【アート】高嶺格「とおくてよくみえない」2011/03/01

高嶺格「とおくてよくみえない」
横浜美術館で開催されている高嶺格「とおくてよくみえない」展を鑑賞(2月28日)。これで、先にレビューした小谷元彦氏、曽根裕氏を含めた″三羽ガラス″といわれる新次世代アーティストたちの個展に全て足を運んだことになる。

結論から言えば、ここでもまた才気溢れるアーティストの作品群を堪能する幸せにめぐり逢えた。

エスカレーターでつながる二階会場へ向かう瞬間からして、すでにワタシたちはその作品「野生の法則」に、目と耳を奪われる。見上げれば、白い大きな布が風にたなびき、嗚咽のような、はたまた獣がむせぶような咆哮が鳴り響き、ただならぬ妖気がワタシたちを迎えてくれる。

“ご挨拶”がわりのこの巨大インスタレーションの歓迎を受けて、薄暗いライトに照らされた「緑の部屋」へ足を進めると、そこは綿布・綿糸による刺繍やウールを素材にした清楚な作品が並ぶ。ポップな画調もあるが、全体的にはロココ調や印象派に影響を受けた静かな作風で意外な印象。
…などと思っていると部屋の出口に、油粘土による巨大な樹形模様と、絵のないぽっかりと空いた額縁がドカンと掲げられている。

これが、本格的な高嶺ワールドへの幕開けの合図だった。

美術館スタッフの案内で暗闇の部屋へ通されると、そこには草っぱらとぼしき中につくられた秘密基地のような空間が広がり、地面にはベッドやお釜、オモチャ、雑貨などが雑然と放り出され、洗濯物は干されたままになっている。
まるで、ついさっきまで人が居たような気配。

その薄闇を“生き物”のようなライトがゆっくりと照らした出すと、地面にはぼんやりと文字が写し出される…。「共通感覚とは…」「自明性を捨て去ったとき…」など、小難しい言葉が曲線を描きながら並び、そこに光が照らされることで、鑑賞者はテキストを読んでいく…という仕組み。

次の部屋では映像作品が並び、代表作の一つだという「粘土で作った巨大な顔に米国の愛国歌を歌わせるクレイアニメ「God Bless America」も上映されていた。

これが秀逸で、粘土で作った巨大な顔に米国の愛国歌を歌わせるのだが、その“顔”が次々に変貌していく様は、ピーター・ガブリエルの傑作PV『スレッジハンマー』を彷彿させる。

それだけではなく、“顔”を制作するさまざまな人たちや、“顔”が置かれた部屋で生活する(?)カップルの生活まで、コマ送りのように写し出され、顔と人間の動きが微妙にシンクロする。
例えば、喧嘩をしたらしいカップルが離れて座るシーンでは、“顔”の目から涙がこぼれるなど、相当に凝った構成。

このように、「とおくてよくみえない」という、本作品展で予想される観客のつぶやきをのそのままタイトルにしてしまったことからもわかるように、作者の狙いはまさに観客の“想像力”を刺激すること、なのだ。

もう一つのこの作者には、“社会派”としての顔もある。
入り口には、森永砒素ミルク事件で障害を負った「木村さん」の写真が掲げられ、写真と自身の独白ともいえるテキストで構成された「ベイビー・インサドン」は在日韓国人の妻との結婚を機に、在日の人たちとの関係を真摯に問いかける作者の姿が浮かび上がる。

しかもそれらが単なる“告発”ではなく、作品として素晴らしい“問いかけ”として成立している。ここでの作者は、観客であるワタシたちだけでなく、自身へも「想像力を喚起せよ!」と迫っているのだ。

高嶺格「とおくてよくみえない」の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「翻弄するもの/翻弄されるもの」--展覧会へ行こう!(桑原俊介氏)
「“よくみえなさを楽しむ”ことこそが、この美術展のキモ」
--アートテラー・とに~の【ここにしかない美術室】
「この展覧会をすべて覆っているのは『不穏』さ」--日毎に敵と懶惰に戦う
「気づかなかったものに目が開く」--アートを見る眼・味わう眼(藤田令伊氏)
「高嶺作品をまとめて観られる貴重な機会」--あるYoginiの日常
「独特のユーモアと、作家の体温を感じる展示」--SEBASTIAN X 永原真夏と行く~
「文脈のスケールが微小なのだ」--アートイベント中心、その他つれずれ。
「ピントが合いそうで合わない」--中年とオブジェ~魅惑のモノを求めて~
「分かりやすい答えこそ最も疑うべきもの」--asahi.com(西田健作氏)

