【アート】日本民藝館名品展2011/06/18

日本民藝館名品展
開館75周年を記念して開催されている日本民藝館「名品展」に足を運ぶ(6月18日)。

日本民藝館といえば、初代館長を務めた柳宗悦による「民藝」運動の拠点として知られているが、じつのところ柳の功績については、よく理解しないでいた。ワタシの知りえる柳のイメージは、朝鮮文化に早くから注目し、白磁・青磁を始めとする朝鮮陶磁器や美術を広く日本に紹介した人、という程度でその全体像を掴むには至っていなかった。

その意味で、柳が収集した約500点にも及ぶ陶磁器、染織品、木漆工品、絵画や著書、自筆原稿、写真資料などが展示された本展を通じて、ようやく柳宗悦が“目指していたもの”がおぼろげながら理解できたような気がした…。

端的に言えば、柳は民藝運動によって暮らしの中に息づく美の世界を発見・紹介することで、芸術家ら一部の特権(?)階級に独占された美を解放したのだ。
いわばポピュラー音楽界における、伝承歌・フォーク/ブルースの発見のような運動だったのかもしれない。つまり柳は、日本アート界のアラン・ローマックスだ(…かえってわかりにくい例えか(笑))。

つまりそれは、「美の視点」の転換を迫ったものであり、またそれは強固な信念(思想)と緩やかな感性を伴うものだったに違いない。それらが基層にあったからこそ、当時の文化人が誰も見向きもしなかった“朝鮮の美”が、虚心坦懐な柳の心をとらえたのだろう。

しかしながら、この「名品展」で開陳されるのは、朝鮮のそれのみならず、室町から昭和に至るさまざまな時代の美術・工芸品、そしてアイヌ、台湾少数民族、アメリカ先住民…と、時間軸も地平軸も拡がりをもった“民藝の美”たちだ。

そこに息づく人びとの暮らしを垣間見ることができる“美”。そして、アイヌの人たちによる刺繍と台湾の少数民族によるそれを並べることによって、“美”の伝播や、通奏する美的感性を提示している。
それは人間にとって“美”とは何か? という問いかけでもある。

名もない名工たちの時と地平を超えた逸品たちの技を堪能するとともに、濱田庄司ら柳らと交流のあった作家たちによるアート感溢れる作品にも圧倒されたが、なにより柳自らが設計したという「民藝館」そのものが素晴らしい。
さらに、柳の居宅となった「西館」の佇まいも、いわく言い難い風格と風情をそなえ、とりわけ(入り口奥の小窓から覗ける)庭から見上げた外観は、まさに柳が愛した暮らしに息づいた美術品そのものだ。

ちなみに展示説明が少なく、最初はなんと不親切な展示だと感じたが次第にそれも気にならなくなった。改めて本館のパンフレットに目をやると、「本館では作品の説明書きを意識的に少なくしていますが、それは知識で物を見るのではなく、直感で見ることが何よりも肝要であるという、創立者柳宗悦の見識に基づいている」と記してあった。

なるほど得心。ワタシもその「直感で」を、オススメする(6月26日まで)。

『日本民藝館名品展』の参考レビュー(*タイトル文責は森口)
「『民藝』とは、インターナショナルな概念」--見もの・読みもの日記
「『名品』を選んで展示するという発想自体に危うさが…」--白い鹿を見たか?

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【TV】トニー賞 ミュージカル特集「フェラ!」2011/06/20

『フェラ!』(C) Monique Carboni
これは驚いた。
フェラ・アニクラポ・クティの半生を描いた『フェラ!』なるミュージカルがブロードウェイで上演され、しかも2010年のトニー賞で11部門にノミネート、3部門を受賞していたとは!
その舞台ライブが、6月15日にNHK・BSプレミアムで放映された。

フェラ・クティといえば、70年代に腐敗しきったナイジェリア政府を攻撃し続けた先鋭的なミュージシャンで、「アフロビート」の創始者。いわばアフリカにおけるワールド・ミュージックの先駆者であり、ボブ・マーリーと比してもおかしくない存在だ。
しかしながらその知名度ははるかに低い…と思っていたので、こうしたミュージカルが製作・上演されていたことに大いに驚いた次第。
たしかに近年、アンティバラスなど若い世代の間で、フェラの遺伝子を引き継いだアフロ・ビート・バンドが注目を集めていることは知っていたが、まさかフェラがミュージカルになるとは…。

