性をもつ。それが「建築→船」ではなく、「船→建築」への影響から生れているというのだからさらに驚く。
本展で冒頭に紹介される近代建築の巨匠ル・コルビュジェがその証左で、代表的な著作とされる『建築をめざして』 (1923刊)には、建築の本であるにもかかわらずその表紙には客船のデッキ写真が飾られている。
それだけでなく、本書には「商船」という章も設けられ、「新しい建築の形態」と位置づけているという。これはもう“証拠”を突きつけられたようなものだ。

このようにコルビュジェをはじめ多くの建築家にとって、船は機能性・合理性の象徴として、建築が目指す規範とされたことが、さまざまな展示によって証拠づけられる。

例えば、船の操舵室にみられる「流線型」の美が、次々と陸上の建築にも出現したことが指摘され、これまた船の象徴である「円窓」が、商業ビルをお洒落に着飾る意匠として採用されていく。

あの煙突のフォルムでさえ、ビルの頭ににっきりと生えた造形物でもって、その独特の美観に貢献する。その他にも、天窓、プロムーナードデッキ、手すり、階段、タラップなど船を形づくるさまざまな意匠が、陸上へと持ち込まれたのだ。

それは、コルビュジェらモダニズム建築の興隆が「船の時代」、つまり豪華客船が世界を結ぶ主な交通手段であり、文化使節としての役割をも果たしていた時代と軌を一にする。

なにしろ千人以上の人々が一つの船で、何週間、何カ月も共に生活するのだ。いきおいそこは住宅となり、街となり、人々の交流の場となる。船内が機能的でなければ、合理的でなければ、立ち行くはずがないのだ。
コルビュジェたちはそこに建築的な“美”を観たのだろう。

残念ながらと言うべきか、さすがのワタシもかつての大航海=豪華客船時代は知らない。しかしながら、本展に先立つ博物館の常設展で、そのまばゆいばかりの客船の様子が再現されている。

豪華なロビーや食堂、美術品ともいえる調度品に、本格的な和室までしつらえた船内には、テニスコートやプールから診療所、託児所、美容室まで生活に必要な全てが揃っているといって過言ではない。
そしてコルビュジェたちは、そこに人びとの暮らしの中にある建築の“理想”を観たのだろう。

やや拍子抜けだったのが、80点に及ぶ展示物の多くが写真や模型などの“小物”ばかりで、この巨大なシンクロニシティの迫力を十分に実感できなかったこと。たとえ借景でも、一部でもいいから、実物大の建築物があればこの“発見”がさらなる迫力をもって提示されたかと思うのだが…。

「船→建築」展の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「客船のデザインが、建築に与えた影響を丹念に探り出す」 --Chart Table
「客船は最先端の機械であり、動く集合住宅だった」--artscape(五十嵐太郎氏)
「客船にも通じるコルビュジェの『建築の中を散歩する』」--asahi.com(西田健作氏)
↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

【アート】高嶺格「とおくてよくみえない」2011/03/01

高嶺格「とおくてよくみえない」
横浜美術館で開催されている高嶺格「とおくてよくみえない」展を鑑賞(2月28日)。これで、先にレビューした小谷元彦氏、曽根裕氏を含めた″三羽ガラス″といわれる新次世代アーティストたちの個展に全て足を運んだことになる。

結論から言えば、ここでもまた才気溢れるアーティストの作品群を堪能する幸せにめぐり逢えた。

エスカレーターでつながる二階会場へ向かう瞬間からして、すでにワタシたちはその作品「野生の法則」に、目と耳を奪われる。見上げれば、白い大きな布が風にたなびき、嗚咽のような、はたまた獣がむせぶような咆哮が鳴り響き、ただならぬ妖気がワタシたちを迎えてくれる。

“ご挨拶”がわりのこの巨大インスタレーションの歓迎を受けて、薄暗いライトに照らされた「緑の部屋」へ足を進めると、そこは綿布・綿糸による刺繍やウールを素材にした清楚な作品が並ぶ。ポップな画調もあるが、全体的にはロココ調や印象派に影響を受けた静かな作風で意外な印象。
…などと思っていると部屋の出口に、油粘土による巨大な樹形模様と、絵のないぽっかりと空いた額縁がドカンと掲げられている。