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【落語】春風亭昇太・春の噺2011/03/03

春風亭昇太・春の噺
久しぶりの落語会で、春風亭昇太師匠の独演会「春の噺」を聴きに行く(3月3日・世田谷パブリックシアター)

放送作家にして落語に造詣の深い高田文夫氏が、かつて新聞でのコメントだったかインタビューかで、「もしかしたら“昭和の爆笑王”と言われた全盛時の林屋三平よりも、今の昇太のほうが面白いかもしれない」のようなことを言っていたが、その一文を目にしたときにひどく合点がいったものだった。

それほど、ワタシにとって昇太師匠との“出会い”は衝撃的だった。
年寄りが昔を懐かしむかのように、十年変わらぬ噺を、これまた変わらぬ口調で語る芸…という認識しかなかった「落語」を、こんなに現代的で面白いエンターテイメントだったのか!と目を開かせてくれたのが、昇太師匠だった。

緩急つけたスピーディーな展開と、身体をダイナミックに使ったストーリーテーリング、なにより観客の気持ちを自在に操るパフォーマーぶりに、その後に知る若手落語家によるムーブメントととも呼べるハイブッリド落語を牽引する一人として認識した。

その昇太師匠の高座に接するのも実に久しぶりで、この日はゲストの立川談春師匠を挟んでの二席。

演題が「春」なので、それにちなんだ(?)ものとしてまずは旬な“八百長相撲”をネタにした「花筏(はないかだ)」。病気の大関の“替え玉”となって提灯屋が、ひょんなことから土俵に上がることになって…という滑稽噺を楽しく演じる。とくに、気弱な提灯屋の豹変する喜怒哀楽を、うまく演じわけて笑いをとる。
もう一席の「花見の討ち入り」も本人が解説するように「出てくる人たちがみな馬鹿な連中」というバカバカしいお噺。こういう世界は昇太師匠お手のもので、スピード感溢れる軽妙な語り。

しかしながら、結局この日の“主役”はゲストの談春師匠だったかもしれない。
桃月庵白酒師匠の十八番でもある「替わり目」を、“名人”の風格を漂わせながら、人情と笑い、風刺を効かせ一瞬にして談春ワールドへと誘う。アッサリとした語りだが、十分に磁場をつくった。
昇太師匠の現代的で軽妙な笑いと対比をなすように、古典に深みを与えながら今日的な“語り”で観客を惹きつけた談春師匠の話芸が光った。

そのせいか、どうも昇太師匠のハチャメチャぶりがややおとなしく見えてしまったのは気のせいか。たしかにご本人の言うように「バラエティに富んだ現在の落語界にあって、かってのような牽引者とのして“力み”がそれほど必要ないのかもしれないが、はちきれんばかりのエネルギーが持ち味の昇太ワールドをもっと堪能したかった。

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【本】民謡酒場という青春 高度経済成長を支えた唄たち2011/03/04

民謡酒場という青春-高度経済成長を支えた唄たち-高度経済成長を支えた唄たち民謡酒場という青春-高度経済成長を支えた唄たち-高度経済成長を支えた唄たち
山村 基毅

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なるほど、“沖縄民謡酒場”であれば知ってもいるし、そうした店に行ったこともあるが、東京・吉原にあまたの「民謡酒場」があったことは、本書を読むまでまったく知らなかった。本書は、そうした高度成長期に興隆を誇った「民謡酒場」の盛衰を丹念に聞き書きした労作ルポルータージュである。

津軽三味線奏者から耳にした「昭和三十年代、東京の吉原(現在の知名は台東区千束)を中心として、雨後のタケノコのごとく民謡酒場が生れていった」という話に興味を持った筆者が、少しずつその実像に迫っていく。

なにしろ、現存する「民謡酒場」はごくわずか。それもかつての栄華はとどめるべくもない。吉原の街並みもすっかり変わり、かつて栄えた店の所在場所を確認するにしても、当時の人たちの記憶をたどりながら、パズルのピースを一つずつはめるように古地図を甦らせる作業である。その記憶も、記録しなければ時とともにどんどん忘却の彼方へと消し去られる…。