舞台設定は、フェラの活動根拠地であった「シュライン」。
観客はそのライブハウスに集まった「観客」という設定で、フェラの語り(演説)とライブ演奏で物語は進む。

「シュライン」といえば、ナイジェリア政府からの弾圧を何度も受け、たしか死者まで出したフェラの“聖地”。そこでのライブを再現するということで、観客は生前のフェラの聖地ライブを疑似体験できるという仕掛け。

なるほど、そこまではいい。
しかし、どんなに(風貌から声や喋りまでも)フェラに似せた男優(サ・ンガウジャ)が演じても、腕達者なミュージシャンやバンド演奏やコーラスが熱演を繰り広げても、あのフェラの呪術的なパフォーマンスは再現できないのだ…。

あのおどろあどろしいまでのカリスマ性、危険な香り、ヒリヒリとした感性と、あくことのないアグレッシブなサウンド…。ワタシがフェラの生ライブを体験した数少ない日本人(1984年グラストンベリー・フェスティバル)であるということを差し引いても、その舞台で演じられるものは実際のフェラには及びもつかないものなのだ。

しかも客席を埋めるのは、正装に近い大人げな紳士・淑女ばかりだ(収録はなぜかロンドン公演)。
ここはシュラインだ、と言われてもまったく現実感はなく、かえってエキゾチズムと正義感に彩どられた植民地ドラマを見せられているかのように、居心地が悪い。かつてボール・サイモンらもやり玉に挙げられた非西欧文化搾取の構図が頭をよぎる。

そうした批判が起こるのを予期してか(?)休憩を挟んでの後半では、フェラの活動と音楽に大きな影響を与えた神話的なヨルバ世界に迫ろうとするが、それほど舞台の深化に貢献しているとは思えず、むしろ冗長になった印象を受ける。

なんといっても休憩を挟んで3時間にも及ぶ舞台は長い。もうちょっと刈り込んでもよかったのではないか。ノミネートのわりに受賞が少なく、しかも主要な賞を逃していることからも、このミュージカルの評価がそう高くなかったことが伺い知れる。

そうは言っても、「Up Side Down」「Zombie」といった往年の名曲が流れればついこちらも熱くなる。それだけに、フェラが世に送り出した楽曲群が時代を超えた“名曲”であったことがはからずも証明されたわけで、それだけでもこのミュージカルが上演された意味があったかもしれない。

ミュージカル『フェラ!』の参考レビュー(*タイトル文責は森口)
「思わず腰ふる、エネルギー爆発ミュージカル『Fela!』」--NY Niche
「ニューヨーク公演は連日超満員」--Dance Cube チャコット webマガジン

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【本】ドラマトゥルク 舞台芸術を進化/深化させる者2011/06/21

ドラマトゥルク―舞台芸術を進化/深化させる者ドラマトゥルク―舞台芸術を進化/深化させる者
平田 栄一朗

三元社 2010-11
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最近、芝居のチラシで「ドラマトゥルク」なるクレジットを目にしたり、この役割(?)について語られた文章を目をする機会が少しずつ増えてきた。そんな折、そのものズバリ、『ドラマトゥルク』なる書籍が刊行された。

ドイツでは演劇界に古くから存在する「肩書」で、制作とは独立した権限を持つ専門職なのだという。オーストリアとスイスを含むドイツ語圏の公共事業などで500名以上が活動しているという。
また1960年前後からヨーロッパの周辺諸国やアメリカ・カナダの公共劇場や主要劇団がこの「ジャーマン・モデル」を参考にして「ドラマトゥルク」を採用するようになったという。

その「ドラマトゥルク」の活動内容や役割を、本邦で初めて詳らかにした本格的な書というわけだが、じつのところ読後を経ても、未だに「ドラマトゥルク」の職分イメージが十分に掴めずにいる…。