これが、本格的な高嶺ワールドへの幕開けの合図だった。

美術館スタッフの案内で暗闇の部屋へ通されると、そこには草っぱらとぼしき中につくられた秘密基地のような空間が広がり、地面にはベッドやお釜、オモチャ、雑貨などが雑然と放り出され、洗濯物は干されたままになっている。
まるで、ついさっきまで人が居たような気配。

その薄闇を“生き物”のようなライトがゆっくりと照らした出すと、地面にはぼんやりと文字が写し出される…。「共通感覚とは…」「自明性を捨て去ったとき…」など、小難しい言葉が曲線を描きながら並び、そこに光が照らされることで、鑑賞者はテキストを読んでいく…という仕組み。

次の部屋では映像作品が並び、代表作の一つだという「粘土で作った巨大な顔に米国の愛国歌を歌わせるクレイアニメ「God Bless America」も上映されていた。

これが秀逸で、粘土で作った巨大な顔に米国の愛国歌を歌わせるのだが、その“顔”が次々に変貌していく様は、ピーター・ガブリエルの傑作PV『スレッジハンマー』を彷彿させる。

それだけではなく、“顔”を制作するさまざまな人たちや、“顔”が置かれた部屋で生活する(?)カップルの生活まで、コマ送りのように写し出され、顔と人間の動きが微妙にシンクロする。
例えば、喧嘩をしたらしいカップルが離れて座るシーンでは、“顔”の目から涙がこぼれるなど、相当に凝った構成。

このように、「とおくてよくみえない」という、本作品展で予想される観客のつぶやきをのそのままタイトルにしてしまったことからもわかるように、作者の狙いはまさに観客の“想像力”を刺激すること、なのだ。

もう一つのこの作者には、“社会派”としての顔もある。
入り口には、森永砒素ミルク事件で障害を負った「木村さん」の写真が掲げられ、写真と自身の独白ともいえるテキストで構成された「ベイビー・インサドン」は在日韓国人の妻との結婚を機に、在日の人たちとの関係を真摯に問いかける作者の姿が浮かび上がる。

しかもそれらが単なる“告発”ではなく、作品として素晴らしい“問いかけ”として成立している。ここでの作者は、観客であるワタシたちだけでなく、自身へも「想像力を喚起せよ!」と迫っているのだ。

高嶺格「とおくてよくみえない」の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「翻弄するもの/翻弄されるもの」--展覧会へ行こう!(桑原俊介氏)
「“よくみえなさを楽しむ”ことこそが、この美術展のキモ」
--アートテラー・とに~の【ここにしかない美術室】
「この展覧会をすべて覆っているのは『不穏』さ」--日毎に敵と懶惰に戦う
「気づかなかったものに目が開く」--アートを見る眼・味わう眼(藤田令伊氏)
「高嶺作品をまとめて観られる貴重な機会」--あるYoginiの日常
「独特のユーモアと、作家の体温を感じる展示」--SEBASTIAN X 永原真夏と行く~
「文脈のスケールが微小なのだ」--アートイベント中心、その他つれずれ。
「ピントが合いそうで合わない」--中年とオブジェ~魅惑のモノを求めて~
「分かりやすい答えこそ最も疑うべきもの」--asahi.com(西田健作氏)

↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

【アート】吉田夏奈展2011/02/15

吉田夏奈展
東京オペラシティ・アートギャラリーで、曽根裕展「Perfect Moment」と共に同時開催されていた吉田夏奈展も印象に残る個展だったので、簡単に触れておきたい(2月13日)。