そうした意味でも、この民謡酒場探訪の旅は、筆者のヤマさんがこだわる“記録としてのドキュメンタリー”としての価値も高い。

NHK「のど自慢」による民謡が全国的にブームになるなか、吉原では売春防止法の施行で遊廓から民謡酒場への転業が続出。街のあちこちから歌声が聴こえるようになる。
それを支えたのが、高度経済成長だった。経済成長による折からの建設ブームによって全国から出稼ぎ者が集まり、集団就職による“金の卵”たちが故郷への郷愁を抱いたまま東京という街で暮らし始める。
その望郷の念を癒したのが“民謡”だったのだ。

『森の仕事と木遣り唄』 でも発揮された筆者の人びとの暮らしぶりや想いを丹念にすくい上げる手際は、本書でも十分に生かされ、“民謡”に憑かれた人びととその時代をまるでモノクロのスクリーンに写し出すように、再現する。
後半の「昔から民謡酒場に出入りしている人」たちのざっくばらんな座談会も、その場が甦ったかのように楽しい。そう、これは日本のある世代が体験した“青春物語”でもあるのだ。

しかしながら魅力的な題材であるだけに、ここにもし小沢昭一さんがいたらどんなふうに話は“脱線”しただろうかと夢想し、先頃急逝した朝倉喬司さんなら吉原の街並みをどんなふうに幻視(妄視)してくれただろかなどとも思ってしまう…。

そんな“ないものねだり”はさておき、こんな地味な取材をコツコツと続け、それを自身のサイト「電脳くろにか」でこれまたコツコツと書き続けた筆者の努力と思いが、こうした形で結実したのは誠に喜ばしい。

『民謡酒場という青春』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「民謡酒場の実態を活写する」--大友浩の本棚 芸を読む・人を読む
「『祭礼の宴』気分を味わう場、装置としての民謡酒場」--東京右半分 都築響一
「かつての民謡名手や観客と繋がる私たち」--本屋さんへ行こう!(山本亮氏)

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【アート】「船→建築」展2011/03/05

「船→建築」展
陸上に建てられた建築と海に浮かぶ船。そこに類似性が見てとれるというじつにユニークな視点によって企画された「船→建築」展に足を運んだ(3月2日・日本郵船歴史博物館)。

その“類似性”は単なる偶然ではなく、明らかに関連性をもつ。それが「建築→船」ではなく、「船→建築」への影響から生れているというのだからさらに驚く。
本展で冒頭に紹介される近代建築の巨匠ル・コルビュジェがその証左で、代表的な著作とされる『建築をめざして』 (1923刊)には、建築の本であるにもかかわらずその表紙には客船のデッキ写真が飾られている。
それだけでなく、本書には「商船」という章も設けられ、「新しい建築の形態」と位置づけているという。これはもう“証拠”を突きつけられたようなものだ。

このようにコルビュジェをはじめ多くの建築家にとって、船は機能性・合理性の象徴として、建築が目指す規範とされたことが、さまざまな展示によって証拠づけられる。

例えば、船の操舵室にみられる「流線型」の美が、次々と陸上の建築にも出現したことが指摘され、これまた船の象徴である「円窓」が、商業ビルをお洒落に着飾る意匠として採用されていく。

あの煙突のフォルムでさえ、ビルの頭ににっきりと生えた造形物でもって、その独特の美観に貢献する。その他にも、天窓、プロムーナードデッキ、手すり、階段、タラップなど船を形づくるさまざまな意匠が、陸上へと持ち込まれたのだ。

それは、コルビュジェらモダニズム建築の興隆が「船の時代」、つまり豪華客船が世界を結ぶ主な交通手段であり、文化使節としての役割をも果たしていた時代と軌を一にする。

なにしろ千人以上の人々が一つの船で、何週間、何カ月も共に生活するのだ。いきおいそこは住宅となり、街となり、人々の交流の場となる。船内が機能的でなければ、合理的でなければ、立ち行くはずがないのだ。
コルビュジェたちはそこに建築的な“美”を観たのだろう。

残念ながらと言うべきか、さすがのワタシもかつての大航海=豪華客船時代は知らない。しかしながら、本展に先立つ博物館の常設展で、そのまばゆいばかりの客船の様子が再現されている。