たしかに本書では、演出補やプロデューサー、あるいは演劇キュレーター的なイメージしか(ワタシには)持ちえていなかった「ドラマトゥルク」の多彩な活動や役割が、紹介・考察されている。
多くは劇場に所属し、舞台制作に関するさまざまな事例や問題に精通し、ときとして助言・提言を行う。あるいは観客までも教育・組織化し、舞台芸術の活動の輪を拡げていく。。それゆえ文学、美術など、深く広範な専門知識が要求される知的エキスパートなのだという。

しかしそれらの活動があまり多岐にわたり、またそれを追いかける本書の調査・研究もまた蜘蛛の巣のような八方広がりとなり、ワタシの頭の中は混濁する…。

というのも、どうも研究論文がベースになっているせいか、「ドラマトゥルク」の生身の姿が見えてこなのだ。フィールドワークやヒアリングは十分に重ねているのだろうが、ルポルタージュ的な表現が少ないので、そう感じてしまうのだろう。

それにほとんどがドイツでの話であって、ワタシにはとっては遠い。
もう少し研究の範囲を拡げて、「ジャーマン・モデル」を移築した他国の例などを挙げれてくれれば、後半で熱く展開される「日本におけるドラマトゥルク導入の可能性」についてももっと説得力を持ったのではないだろうか。

さらにいえば、日本ですでに「ドラマトゥルク」として活躍されている演劇人の活動が、なぜかほとんど紹介されていない。その「活動」は著書の説く「ドラマトゥルク」とは相いれないものなのか、紹介する値のないものと判断したのか、とにかく日本における「ドラマトゥルク」の活動を詳らかにしないでおいて、その「可能性」を語るというのもずいぶんと片手落ちな話ではないか…。

まあたしかに、今まで耳慣れなかった(しかも重要な存在らしい)「ドラマトゥルク」が、こうした形でも紹介されたことは喜ばしことだが、今後はルポや当事者からの発信といったさまざまな形での著書が編まれれば、その「可能性」についての議論が深まると思うのだが…。

『ドラマトゥルク』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「日本の演劇界が抱える問題に一石を投じた書」--書評空間(西堂行人氏)
「ドラマトゥルクについて広範に論じた画期的な名著」--雄鶏とナイフ
「Dramaturg の訳には、「作劇家」がふさわしい」--仕事の日記(白石知雄氏)
「教科書的な概論・解説に陥らず、アップ・トゥ・デートな内容」--ella and louis BLOG

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【CD】ビビアン・スー/ナチュラル・ビューティー2011/06/22

Natural BeautyNatural Beauty
ビビアン・スー The d.e.p

ファー・イースタン・トライブ・レコーズ 2011-03-16
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どうしてこうワタシはアジアの歌姫たちの歌声にほだされてしまうのだろう…。その語感なのか、たおやかな歌唱なのか、はたまたエキゾチジムに惑わされてなのか、うまく説明がつかないのだが、ときとしてその歌声に身も心もとろけそうになる。

そうして最近になってワタシが「発見」したディーバが、ビビアン・スーだ。
ワタシが知るビビアンは、台湾アイドルとして若くして日本に渡り、グラビアからお笑いまで果敢にこなし、「ブラック・ビスケッツ」とヘアヌードでブレイクした“”苦労人”(あるいは努力人)というイメージしかない。よって「ブラック・ビスケッツ」での歌声など、まったく耳にも止まらなかったのだが…。

しかしこの新作アルバム『ナチュラル・ビューティー』(2011年3月リリース)に、収録された「タイミング」を聴くと、なんとイイ曲だったのだろうかとわが耳を疑い、じつに新鮮にその楽曲が響く。スローナンバーに改変されたこのノベルティ・ソングが、ビビアンの魅惑の歌声によって、見事に美しいラブ・ソングに生れ変わっているのだ。

カバー曲の②「恋におちて」、③「長い間」も然り。改めてこれらの曲の良さに気づかせてくれるのもまたビビアンの歌声だ。亀田誠治プロデュースによるシングル曲「Beautiful Day」もまたビビアンの魅力を十分に伝えている。
いや、けっして巧いわけではない。とりたてて声に特長があるわけではない。しかしここが音楽のマジックで、そのとりたてて目立たない中に、どうにも説明しがたい魅力がある。癒しがある。そんな不思議な歌い手なのだ。