この作家の作品については、まったく予備知識なしの出会い頭の遭遇だった。
日本の四季を描いた収蔵品展「ゆきつきはな わが山河 Part III」を観終えてコリドール(廊下)へと進むと、その個展は突然始まる。まさしくそのコリドールが、展示会場となっているのだ。
1975年生れというこの女性作家のドローイング作品が廊下の壁にズラリと並ぶのだが、何といっても目を奪われるのは壁いっぱいに描かれた大作「Beautiful Limit ─ 果てしなき混沌への冒険」だ。

60.5㎝×91㎝のパネルに描かれた絵が組合わせされたその作品は、全長40メートルにも及ぶという。しかも会場に置かれたリーフレットには「サイズ可変」(!)と書かれており、そのパネルを自由に組み換えて、違った風景を写し出すことができることを示唆している…。

そして、そのクレヨン・パステルによるパネル画の集積によって出現したのは、巨大な連山の景色だ。さまざまな山頂の風景が連なり、それが延々とコリドールに続く…。
低草に覆われた緑はう山や、雪残る白き山も見えるが、基調となっているのはゴツゴツとした岩肌を露にした山だ。いや、“岩”だ。

この人は“岩フェチ”ではないかと思えるほど、一つひとつの岩が緻密に描かれる。対面に展示された本作の試作となるドローイングにも、その執着ぶりが端的に顕れている。

その幾何学模様にも見える岩の結晶が、山を覆う。岩が鎧のように山に張りつく。張りついた岩と岩が身を寄せ合って、生き物のようにうごめく。岩が、山が、今にも動き出しそうに、キャンバス(壁)を支配する。

だが、「圧倒される」という形容はここではふさわしくない。
生命の気配を感じさせる岩山たちは、絵の中に閉じ込められたかのようにじっと身を潜めているかのように見える…。
ロジャー・ディーン池田学氏のような「幻想的」ともまた違う、清楚で透明感のある迫力。そんな言い表せない魅力をもったを作品だ。

しかもこの作家は、本会場での展示の後も100mを目指して作品を描き続けていくという。まさにこの個展は、現在進行形で“進化する”作品の、その制作過程を作品化してしまったかのような、試みでもあるのだ。

↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

【アート】曽根裕展「Perfect Moment」2011/02/14

曽根裕展「Perfect Moment」
会場に一歩足を踏み入れると、そこには緑まばゆい巨大な「バナナ・ツリー」がワタシたちを迎えてくれる。その藤細工による祝祭感あふれる作品に囲まれて、やがて白石のオブジェが光をもって立ち現れる。
その作品、大理石によってしつらわれた「木の間の光♯2」は、本来は無機質な“石”がまるで生命を携えたように、放射状の光が腕を広げながらワタシたちに問いかけてくる…。

東京オペラシティ・アートギャラリーで開催されている曽根裕展「Perfect Moment」は、近年、精力的に取り組んでいるという大理石による緻密な彫刻作品を中心に、映像作品なども紹介する“作家魂”が炸裂する個展であった(2月12日に鑑賞)。

会場に木々を植え、ジャングルに模したのも、もちろん作家自身の指示だという。会場そのものが、この作家の“作品”なのだろう。その土と緑の回廊をくぐり抜けていくと、忽然と白き光を放つ作品がワタシたちの目に飛び込んでくる。

「6階建てジャングル」「大観覧車」といった作品の異様な迫力はもちろんだが、やはりその存在感で他を圧倒するのが、ニューヨークのマンハッタンの街並みをそのまま大理石に刻み込んだ「リトル・マンハッタン」だ。

その緻密な刻みは、作家の執念さえ感じさせる精巧なもの。
ミ ニチュア細工を思わせるビル・建物群に目を奪われがちだが、ワタシは、その街を支えるかのように美しいフォルムで台座となるその姿に、見ほれてしまった。

まるで、底の見えない海溝にポッカリ浮かぶ島(陸)のように、その裾野は深遠なる思慮をたたえながら静かに下降していく。優雅な力強さをもって、人びとの暮らしを支えているのだ。
その周囲を囲む「バナナ・ツリー」たちも、入り口のものよりもさらに生命感をたぎらせ、この秀作を讃えるかのように、そそり立つ。