豪華なロビーや食堂、美術品ともいえる調度品に、本格的な和室までしつらえた船内には、テニスコートやプールから診療所、託児所、美容室まで生活に必要な全てが揃っているといって過言ではない。
そしてコルビュジェたちは、そこに人びとの暮らしの中にある建築の“理想”を観たのだろう。

やや拍子抜けだったのが、80点に及ぶ展示物の多くが写真や模型などの“小物”ばかりで、この巨大なシンクロニシティの迫力を十分に実感できなかったこと。たとえ借景でも、一部でもいいから、実物大の建築物があればこの“発見”がさらなる迫力をもって提示されたかと思うのだが…。

「船→建築」展の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「客船のデザインが、建築に与えた影響を丹念に探り出す」 --Chart Table
「客船は最先端の機械であり、動く集合住宅だった」--artscape(五十嵐太郎氏)
「客船にも通じるコルビュジェの『建築の中を散歩する』」--asahi.com(西田健作氏)
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【映画】メメント2011/03/06

メメント
『メメント』(2000年・監督:クリストファー・ノーラン)

先頃発表されたアカデミー賞でも『インセンプション』が4部門受賞と気を吐いたクリストファー・ノーラン監督だが、じつは.ワタシは未だこの監督の作品は一本も観ておらず、思い立ってまずは2000年作の『メメント』から観始めることにした。

冒頭からして、いきなり主人公(ガイ・ピアース)による殺人というショッキングなシーンによって本作は始まる。さらにアップを多様した映像で謎めいた雰囲気を醸しだし、観る者を一気に惹きつける。そこから倒叙法で物語は進むのかと思いきや、この監督はさらなる仕掛けを施し、ひと筋縄ではいかない展開を用意した。

前向性健忘という障害を持つ主人公は、10分しか記憶が保てない。つまり、10分前のことは全て忘れ、会った人間も、自分がしたことを覚えていない。記憶にあるのは、暴漢に妻を殺され、そのショックで記憶障害を負い、その犯人を追っているということだけ…。

したがって本人が頼りとするのは、手持ちのポラロイドカメラで写した写真とメモ、さらに身体に刻まれた文字(入れ墨)だ。
その写真やメモを確認することで、常に過去を“推測”をしながら次の行動に決定しなければならない。今話している人間は過去に会ったことのある人間のなのか? 味方なのか、敵なのか? 曖昧なまま物語は進んでいく…と書いたが、じつのところ物語が進んでいるのか、過去をなぞっているのか、それすら判然としない。

目覚めるたびに今、自分はどこにいるのか混濁し、見知らぬ人間から電話があり、ドアを明ければ見知らぬ男がいる…そんな、そんな体験が何度も繰り返され、ワタシたちもまたその度に混濁の迷宮へと誘われる。

かろうじて、事件以前に保険会社の調査員をしていた時代に、今の彼と同じような前向性健忘となった男性と妻とのやりとりのみがモノクロで写し出され、それが彼の残された“記憶”であることがおぼろげながら確認できる。

それにしても、“記憶”というものがいかに人間のアイデンティティ形成にとって重要であるかを、『ボーン・アイデンティティー』以上に迫る一方で、その時の思いや印象を書き綴ったメモや写真が本当に真実なのか、さらには“記憶”とは何かを深く問いかける。

同一シーンの繰り返しと巻き戻しという手法は、クエンティン・タランティーノ監督による『パルプ・フィクション』内田けんじ監督による『運命じゃない人』などでも用いられていたが、これだけ複雑に多層なレイヤーを交錯させるノーラン監督の手腕はやはり唸らざるをえない。

それだけに、メビウスの輪の途上のまま、突然に出口を塞がれてしまったかのような幕切れは、じつにあっけない。どこかかつてのニューシネマを彷彿させるようなラストだが、それだけに主人公の“心の闇”の中に放り出されてしまったかのような不気味さが、後味悪くねっとり絡みつく…。

『メメント』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「これは『喪失』についての物語だ」--ウェブマガジンUNZIP
「観客、そして映画そのものに対する意欲的作品」--CINEMA PREVIEW(谷本桐子氏)
「相対性の映画。」--粉川哲夫の「シネマノート」
「脚本構成のアイデアを明確に映像化」--映画瓦版

