【演劇】大規模修繕劇団『地の婚礼』2011/06/27

大規模修繕劇団「地の婚礼」
蜷川幸雄氏が新たに立ち上げた<大規模修繕劇団>の旗揚げ公演『地の婚礼』(作・清水邦夫)をにしすがも創造舎体育館・特設会場に観に行った(6月26日)。

なんともお恥ずかしいかぎりだが、今までどうも機会がなく蜷川演出劇は初体験。清水+蜷川コンビによる「名作」と知られる『地の婚礼』を、窪塚洋介、中島朋子、髙橋和也、伊藤蘭という豪華キャストで再演するとだけあって、大いに期待して出かけて行ったのだが…。

芝居に限らずすぐれた芸術・文化には、えてして「暗喩」として観客に問いかける仕掛けが施される。その「暗喩」が何を意味するのか、観客一人ひとりが思考と想像力を巡らせながら、作品に臨む。芝居を観る楽しさとは、そうした作者や演出家からなげられた「暗喩」の中に潜む「問い」に対する、主体的な参加に依っている部分が大きい。
そして、本作にもそうしたいくつもの「暗喩」が提示されるのだが、その最たるものが舞台に降り続ける「雨」だろう。

なにしろ冒頭から90分間、雨はやむことなく舞台に降りしきる。
この雨はいったい何を意味をしているのだろうか?
清水氏によって芝居が書かれたのは、1986年。今から25年も前のことだ。
その時代ならば、「雨」は次第に息苦しさを増す管理社会の象徴か、あるいは希薄な人間関係を示す疎外感か、はたまた単なるイバラの青春期を表現したものなのだったのだろうか?
しかし、3.11を経て、いまだに収束しない福島原発事故に不安あ毎日を送るワタシたちは、どうしてもそれに放射能の雨を連想せずにいられない…。

舞台は繁華街のうらぶれた路地。路地と、路地を挟んで並ぶ小さなビデオ屋とコインランドリーだけで、この愛憎劇ともドタバタ劇ともとれる物語が展開していく。

スペインの詩人ガルシア・ロルカの『血の婚礼』に触発されて書かれたという本作をひと言で言ってしまえば、男女、血族の愛憎劇ということなのだが、そこに応答のないトランシーバーで報告を続ける青年(田島優成)や、ヘルマン・ヘッセの世界で耽溺する教師(青山達三)とその生徒、飲み屋の女たちや鼓笛隊までが乱入する。

その一つひとつが「暗喩」として提示され、まさに蜷川メタファー・ワールドが炸裂するのだが、どうもワタシにはしっくりこない。というかワタシの妄想・爆想導火線にいつまでたっても引火しない…。

25年前には斬新だっであろう舞台に降りしきる雨(総量7トンだとか)も、雨中で絶唱する役者たちのエネルギッシュな肉体も、ヘッセ的な苦悩を体現する詩的なセリフも、映像を駆使した欲望渦まく猥雑な舞台装置も、ワタシにはどうもシゲキが感じられない。“演出”に新味が感じられないのだ(ああ、とうとう言ってしまった!)。

だから、冒頭から「放射能」の雨が降り続けても、鼓笛隊が「権力者」のように路地を跋扈しても、路地裏を「希望」のように電車が走り抜けても、どうもその「暗喩」が生きてこない。

スクリーンではじつに魅力的な芝居を魅せる、窪塚洋介、中島朋子といった若手役者たちも、堅実な演技が身上の髙橋和也、伊藤蘭といった中堅俳優たちも、その魅力を舞台に十分放っているとは言い難い。舞台での大仰な演技に、その力が発揮できていない気がするのだ。

…という訳で、ワタシには退屈な芝居だった。(7/30日まで)

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