ジャングルを抜け、カーテンの中に隠れるかのようにひっそりと輝くクリスタル製の「木のあいだの光♯3」もまた、その透明な“切り株”に生命が息吹くかのように清楚な光を放つ。

映像展示では、2つの作品が同時に公開されている。
だだっ広い展示室の、対面となる巨大な壁に「バースデイ・パーティ」と「ナイト・バス」が映写され、観客は壁際のベンチに座り、思い思いに作品を眺める。

一本ずつ作品を観ることもできるし、視線を二つの壁に行き来させザッピング鑑賞することもできる。ワタシも最初のうちこそそうしていたが、やがてそれをやめた。
二つの映像を同時に“感じる”ことで、ワタシの中でシンクロ(共振)が始まる…。

作家自身が出会ったさまざまな人たちと一緒に誕生日を祝うシーンが延々と続く「バースデイ・パーティ」、タイトル通り夜のバスに乗り込み、これまた延々と流ゆく街路を写し出した「ナイト・バス」。
命あることを祝しながら、人は人生という旅を続ける…。

そう“感じた”ときに、これは二つの作品が揃ってこそ成り立つ、生命讃歌であることに思い至る。
そう、作品に通奏するのは、生命(いのち)に対するかぎりない肯定と、つきない探究心…。ワタシは、そこにこの作家の魅力を感じるのだ。

曽根裕展「Perfect Moment」の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「ジャングルの中の“遺跡”」--MSN産経ニュース(渋沢和彦氏)
「すべての作品がダイナミックかつ繊細」--イズムコンシェルジュ(上條桂子氏)
「とにかく『強い』、作品の持つ『力』」--石原延啓 ブログ
「構築への歓びやのびのびとしたユーモアが感じられない」
--アートイベント中心、その他つれずれ。
「きわめて批評的作家」--JT-ART-OFFICE
「ハイテンションぶりに圧倒されたトーク」--あるYoginiの日常

↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

【アート】「日本画」の前衛 1938-19492011/01/26

「『日本画』の前衛 1938-1949」
まさに表題どおり。「日本画」の「前衛」に光を当てるという、意表をついたユニークな企画展「『日本画』の前衛 1938-1949」に足を運ぶ(1月25日・東京国立近代美術館)。

その「前衛」が花開いたのが、戦争を挟んでの「1938-1949」というのがまた興味深く、展示冒頭の説明文にもそれが触れられている。

いわく、本企画展の中心ともいえる山岡良文や山崎隆らが参加していた「歴程美術協会」結成(1938年)において、「何よりも見逃せない事実は、『歴程』結成の4月に国家総動員法や灯火管制規則が公布され、美術界でも同年6月に大日本陸軍従軍画家協会が結成されるなど、日本全体が緊迫した雰囲気に包まれ、まさに開戦前夜の非常時であったことだ」とその時代背景を説明したうえで、「そのこうした時代に、果敢にも新たな『日本画』表現を求め、志を同じくする若い画家たちが集まったことこそ見逃してはならない」と指摘する。

まさにワタシもこの点に瞠目するのであるが、同時に、今までこの「前衛」の全貌が検証されずにきたのは、まさにこの戦時化の混乱による作品や記録の散逸や、観る者を試すかのように迫る「戦争画」の数々が、その要因であったのではないかと想像してしまう。

いずれにせよ画期的な企画展であることは間違いなく、解説文ひとつをとっても企画者(京都国立近代美術館・山野英嗣学芸課長)の並々ならぬ熱意を感じる。

展示は「日本画の前衛の第1号」とされる山岡良文の「シュパンヌンク」(38年)で始まり、絵画を中心に86点が展示される。その一つひとつを解説する知識も表現も持ちあわせていないワタシだが、なにより「日本画」を実感させられるのは、巨大な屏風に描かれた作品群だ。

屏風8枚にわたって描かれた絵巻物のような前衛絵画では、まさに「和」と「洋」が拮抗・溶解したシュールな世界が展開される。
例えば、「神話」(1940年)と題された山崎隆の作品は「オリンポスの神殿」に首のない彫刻、天空に浮かぶ惑星…とまるでダリのような世界だが、どこかダークで「死」をイメージさせる。戦争に向かう漆黒の時代が、この作家をそうさせたのか…。