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【映画】ダーク・ナイト2011/03/10

『ダーク・ナイト』
『ダーク・ナイト』(2008年・監督:クリストファー・ノーラン)

というわけで、ワタシにとって2作目のクリストファー・ノーラン監督作品。いわずと知れたバットマン・シリーズの傑作にして、稀代の悪役キャラ“ジョーカー”ことヒース・レジャーの遺作としても記憶されている。

『メメント』では、時間と場面を交錯させた複雑なストーリー構成を最後まで押し通し、その才気走った作風が強く印象を残したノーラン監督だが、本作では人気キャラによる人気シリーズをハリウッドの“住人”として、ストレートに演出して魅せる。

バットマンが正体を隠し粉骨砕身でゴッサム・シティの“悪”と戦うも、いっこうに平和は訪れず、街にはピエロの扮装で狂気じみた犯罪を繰り返す「ジョーカー」が跋扈する。
次第に正体を名乗らないバットマンに批判が集まるなか、マフィアと闘うことを堂々宣言する新検事が現れて喝采を浴びるのだが…というのが大筋。

バットマンの活躍はケレン味に溢れ、“ジョーカー”のキレぶり、キュートなマギー・ギレンホールとの屈折ある恋愛感情の振幅、本作のテーマである善と悪との“トゥー・フェイス”を体現する検察官(アーロン・エッカート)の異化作用など、仕掛けも十分に風格さえ漂わせる作品に仕上げている。

しかしながら、人間の暗部を写し出すダークな通奏低音は『メメント』から繋がるもので、人間をキリスト教的な善と悪との単純な二律背反として描かないところに、この監督の矜持が感じられる。

イギリス生れで、父はアメリカ人、母はアメリカ人。幼い頃から両国で過ごし、ロンドン大では英文学を学んだという同監督の出自が気になるところだが、『メメント』同様にラストは未解決のまま観客は放り出される。

ちなみにワタシは、本作を観て真っ先思い出されたのが、永井豪の『デビルマン』であり、ジョージ秋山の『デロリンマン』であった。『デビルマン』では、デーモンとたたかうデビルマン自身こそデーモンの支配者サタンであったことが明かされ、『デロリンマン』では、悪と対決したデロリンマンが宿敵の仮面を叩き割るとそこには…という衝撃的なラストが用意されていた。

そして、そこに池波正太郎作『鬼平犯科帳』での「鬼平」のつぶやき、「人間というのものはおかしな生き物だ。良いことをしながら悪事をはたらき。悪事をはたらきを良いことをする…」が重なる。

いずれにせよ、そこには善悪の此岸(しがん)を諦観する監督自身のヒューマニズムが息づいている。

名優マイケル・ケインによるどこかユーモアを含んだ“執事”ぶりや、主人への忠誠心に溢れたモーガン・フリーマンなどの、演技や配し方などイギリス的な香り感じられ、どこかエレガントな佇まいもみせる。

また、言うまでもなく本作の成功は、悩ましくもバットマンを演じ続ける主役のクリスチャン・ベールの苦悩の演技ではなく、やはりヒース・レジャーの圧巻の演技に依るものだろう。

『ダーク・ナイト』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「完成度が高く、衝撃力を持った傑作」--アメコミくえすと
「苦悩映画の最高傑作」--たけくまメモ
「熾烈なアクションと緻密な人間描写が美しく冴える」--365日映画
「善悪の問題をこれほど深くあつかった映画作品はない」--粉川哲夫の「シネマノート」
「歴代バットマン映画の最高傑作」--超映画批評(前田有一氏)
「闇のヒーローの苦悩を描く人間ドラマ」--映画ジャッジ!(渡まち子氏)
「ジョーカーの持つパラドックスが魅力」--映画ジャッジ!(福田次郎氏)
「これはジョーカー映画だ。」--映画ジャッジ!(町田敦夫氏)
「ヒース・レジャーがひときわ輝く残酷で美しい」--映画ジャッジ!--(岡本太陽氏)

