【映画】悪人 ― 2011/01/23
『悪人』(2010年・監督:李相日)
昨年の国内映画賞を総なめにし、すでにあまたの高評・評論が記されている本作に今さらレビュー参戦するのも何だが、末席ながらワタシなりの見方を書いておきたい。
最初に結論から言えば、終盤の主人公・祐一(妻夫木聡)の突然の“豹変”がなければ、本作の印象はかなり違ったものになったと思う。そのシーンに至るまでの本作は、力作ではあれど凡庸さを感じさせ、あれほどの評価を得る作品とは、ワタシには思えなかったからだ。
“解”のない神聖悲劇…。
原作を読んでいないワタシには、行き場所も戻る場所もなくなった「悪人」の“献身”によって、この物語は見事に“救われた”と感じた。
冒頭からこのダークな殺人・逃亡劇は、淡々と…いうよりもモッソリと始まる。出会い系サイトで知り合った裕一をソデにした佳乃(満島ひかり=好演)は、好意を寄せる若い学生(岡田将生)の車に乗り込んだものの、山中で放り出される。そして翌日、何者かに殺害された佳乃が発見される…。
とりたててスリリングでもミステリアスでもないこの物語の導入が、にわかに集中力をもち始めるのは、娘を失った悲しみとやるせなさを渾身の演技で表現する怪優・柄本明の存在感と、裕一の祖母である木樹希林の、その土地の空気と暮らしが沁みだすような快演によってだ。
裕一に自分と同質の閉塞感と絶望感を感じて“恋人”となり、共に逃亡・疲弊していく演技で深津絵里はモントリオール国際映画祭の主演女優賞に輝いたが、それなら柄本と木樹にこそ助演賞を獲らせたかった。
それほどこの二人の存在感は際立っている。
もちろん犯人は裕一であり、自分を見捨てた母(余貴美子)の替わりに自分を育ててくれた祖母と祖父に献身的に尽くしてきた彼が、なにゆえ“悪人”となったのか?、その次第がやがて明らかにされるのだが、本作のテーマは“悪とは何か”といった単純なものではなく、人が“生きていく”ということはどういうことなのか? という根源的な問いを突きつけているように思える。
娘を失った父と母(宮崎美子)は、悲しみと行き場のない怒りを背負ったまま、それでも生きていかなければならない。
“悪人”の献身によって、“国道沿いのだけ”の人生に戻っていった光代(深津)もまた、再び閉塞感のなかを生き続けるしかないのだ…。
そして、マスコミに追われる祖母(樹木)が家に戻ったとき、それまで無言を通した彼女が深々と頭を下げる。そこに“悪人”を育てあげた自負と責任、その罪を共に背負いながら生きていく覚悟を見る。
セリフの少ない裕一の存在は、まるでキリスト教でいう“原罪”であるかのように、この物語に位置する。逃亡の果てに清水と光代が身を寄せる「灯台」もまた、“光を照らすもの”として暗喩されている。
ちなみに裕一が生れた育った港町は、長崎県平戸市でロケされたようだ。“隠れキリシタンの里”として知られるこの地が舞台に選ばれことも、けっして偶然ではないような気がする。
◆『悪人』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「現代社会を鋭く反映した秀作」--映画.com(垣井道弘氏)
「誰が本当の“悪人”なのか?」--LOVE Cinemas 調布
「やるせない物語に一条の光」--映画ジャッジ(福本次郎氏)
「究極の愛の表現形式は…」--佐藤秀の徒然幻視録
「重層構造となった善意と悪意」--超映画批評(前田有一氏)
「よどんだ澱(おり)のような暗い感動が残る」--映画通信シネマッシモ(渡まち子氏)
「李相日監督の演出と編集テクニックにやられてしまった」--映画の感想文日記
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昨年の国内映画賞を総なめにし、すでにあまたの高評・評論が記されている本作に今さらレビュー参戦するのも何だが、末席ながらワタシなりの見方を書いておきたい。
最初に結論から言えば、終盤の主人公・祐一(妻夫木聡)の突然の“豹変”がなければ、本作の印象はかなり違ったものになったと思う。そのシーンに至るまでの本作は、力作ではあれど凡庸さを感じさせ、あれほどの評価を得る作品とは、ワタシには思えなかったからだ。
“解”のない神聖悲劇…。
原作を読んでいないワタシには、行き場所も戻る場所もなくなった「悪人」の“献身”によって、この物語は見事に“救われた”と感じた。
冒頭からこのダークな殺人・逃亡劇は、淡々と…いうよりもモッソリと始まる。出会い系サイトで知り合った裕一をソデにした佳乃(満島ひかり=好演)は、好意を寄せる若い学生(岡田将生)の車に乗り込んだものの、山中で放り出される。そして翌日、何者かに殺害された佳乃が発見される…。
とりたててスリリングでもミステリアスでもないこの物語の導入が、にわかに集中力をもち始めるのは、娘を失った悲しみとやるせなさを渾身の演技で表現する怪優・柄本明の存在感と、裕一の祖母である木樹希林の、その土地の空気と暮らしが沁みだすような快演によってだ。
裕一に自分と同質の閉塞感と絶望感を感じて“恋人”となり、共に逃亡・疲弊していく演技で深津絵里はモントリオール国際映画祭の主演女優賞に輝いたが、それなら柄本と木樹にこそ助演賞を獲らせたかった。
それほどこの二人の存在感は際立っている。
もちろん犯人は裕一であり、自分を見捨てた母(余貴美子)の替わりに自分を育ててくれた祖母と祖父に献身的に尽くしてきた彼が、なにゆえ“悪人”となったのか?、その次第がやがて明らかにされるのだが、本作のテーマは“悪とは何か”といった単純なものではなく、人が“生きていく”ということはどういうことなのか? という根源的な問いを突きつけているように思える。
娘を失った父と母(宮崎美子)は、悲しみと行き場のない怒りを背負ったまま、それでも生きていかなければならない。
“悪人”の献身によって、“国道沿いのだけ”の人生に戻っていった光代(深津)もまた、再び閉塞感のなかを生き続けるしかないのだ…。
そして、マスコミに追われる祖母(樹木)が家に戻ったとき、それまで無言を通した彼女が深々と頭を下げる。そこに“悪人”を育てあげた自負と責任、その罪を共に背負いながら生きていく覚悟を見る。
セリフの少ない裕一の存在は、まるでキリスト教でいう“原罪”であるかのように、この物語に位置する。逃亡の果てに清水と光代が身を寄せる「灯台」もまた、“光を照らすもの”として暗喩されている。
ちなみに裕一が生れた育った港町は、長崎県平戸市でロケされたようだ。“隠れキリシタンの里”として知られるこの地が舞台に選ばれことも、けっして偶然ではないような気がする。
◆『悪人』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「現代社会を鋭く反映した秀作」--映画.com(垣井道弘氏)
「誰が本当の“悪人”なのか?」--LOVE Cinemas 調布
「やるせない物語に一条の光」--映画ジャッジ(福本次郎氏)
「究極の愛の表現形式は…」--佐藤秀の徒然幻視録
「重層構造となった善意と悪意」--超映画批評(前田有一氏)
「よどんだ澱(おり)のような暗い感動が残る」--映画通信シネマッシモ(渡まち子氏)
「李相日監督の演出と編集テクニックにやられてしまった」--映画の感想文日記
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