もっとも後半のジャンプ・ナンバーになると、その魔力も十分に発揮できず、ワタシなどは中抜きに編集した盤を愛聴しているのだが(苦笑)。

改めてWikiで確認してみると、ビビアンの母方は台湾少数民族のタイヤル族で、ビビアンのどこかアニミズム的な歌世界はそれから引き継がれているのかもしれない。もちろん妄想だ(笑)。

さらに驚いたのは、2001年に佐久間正英、土屋昌巳、ミック・カーン、屋敷豪太といったとんでもないメンバーと「The d.e.p」なるグループを結成していたことだ。もちろんヴォーカルはビビアンだ。このバンドがメチャかっこいい。↓



どういう経過でこのバンドが結成されたわからないが、おそらくこの強者どももビビアンの“歌”に、早くから注目していたからこそ、彼女をフロントに置いてのバンド結成に至ったのではないか。もっとも聴いておわかりのように、ここでのビビアンのヴォーカルは凡庸で、バックの凄さばかり目立つ…。

しかながら本作を耳にした今なら、もう一度このスーパーバンドが再結成(ミック・カーンは残念ながら参加できないが…)されて、ビビアンの歌声でこのバンド・サウンドを聴いてみたい!と強く想う。(*ミック・カーンの死去に伴いThe d.e.pは2010年に一度再結成されたようだ)

いつの日かフジロックに“アジアン・ステージ”が設けられ、台湾のメイデイ(五月天)、 ジェイ・チョウ(周杰倫)、中国のツァイ・ジェン(催建)、香港ノサンディ・ラム、マレーシアのシーラ・マジットらに混じって、ビビアン(The d.e.p)が歌い舞う…そんな夢想さか沸き起こるビビアンの快作だ。

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【演劇】大規模修繕劇団『地の婚礼』2011/06/27

大規模修繕劇団「地の婚礼」
蜷川幸雄氏が新たに立ち上げた<大規模修繕劇団>の旗揚げ公演『地の婚礼』(作・清水邦夫)をにしすがも創造舎体育館・特設会場に観に行った(6月26日)。

なんともお恥ずかしいかぎりだが、今までどうも機会がなく蜷川演出劇は初体験。清水+蜷川コンビによる「名作」と知られる『地の婚礼』を、窪塚洋介、中島朋子、髙橋和也、伊藤蘭という豪華キャストで再演するとだけあって、大いに期待して出かけて行ったのだが…。

芝居に限らずすぐれた芸術・文化には、えてして「暗喩」として観客に問いかける仕掛けが施される。その「暗喩」が何を意味するのか、観客一人ひとりが思考と想像力を巡らせながら、作品に臨む。芝居を観る楽しさとは、そうした作者や演出家からなげられた「暗喩」の中に潜む「問い」に対する、主体的な参加に依っている部分が大きい。
そして、本作にもそうしたいくつもの「暗喩」が提示されるのだが、その最たるものが舞台に降り続ける「雨」だろう。

なにしろ冒頭から90分間、雨はやむことなく舞台に降りしきる。
この雨はいったい何を意味をしているのだろうか?
清水氏によって芝居が書かれたのは、1986年。今から25年も前のことだ。
その時代ならば、「雨」は次第に息苦しさを増す管理社会の象徴か、あるいは希薄な人間関係を示す疎外感か、はたまた単なるイバラの青春期を表現したものなのだったのだろうか?
しかし、3.11を経て、いまだに収束しない福島原発事故に不安あ毎日を送るワタシたちは、どうしてもそれに放射能の雨を連想せずにいられない…。

舞台は繁華街のうらぶれた路地。路地と、路地を挟んで並ぶ小さなビデオ屋とコインランドリーだけで、この愛憎劇ともドタバタ劇ともとれる物語が展開していく。

スペインの詩人ガルシア・ロルカの『血の婚礼』に触発されて書かれたという本作をひと言で言ってしまえば、男女、血族の愛憎劇ということなのだが、そこに応答のないトランシーバーで報告を続ける青年(田島優成)や、ヘルマン・ヘッセの世界で耽溺する教師(青山達三)とその生徒、飲み屋の女たちや鼓笛隊までが乱入する。