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【お知らせ】東日本大震災に関して2011/03/13

11日起きた東日本大地震によって多くの犠牲者が出ました。
私も、私の家族も幸い無事でしたが、報道に接するにつけ心痛めています。

しかしながら、福島第一原発は未だ不安定な状態を繰り返し、私が10代の多感な時期を過ごした宮城県では、1万人を超える死者が予想されています。

私が12~18歳を過ごした石巻市も壊滅的な打撃を受け、私が卒業した小学校は火事によって全焼したと聞きました。

そして、友人たちとも連絡がつきません…。

こうしたなかで、とても冷静な気持ちでブログを書くことができません。
よって事態が落ち着くまで、(そして私の気持ちが落ち着くまで)本ブログも休止することにします。

【ブログ再開のお知らせ】2011/03/20

石巻市立門脇小学校
東日本大震災より9日が経過しました。
その爪痕はあまりに重く、この間ワタシもとても冷静ではいられませんでした。

連絡がとれなかった宮城県石巻市の級友の一人と2日前にようやく連絡がとれ、無事が確認できました。

その後、彼からの情報と東京で足止めをくっていた級友の帰郷などで、学友たちの消息情報が届くようになり、現在19名の消息が確認できました。

石巻を離れ仙台や東京などで暮らす級友たちともメールなどで連絡を回し、互いに案じ、また励まし合っています。

それでもまだ連絡がとれない級友や、家族の消息がわからない級友もいます。さらに、福島第一原発の事故が追い打ちをかけて、未だ心安らかとはほど遠い毎日です。

しかしそれでも、ワタシたちは生き抜いていかなければなりません。
明日から、本ブログを再開します。

【本】ジプシーを訪ねて2011/03/21

ジプシーを訪ねて (岩波新書)ジプシーを訪ねて (岩波新書)
関口 義人

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著者の関口義人さんには、たしか以前に一度お会いしたことがあって、貴重な民族音楽のとレコード(LP)をお借りしたような記憶があるのだが、判然としない…。
アーティスト招聘の仕事などをされている頃だったかと思うが、その時も自由人のなかにどこか学究肌が感じられたこともあって、現在、大学で教鞭(音楽マネージメント論、民族音楽研究ほか)をとられているというのもしごく納得。

さて、その関口さんが探究してこられた「ジプシー」に関する新著。
『ジプシー・ミュージックの真実』『バルカン音楽ガイド』 などで、既にジプシー・ミュージックの全容について触れてきた著者だが、本書はさらに彼らが生み出す音楽や文化を超えてジプシーという「人間」そのものに迫っている。

まずは、インド北西部が起源とされる彼らがやがてヨーロッパ、アラブ、アジア各地へと拡散・移動し、ときに(いや、多くの場合は、か)蔑まされながらもしたたかに生き続けてきたことなどが概況される。
その呼称は、ロマ、ツィガーヌ、ヒターノ、マヌーシュ、カーロ、シンティ、ドム…などさまざまで、しかも長年の混血からかアフリカ人やインド人のように黒い肌をもつ者から、ラテン的褐色、アジア的有色、さらには「真っ白な」白人まで、顔の色だけ見てもじつに多様だという。

しかし、どの地域での「ジプシー」であっても、「難民や不法移民が多い上、失業率、非識字率、貧困率の異常な高さの一方で、社会的に存在を認められる『市民』の資格をもつ比率の低さは、変わりがない」という。

そうしたジプシーの置かれた位置を確認しながら、著者は彼らのもつ強烈なエネルギーに導かれるように、その“森”の奥へと足を踏み入れていく…。

ふだん着の彼らの生活を知るために、優れたジプシーの通訳を雇い、ジプシーの「首都」や「王」を訪ねて歩く。そこには、歴史の中ではなく、現代を生きるジプシーたちの生々しい息吹が聞こえてくるのだ。

しかしながら、これだけジプシーたちに寄り添ってしまった著者に客観的ルポを求めるのは無理で、時としてそれは「なぜ自分はこうもジプシーに惹かれるのか?」という自身への問いを解き明かす旅の道程を思わせる。

それだけに、巻末に記された「ジプシーの未来像」は、著者による慟哭の記といえる。
何百、何千というジプシーに出会ってきた著者は、ジプシーに付与されてきた「放浪癖や自由勝手気まま、不道徳、夢見がちな人生観、自然児--」といったシンボリックな「幻想」をも受けとめたうえで、「彼らの姿を全体として総括すれば、『ジプシーという生き方』は幸せな人生ではないことになるだろう」と言い切る。
さらに、「ジプシーが政治的に目覚めたり、国会を形成するという未来像は、少なくともいま、私には思い描くことができない」と、諦観するのだ。