ところが、同氏が戦後に描いた作品はどこか明るい。
1946年に描かれた「ダイアナの森」では、“鹿”の走る夜の森は生命の躍動を感じさせ、木の切り株は真紅に燃える。水面を照らす月の灯が、ほんのりと“希望”を感じさせる。
さらに、1949年の「森」に至っては大胆な赤が施された木々が生命力に溢れ、まるで『アリスインワンダーランド』を思わせるかのような絵本のような世界。朝日によって明るく照らしだされた森は、生命感に溢れている。

ほかにも、屏風いっばいに点描された花々が抽象画を思わせる船田正樹「花の夕」をはじめ、柔かい線を活かした洒脱な田口荘やモダンな長谷川三郎の諸作。さらに、キュービズムに影響されたまるで「洋画」のような作品や、肉感溢れる「戦争画」など、さまざまな表現の冒険に目を見張るが、最後に『原爆の図』で知られる丸木位里氏にも触れておこう。

丸木氏といえば、水墨画を基調に幾重にも色を塗り込んだダークな作風が知られているが、ここでもそうした技法にあやどられた作品がいつも並ぶ。
ワタシ自身は『原爆の図』で感じた、そうしたおどろおどろしさが今ひとつ苦手だったが、今回展示された「雨乞」では、霊幻な闇の向こう側にほのかな息づかいが感じられ、深遠な作品として深く胸に迫ってきた。

近年美術界では、こうした大きな意図をもって、時代や作家、活動にせまる企画展が盛んなようなだが、アートに新たな光を与える試みとして今後も期待したい。

「『日本画』の前衛」の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「光をあてられることの少なかった、果敢な活動を検証」--asahi.com(西田健作氏)
「『日本画』前衛画家たちの活動を見直す意欲的な試み」--毎日jp(高階秀爾氏)
「《戦地の印象》シリーズの大画面の迫力に驚く」--闘いの後の風景
「『美術作品』として独立した強さに溢れる作品が並ぶ」--尾生之信

↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

【アート】小谷元彦展『幽体の知覚』2011/01/24

小谷元彦展 幽体の知覚
六本木ヒルズは物見遊山で訪れたことはあるものの、じつは今まで森美術館に足を踏み入れたことがなく、機会があれば覗いてみたいと思っていた。
この度、「幽体の知覚」と題された現代美術家・小谷元彦氏の個展でそれが実現した(1月24日・森美術館)。

1972年生まれ、東京芸術大彫刻科出身で、ヴェネツィア・ビエンナーレをはじめ多くの国際展で活躍していたというこの若い作家については寡聞にして知らなかったが、そのダイナミズムに溢れた作風と、まさに世界を掴まんばかりの才能に圧倒された…。

展示は、レベッカ・ホルンを彷彿させるかのような、身体の“痛み”を感じさせる作品群から始まる。
“天使”のような少女の掌がザクロのように裂けて、血肉がにじむ「ファントム・リム」“大リーグ養成ギプス”を思わせるような「フィンガーシュバンナー」、そしてオオカミの毛皮と頭部をまとい剥製人間と化した「ヒューマン・レッスン」は観る角度によって、怒りや哀しみといった多面な感情が表出される…。

最初の“圧巻”は、巨大なしゃれこうべがくし刺しにされたままグルグルと回転し続ける作品。ワタシたちの、表裏し連続する生と死を暗示させるかのようで、これも相当“痛い”といえる。

池田学氏の緻密画のような、溶解し骨化する生命体が垂れ下がるような作品もあれば、海を漂流するための巨大な木製スカートといった、やはり身体に帰着するユニークな作品が続くのだが、この個展が後世の“語り種”になるとすれば、それは体感する巨大アート「インフェルノ」の豪気と斬新性に他ならない。