その一つひとつが「暗喩」として提示され、まさに蜷川メタファー・ワールドが炸裂するのだが、どうもワタシにはしっくりこない。というかワタシの妄想・爆想導火線にいつまでたっても引火しない…。

25年前には斬新だっであろう舞台に降りしきる雨(総量7トンだとか)も、雨中で絶唱する役者たちのエネルギッシュな肉体も、ヘッセ的な苦悩を体現する詩的なセリフも、映像を駆使した欲望渦まく猥雑な舞台装置も、ワタシにはどうもシゲキが感じられない。“演出”に新味が感じられないのだ(ああ、とうとう言ってしまった!)。

だから、冒頭から「放射能」の雨が降り続けても、鼓笛隊が「権力者」のように路地を跋扈しても、路地裏を「希望」のように電車が走り抜けても、どうもその「暗喩」が生きてこない。

スクリーンではじつに魅力的な芝居を魅せる、窪塚洋介、中島朋子といった若手役者たちも、堅実な演技が身上の髙橋和也、伊藤蘭といった中堅俳優たちも、その魅力を舞台に十分放っているとは言い難い。舞台での大仰な演技に、その力が発揮できていない気がするのだ。

…という訳で、ワタシには退屈な芝居だった。(7/30日まで)

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【本】震災歌集2011/06/28

震災歌集震災歌集
長谷川 櫂

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「この『震災歌集』は二○一一年三月十一日午後、東日本一帯を襲った巨大な地震と津波、つづいて起こった東京電力の福島第一原子力発電所の事故からはじまった混乱と不安の十二日間の記録である」という書き出しで、本書は始まる。

そうした「混乱と不安」の中で、俳人である著者が「やむにやまれぬ思い」でしたためた119編の短歌が、本書に収められた。

本書を手にしてまず最初に頭に思い浮かんだのは、斎藤茂吉の「死にたまふ母」だ。茂吉が最愛の母の死に直面しながら、荼毘に付すまでを淡々と書きつらねた歌の数々。
悲嘆にくれている最中になぜ、歌なぞ詠めるのか? 初めてこの歌に接したときには不思議に思ったものだが、あとになって茂吉にとって歌を詠むことは朝起きて顔を洗うように日常に染みついた行為なのだという話を聞いて、得心したものだった。
まあ、今でいうブロガーのようなものだろうか。「表現」せずにいられない毎日、なのだ…。

本書に対してもこうした疑念が寄せられことを予想するかのように、著者・長谷川氏は「あとがき」でこう宣言する。

今回の大震災は人々の心を揺さぶり、心の奥に眠っていた歌をよむ日本人のDNAを目覚めさせたようだ。
なかにはあまりの惨状を前にして被災者のためのの短歌や俳句に何ができるのかと、詩歌の無力を訴えてくる人もある。もし、あなたが詩歌が無力であると思うのなら、さっさと捨てればいい。しかし、それはあなたが平安の時代に詠んできた俳句が無力であるということなのだ。決して詩歌が無力なのではない。

大震災は日本という国のあり方を変えてしまうほどの一大事である。しかし、詩歌はそれに堂々と向い合わなくてはならない。いつかは平安の時代が来るだろう。その平安の時代にあっても何が起ころうと揺るがない、それに堂々と対抗できる短歌、俳句でなければならない。


ワタシには、本書で詠まれている歌を論評する見識も力もないが、最後にワタシの心に残った何編かを紹介することで、本書の“意味”を問いかけたい。

わだつみの神の心は知らねども黒き大津波人々を殺(あや)む

嘆き疲れ人々眠る暁に降り立ちたたずむ者あり

被災せし老婆の口をもれいづる「ご迷惑おかけして申しわけありません」

つつましきみちのくの人哀しけれ苦しきときもみづから責む

原子炉の放射能浴び放水の消防士らに合掌はする老婆

禍(まが)つ火を奥に蔵せる原子炉を禍(まが)つ神とし人類はあり

ラーメン屋がラーメンを作るといふことの平安を思ふ大津波ののち

「こんなとき卒業してゆく君たちはきつと強く生きる」と校長の言葉

人々の嘆きみちみつるみちのくを心してゆけ桜前線

葉桜を吹きわたる風よ記憶せよここにみちのくといふ国のありしを

『震災歌集』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「共振する歌々は、いずれは「読み人知らず」へと昇華する」--本よみうり堂(三浦佑之氏)
「時事詠に収まらない慟哭と憤怒の書」--橄欖追放のページ(東郷雄二氏)
「等身大の長谷川氏自身の姿をもっと読みたかった」--壜