しかし、その一方で「二○世紀の前半には政治の思惑に振り回され、後半には経済の原則に支配されたこの世界に『幸福な生き方の規範(お手本)』など存在しないだろう」とも言う。
そこに、「ジプシーを見つめること、それは私たちの生きる社会を見つめることである」という著者の確固たる信念を見ることができるのだ。

ちなみに、本書を編集担当したのは「キキオン」の十時由紀子氏であることも最後に記しておきたい。

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【映画】告発のとき2011/03/22

『告発のとき』
『告発のとき』(2007年・監督:ポール・ハギス)

『クラッシュ』(2005年)で見事な群像劇を描いてみせたポール・ハギス監督が、真っ正面からイラク戦争の問題に取り組んだ作品。

“真っ正面”といっても、『プライベート・ライアン』(スティーヴン・スピルバーク監督・1998年)の冒頭のような凄まじい戦闘シーンが飛び出すわけでもなく、『プラトーン』(オリバー・ストーン監督・1986年)のようなヒリヒリする攻防や泥沼化した戦場が描かれるわけでもない。

強いていえば、ジョン・ボイトが負傷したベトナム帰還兵を演じた『帰郷』(ハル・アシュビー監督・1978年)がそのテイストに近いが、本作では描かれるのは戦争によって奪われた「身体」ではなく、「心」だ。

軍隊(警察)を退役し、妻と二人で暮らすハンク(トミー・リー・ジョーンズ)の元に、イラクから帰還した息子が行方不明になったという連絡が入る。やがて息子は焼死体となって発見されるが、軍も警察もおざなりの捜査しかしない。
事件の真相を知るために、女性刑事エミリー(シャーリーズ・セロン)の協力を得て、ハンクは独自に調査を始めるのだが…。

物語は、薄皮が剥がれるように、次第に「真相」に近づいていくのだが、ここではハリウッド的な軍や政府による陰謀や隠蔽といったどんでん返しもなく、淡々とイラク戦争の真実とそれを体験した兵士たちの“狂気”があぶり出されていく。

アメリカを、軍隊を信じて、息子をイラクへ送りだしたことが、こんな仇となって却ってきたことを彼自身が受けとめきれない。息子にとりついたその“狂気”を信じたくない父親ハンクの姿が、痛ましい…。

そのハンクの複雑な心理をハギス監督はゆっくりと描き、ジョーンズも抑えた演技で、それに応えていく。それがまた、兵士たちの“壊れてしまった感情”を不気味に写し出し、息子とハギスの苦悩が次元を超えてシンクロする…。

セリフを極端に廃したその演出は、ジム・ジャームッシュ作品を観ているかのようでもあり、まるで小津映画のようでもある。地を這うかのようにゆっくりと進む物語に、小津監督が戦争告発映画が撮ったかのような錯覚すら覚えてしまう。
そういえば、多層的な構造をもった『クラッシュ』も、じつは“饒舌”を廃したからこそ成功した作品だと、今さらながらに思う。

出口のない“狂気”と、底無しの“心の闇”。
否が応でも向き合わなければならない現実がそこにある。
なぜなら、イラク戦争とは私たちが起こした戦争だから。

息子を戦場に追いやった夫との向き合い方に葛藤する妻を演じる、大好きなスーザン・サランドンの出番が少ないのがやや残念。

『告発のとき』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「『クラッシュ』の延長戦上にあるポスト9.11映画」--銀の森のゴブリン
「監督の計算高さを感じ入るにつれ、大いに感心」--映画ジャッジ!(前田有一氏)
「メロドラマとしてみるにかぎるアメリカの戦争『反省』映画」--粉川哲夫の「シネマノート」
「所詮はアメリカ国内の戦争後遺症問題?」--佐藤秀の徒然幻視録
「重い人間ドラマだが見応えあり」--映画通信シネマッシモ(渡まち子氏)
「トミー・リー・ジョーンズの重厚な演技力が素晴らしい」--LOVE Cinemas 調布
「リアルなのだが、どこかファンタジック」--映画ジャッジ!(岡本太陽氏)

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