滝の映像が流れ続ける、直径6メートルの8角柱の小部屋に入ると、そこは凄まじい映像と轟音の洪水にさらされる。天上と床は鏡ばりで、天空から降り注ぐ滝が足元の奈落の底へ吸い込まれる。その場に立つ自分が、滝とともに下降していくのか上昇しているか、無限空間に放り出されたかのような不安と解放感…。

まさに体感するアート。この特異な浮遊感を体験するだけでも、この個展に足を運ぶ価値がある。
朝日新聞編集委員の大西若人氏は「今どきの3D映画なんて、目じゃない」と評していたが、たしかに国立科学博物館の360度シアターをも凌駕する体感だった。

その後に続く、地獄から甦ったように皮をはがされ、ミイラのようになって武者と馬が疾走する作品などに気押されたまま、「ホロウ」と題された作品群が置かれた一室に足を踏み入れると、そこは個展のテーマたる巨大な「幽体」たちがたむろしていた…。

ユニコーンにまたがったジャンヌ・ダルク如き少女の真白き身体から、無数の霊気(?)がたなびく様(上記画像)は、王蟲(オーム)にかしずかれたナウシカか、はたまた『もののけ姫』のタタリ神か…。
まるで世界をむんずと掴みとるかのような、この作家の意志と迫力に満ちた作品群に酔うことができる。

さらに、太古の生物や深海魚、H.R.ギーガーによるエイリアンのイメージまでが混濁する作品群「ニューボーン」など、刺激的な作品が連らなる。
その量といい質といい、この作家の力量と才を十分に堪能できる個展。

小谷元彦展「幽体の知覚」の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「重力・時間の制約超える快感」--asahi.com(大西若人氏)
「特異な造形美が際立つ軌跡」--毎日jp(三田晴夫氏)
「科学で解明されない世界」--MSN産経ニュース(渋沢和彦氏)
「作品個々のディテールの美しさは圧倒的」--artscapeレビュー(木村覚氏)
「背筋がゾゾッとする彫刻。」--エキサイトイズム(上條桂子氏)
「手法は違っても、一貫したテーマ性」--あるYoginiの日常
「未来へ向けての足がかりとなる展覧会」--弐代目・青い日記帳
「洗練の極みに達した確かな技術を感じさせる作品」--ディックの本棚
「様々な手法によって、目に見えないものを可視化」--Art inn 展覧会レポート!

↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

【アート】池田学展『焦点』2010/12/19

池田学展『焦点』
以前『ビッグ・イシュー』に紹介された、その異様な迫力に魅せられ、いつか実際にその絵を見てみたい思っていた池田学氏の個展が開かれている。その池田学展『焦点』に足を運ぶ(12月18日・ミヅマアートギャラリー)。

中空に巨大な難破船が横たわる港を描いた「蒸発」に始まり、列車を飲み込み箱状となってとぐろを巻く巨大な蛇「とぐろ」、天国の階段を思わせる海の層「海の階段」、液状化した古代生物のような巨大なカタツムリ「梅雨虫」、荒海にぽっかりと空いた四角い穴から見渡す夜の大都会「Gate」(上記掲載画像)、など、20作品が並ぶ。

池田氏の絵の特徴は、とにかくその緻密さにある。紙にペンとインクだけで描いているとは信じられないくらいの情報がぎっりしりと詰まる。
例えば、「命の飛沫」では排水口からタツノオトシゴやらガイコツやら不思議な形状の無数の生き物たちが、吐き出されていく様を描いているのだが、これがまたメチャ細かい。
また、「降り積む」では、これまた小さな無数のしゃれこうべが雪の結晶となって降り積む様を描いている。

これらの気の遠くなるような作業を経て、池田氏が脳内で爆発した奇天烈で幻想的な空間・場面が、ワタシたちの目の前に立ち現れるのだ。

その壮大な世界観は、宮崎アニメや大友克洋、あるいはロジャー・ディーンからの影響もほの見える。
浮遊する巨木の支柱根下に水がたたえられ、人・魚が住み、恐竜の化石らしきものを見られる「地下の種」は、“ラピュタ”を思わせるし、“腐海”の地下を思わせる氷柱の森を飛行機がゆく「氷窟」や、地球となった王蟲(オーム)のような巨大な虫と、それを守るかのように警護する虫たちを描いた「渦虫」に、“風の谷”を想起するのはワタシだけではないだろう。