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【映画】無常素描2011/06/29

『無常素描』
『無常素描』(2011年・監督:大宮浩一)

高速道路を降りた車はやがて直線道路に入る。そして、ワゴン車の車窓から向けられたカメラがとらえたものは…ガレキの山、山、山。そして、荒れ果てた大地。忽然と現れたその“信じがたい”光景は、ワタシたちの言葉を奪い、戦慄へと落とし込める--。
東日本大震災の実像をとらえたこのドキュメンタリー映画は、こうして始まる。

本作を世に問うたのは、介護現場の描いたドキュメンタリー『ただいま、介護現場のいま それぞれの居場所』(2010年)で注目を浴びた大宮浩一監督。残念ながらこの作品も含めて大宮作品は未見なので、この監督の演出テイストはわからないが、本作では恐ろしく寡黙だ。

冒頭で紹介したような車からの無言の映像が、しばしば挿入される。しかもそれらどのシーンでも、ガレキの山が延々と写される。つまり、車がどこを走っても、どこを通っても、ガレキの山、山、山が続くのだ。まず、その事実に圧倒される。
その事実をまず、見せたい。多くの人に知ってもらいたい。そんな監督の執念が、無言の車窓カットを生んだ。車窓カットの連なりが生れた。…そんな妄想を抱かせる、事実と映像のチカラに依ったドキュメンタリーが、本作だ。

撮影地は、震災1カ月を経た宮城県・気仙沼市。
土台しか残っていない家を前に途方にくれる家主家族、ボランティアに訪れた外国人は「信じられない…」と言葉を失い、「トラジェティ(悲劇)…」と言ったまま無言になる。
一人の老いた男性がインタビューの途中で突然慟哭をはじめ、子どものように泣きじゃくる…。

余計な言葉を挟まず、ナレーションもない。
演出らしきものは、僧侶で作家の玄侑宗久氏の言の葉のみ。
氏が「無常」を語り、映像は“事実”を「素描」としてとらえる。
そこから生み落とされた驚愕の生と死の「記録」…。

これは作品として論評云々の前に、震災直後の被災地をとらえた貴重な記録映像として、永遠に記憶される作品だろう。いや、記憶されなければいけない作品だ。(7月15日まで東京・オーディトリウム渋谷で上映後、各地で公開予定)

『無常素描』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「単なる記録や情報でもない、アクチュアルな映画」--映画芸術DIARY(神田映良氏)
「写真と動画の違いを感じるドキュメンタリー」--アピタル(平子義紀氏)

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【演劇】燐光群「推進派」2011/06/30

燐光群「推進派」
燐光群「推進派」の劇評らしきものを、レビューマガジン「ワンダーランド」に執筆したので、以下に紹介(一部)する。(全文は「ワンダーランド」参照、6月9日観劇)

うーむ、こういう芝居はどう評していいものかと、思わず腕組みしてしまう…。欠点を論(あげつら)えば、いくらでも挙げることができる。
 まず、状況説明のために、登場人物が突然饒舌となりやたら詳しい解説を語りだす。〈解説〉が始まると役者は一歩前に踏み出し、声を張り上げるといった古くさい新劇テイスト。2日目の舞台のせいか、はたまたそのセリフの多さのせいか、役者がしばしばセリフを噛むこと。そして、話を詰め込みすぎて、十分に整理されていないこと…。
 しかしながら、そうしたさまざまな〈欠点〉を補って余るほどの迫力と剛力(ごうりき)をもって、本作『推進派』はワタシたちの前に提起された。今ニッポンで進行している事態を、一つのエンターテイメント性ある〈物語〉として結実させた芝居として。

…続きは「ワンダーランド」を参照

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