【映画】みな殺しの霊歌2011/05/07

みな殺しの霊歌
『みな殺しの霊歌』(1968年・監督:加藤泰)

加藤泰といえば時代劇や任侠映画を特異とした監督というイメージしかなかったが、これには驚いた。まるでATG映画のようにアバンギャルドでスタイリッシュな出来ばえ。よくこんな作品を松竹が撮らせたなと、少々驚く…。

親しくなった少年の自殺の原因が、有閑マダム(死語)の開く秘密パーティでのある“行為”だと知った殺人犯・川島が、次々とその女たちを殺していく…というたわいもないストーリーだが、その圧倒的な映像に魅せられる。

殺人が虐げられた者の“権利”だとばかりに、何度となく殺戮を繰り返す佐藤允の満身の演技。菅井きんの芸幅をうかがわせる風格の存在感に、いつも変わらず可憐な花を思わせる倍賞美津子。警察本部長を演ずる松村達雄もシブい。

しかながら、本作での“主役”はそうした演技者たちの競演ではない。
これは“カメラ”が主役の映画だ。

なにしろ人物やシーンをまともに撮らない。しばしば観客の視線を塞ぐかのように手前を何か置くのだ。ときには棺桶であったり、花であったり、家の柱であったり…とにかく目の前に何らか物が置かれるのだ。
かといってもどうも監督の意図が、その手前に置かれた物を見せたいわけではないようだ(ピンも合っていない)。なぜかといえばその奥では、会話なり、動きなり、物語が確実に進行しているからだ。

つまりワタシたちは、手前に置かれたモノの向こう側で展開されるシーンを観るために、凝視を強いられる。“観る”という行為に集中力しなければならない。
そのスクリーンの奥を凝視するという行為があるからこそ、この異形の物語から迫りくる緊迫感と寂寥感を体感できる…。
どうもそれが監督の“狙い”であるように思えるのだ。

寡聞にして加藤監督や丸山恵司カメラマンの緒作から、そうしたカメラワークを確認することはできないが、若き日の山田洋次氏による“構成”にも、そうした意図が含まれていたのかもしれない。

『みな殺しの霊歌』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口) 「濃厚な映像遊園地が観る者の心を掴んで離さない」--くりごはんが嫌い
「加藤泰カラー炸裂の映画ではあるが…」--シネマ、ジャズ、時々お仕事

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