ただ今回の個展では、これまでの「興亡史」(2006年)や「予兆」(2008年)などの代表作が巨大なキャンパスに描かれていたのに対し、すべて22×27cmという小さな作品だったので、少々拍子抜け。
そうした意味では、今回の個展に併せて刊行された『池田学画集1』 を併読することで、その緻密さと迫力が堪能できることと思う。

◆池田学展『焦点』の参照レビュー一覧
Tokyo Art Beat
称猫庵
What's up, Luke ?

↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ
池田学画集1池田学画集1
池田学

羽鳥書店 2010-12-13
売り上げランキング : 10048

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


【写真】鈴木清写真展「百の階梯、千の来歴」2010/11/12

鈴木清写真展「百の階梯、千の来歴」
千代田アーツ3331でのトークイベントで、写真評論家の飯沢耕太郎氏が告知していた鈴木清写真展「百の階梯、千の来歴」が開催中だ。なぜか今まで足を運んだことのなかった国立近代美術館まで、それを観に行く(11月11日)。

写真の世界はほんとうに疎く、「鈴木清」の名も前述の飯沢氏によって初めて知った次第。したがって、その撮影技術だのアングルだの云々について、ワタシはコメントする立場にない。しかしながら、そのザラザラと温かい不思議な魅力を持つ作品たちは、やはりワタシを語らせてしまう…のだ。

美術館のガイドによれば、「写真集独特の可能性を、ひときわユニークな手法で探究しつづけた写真家」が鈴木だという。たしか、前述のトークイベントでも、赤々舎代表の姫野希美氏が「写真展で写真を見るよりも、写真集が好き」と発言していたが、ワタシも同感で「綴じられたページをめくることで現われるイメージどうしが、連鎖し、響きあい、そこにひとつの小世界が立ちあがる」写真集に愛着がある。

その「書物」としての写真集にこだわった鈴木の8点の作品をすべて揃え、手にとって視ることが出来るのも、この写真展の大きな“成果”だろう。それは、8点中、7点が自主出版によるもので、多くの人がその「書物」を目にすることが出来なかったからだ(という)。
その貴重な「書物」を手袋をはめて閲覧するというのもまた、写真展らしからぬ厳粛な体験だ。

そうしたなかでも、手作りされたダミーの「書物」には、文字の指定やらテキストの修正やら校正“”がびっしりと入り、すでにそれだけで鈴木の“執念”と“愛”を感じさせる鬼気迫る「作品」となっている。

しかし今回、その歴史的発掘ともいうべき写真集たちの魅力よりも、ワタシは「書物」から解き放たれた鈴木の作品たちに、より惹かれた。

やはり印象に残るのは、復刻もされた第一作の『流れの歌』に掲載された写真たちだ。
汗だらけ炭まみれの炭鉱夫、快活に笑う女工、おどけた旅芸人やプロレスラー、そして洗面器の水に浮かべられたつけマツゲ…。 炭鉱で働き、暮らす人びとと、その暮らしの中に息づく“道具”たちまでの日常風景が、匂い立つように、その湿度さえ捉えたかのように写し出される。

アジア諸国を放浪した他の写真集もそうだが、ピントは外れ、ときには露出過多、あるいは薄暗い写真は、まるでスナップのようでもあるが、断じてそれはスナップ写真などでは断じてない。
鈴木のカメラは“凝視”し、被写体を見つめ、見つめられる。そこに写されたモノ、すべての“いのち”を吸い出すような魂を込めて…。

そこから立ち上がるのは、“俗”なる“聖”ともいうべき、愛しき人びとの生の営み…。そこに、ワタシも含めて多くの人が惹きつけられるのだろう。

◆鈴木清写真展「百の階梯、千の来歴」のおすすめレビュー一覧
Art inn(鈴木正人)
フクヘン(鈴木芳雄のブログ)
With Zakka diary +
atsushisaito.blog

↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

【本】ちょうちょう できやよい2010/10/29

ちょうちょうちょうちょう
でき やよい

リトルモア 2000-09
売り上げランキング : 465928

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
以前から気になっていた異能のアーティストできやよいの唯一の作品集だが、刊行からすでに10年…。一時活動を休止していたようだが、今年9月に久しぶりに個展を開き、活動を再開したようだ。

彼女の描くアートの特徴は、なんといってもその眩いばかりの色彩と独特の細密画だ。その作画法は、下絵としてまず自分の指の腹に色を付けてぺたぺたとプリントしていき、その上に人の顔やらえたいのしれない動物やらを描いていくのだという。
そうして作られた絵やアートは、彼女の脳内ワールドが爆発したようなまがまがしい世界が広がる。指紋によるシンプルな顔が増殖し、のたうち、炸裂するだ…。 とりわけ強烈なのが、そうした作品世界にでき自身が飛び込んで撮影された写真アート。
いやぁ、これじゃまるでボアダムスサン・ラーだ。わからない人は何のことやらだろうが…。(笑)

残念なのは、判型が変形A5版とやや小さいこと。この世界観はやっぱ、大判で楽しみたいでしょ!
…とするとは、電子書籍によるリニューアルを期待してしまうが、i-padやKindleではなく、ぜひとも50インチ以上の大画面で、この“できワールド”を堪能したい。間もなくお茶の間を席巻するだろうTVパソコンで、 同じ絵や写真を別な角度やズームして視ることができれば、また違った作品の魅力が引き出せるのではないか? その時、この作品集に再び光が当たるに違いない。


↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

【イベント】もみじ市 20102010/10/24

陶芸、ガラス細工、布工芸、写真、イラストといったアート系から、農業、料理、カフェなどのフード系、さらに音楽や大道芸まで、いわゆる“ものづくりびと”が集う野外マーケット「もみじ市」。京王多摩川駅近くの河川敷で行われたこのイベントの2日目(10月24日)に参加した。
2006年から開催されているというこの催しだが、駅に着いてまず驚いたのは、会場に向かって走り出す人がいたこと(笑)。河川敷に出てさらに驚いた。開場を待つ人が長蛇の列。こんな人気イベントとは知らなんだ。昨年は2万人が参加したというが、今年はさらにそれを上回る動員だろう。子連れやカップル、はたまた友人同士と、思い思いの格好で続々と参加者が詰めかける。午後になるともう会場は人の波でギッシリ。
会場には100を超えるブースが並んだが、そういうわけでどのブースも人だかりができ、こちらもあちこちに長蛇の列…。そうはいっても、河川敷というロケーションなので、参加者はそれぞれ芝生に寝そべったり、各店自慢の料理に舌鼓を打つなど、野外イベントならでは楽しみ方を心得ている。子ども向けのワークショップや玩具なども揃い、家族で楽しめる趣向になっている。また、そうした企画から準備、当日も交通整理や迷子の対応にあたるなどのスタッフの尽力も見逃せない。
午後からは野外ステージでライブも楽しんだ。
この日は、湯川潮音高野寛tico moonという面々(23日は栗コーダーカルテット、キセル等)。ステージの後方には、多摩川が流れ、さらにその後方には多摩丘陵が広がる。多摩川の鉄橋をときどき電車が往来するのはご愛敬としても、このオーガニックな雰囲気にはベストの人選だろう。湯川の澄んだ声とうまく溶け合うtico moonのケルティック・ハープの音色、そして今回3回目の出演という高野の場馴れした歌声とギターが、風に舞う。
さしずめ都市型アート系野外イベントのフジ・ロックの進化型ともういうべきか。フジ・ロックが先鞭をつけたこうした野外イベントの“楽しみ方”が、若者たちを中心にすっかりと浸透したことを目の当たりにした、楽しく充実したイベントだった。