【映画】トロン:レガシー2011/01/04

『トロン:レガシー』
『トロン:レガシー』(2010年・監督:ジョセフ・コシンスキー)

前作『トロン』(1982年)から28年。3Dによる続編として制作された話題の本作を、正月ムービーとして鑑賞。

ワタシも前作の『トロン』は観ているが、もはや記憶に残っているのは、ダーク(薄暗い)な映像に蛍光灯が縫い込まれたような衣服をまとった主人公らが、『ドッグヴィル』の舞台を3Dに置き換えたような薄ぼんやりと光る幾何学線に彩られた世界で、これまた薄ぼんやりと光るフリスビー(ディスク)を投げ合って闘うというシーンのみ。

あの明るく、夢みるファンタジー映画をつくってきたディズニーにしては、ずいぶんと暗く、オタッキーな映画をつくるな、というのが当時の印象だった。
それでも前作は、そうしたマイナス・イメージがあげつらわれて酷評されながらも、世界で初めてコンピューター内の闘いを描いた本格CG作品として、カルトムービーとして位置づけられた作品。

その汚名(?)返上とばかりに、ディズニーが総力をあげて(?)制作したのが本作で、スケールアップした映像はたしかに見応えはある。
前作におわされた負のイメージを全て払拭するかのように、ひたすら爽快に映像美を追求し、重厚なイベントムービーとして仕立てられたのが本作だ。

ストーリーは、失踪した父親ケビン・フリン(ジェフ・ブリッジス)がつくりあげたコンピューター世界に紛れ込んだ主人公の青年サム・フリン(ギャレット・ヘドランド)が、父親と共に悪の支配者クルー(ジェフ・ブリッジスの二役)と闘う、というもの。

そもそも前作から20年後という設定の“続編”が成立したのも、前作でも“ケビン・フリン”その人を演じたブリッジスの、役者としての耐用があったからこそ。一方で、あまりの意味のない「トロン」の登場など、前作の設定にやや引きずられた感も…。

それはさておき、すでに前作の『トロン』が忘却の彼方なので判然としないのだが、その世界観やライト・サイクルなどのメカニックなどで前作をオマージュしているというものの、ワタシにはむしろ、随所に綿々と続くSF映画やアニメ、ゲーム作品から影響もしくは模した場面がいくつも目についた。

例えば、サムが失踪した父親ケビンと再会する場面。父親が隠遁する白い部屋での食事シーンまるで、『2001年宇宙の旅』で宇宙の闇へ放り出されたボーマン船長が錯乱した末にたどり着いたラストシーンを彷彿させる。
ライトセーバーならぬ(フライング)ディスクでの対決は、『スター・ウォーズ』でルーカスによって持ち込まれた“武士道”であるし、もちろん父と子の確執と共闘もまた、ギリシャ神話を源とする『スター・ウォーズ』からの拝借だ。

そもそもこの物語は、幾多のSFファンタジーと同様に、“理想”を振りかざす子どもじみた男どもによる“国盗り物語”であり、世代交代を配した若者の成長憚であるのだが。

さらに、クルーの配下たちが砕け散るさまは、『ターミネター2』で液体酸素で凍結した新型が、旧型シュワルツェネガーの銃弾で粉々にされるシーンが思い起こされ、思わず苦笑してしまうのはワタシだけだろうか…。

同じ仮想世界を舞台にしていても、『マトリックス』のそれは仮想空間がプラスティックな人工造形社会で、“汚し”の入ったリアル世界との差異を上手く表現していたかと思うが、本作でのコンピューター・ワールドはどちらもマンガチックで、なんとも陳腐に見えてしまう。

『クレイジー・ハート』では渋い演技でダメ親父を演じていたブリッジスも本作ではどうも勝手が違ったらしく、懸命に「目」で演技をしていたが、その感情の揺れがうまく表現されていたとはいい難い。なにしろラストではそのオスカー名優が、ドラゴンボールになっちまうのだから…(笑)。

それでも、コンピューター世界の造形やメタリックは目を見るものがあるし、ライト・サイクルによるチェイスなども迫力十分だ。
全編3D ではなく、かなりの部分を2D映像で写してしているのも、観客を疲れさせない配慮なのか、かえって英断だと思う。

というわけで、いろいろ難癖つけらどころのあるツッコミどころ満載の映画だが、正月のイベントムービーとしては、それはそれで楽しめる一遍。

◆『トロン:レガシー』の参考レビュー一覧
超映画批評(前田有一氏)
映画通信シネマッシモ
セガール気分で逢いましょう
B級映画好きの憂鬱
映画.com(山口直樹氏)

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