【映画】ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム2011/01/20

『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』
『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』(2005年・監督:マーティン・スコセッシ)

『ラスト・ワルツ』『シャイン・ア・ライト』などの名作群によって、音楽ドキュメンタリーを撮らせたら当代ピカ一とされるオスカー監督による、ボブ・ディランのドキュメンタリー。
3時間半という長尺フィルムに、ディランの軌跡、彼を取り巻いた人びとの様々な証言、そして時代の空気を映し込んだライブ映像をたっぷりと盛り込み、稀代のアーティストであるディランとは一体何者なのか? を解き明かそうとする試み。

恥ずかしながらワタシもまたディランズ・チルドレンの遥か端くれの端くれで、高校時代には(何時のことだ!)文化祭で、“ディラン研究”の展示を行ったこっ恥ずかしい経験が今さらながら思い起こされる。
当時ワタシは東北の小都市に住んでいたのだが、何しろ書店で『ディラン風を歌う』 『ボブ・ディラン全詩集』 を注文してから手にするまで3~4週間もかかった時代だ(だから何時の時代だ!)。ようやく手にしたディラン本は、どっしりと重く、見るも読むも新鮮で、たまつすがめつその詩/音楽世界に浸ったものだ…。

というわけで、ディラン・ストーリーははるか昔に“活字”で触れていたものの、こうして本人の語りも含めた、当時をしるす膨大な証言と映像の開示によって、ワタシたちはディランと共に“あの時代”を旅し、彼の成長と変遷を目の当たりにする気分を味わうことができる。

まず浅学なワタシを驚かせるのは、ディランが子ども時代に親しんだ多彩なミュージシャンたちだ。カントリー/ブルーグラスのハンク・ウィリアムズ、ビル・モンロー、ブルースのバディ・ガイといった有名所はもちろんのこと、ワタシも初めて知るシンガーたちが次々に登場する。

カンツォーネばりに歌い上げるジョニー・レイ、鼻にかかった声が印象的なウェブ・ピアーズ、ダルシマー(?)を膝に抱いて華麗に演奏しながら美声を響かせるジョン・ジェイコブ・ナイルズ…若き日のリアム・クランシーがこんなに才気溢れるシンガーだったとは! 周知のジーン・ヴィンセントも、ライブ映像を見せられ、改めてそのパンキッシュなスタイルにシビれた(特にベーシスト)。

そうした豊かな音楽体験を経て、ディランはやがて自ら音楽を発し始めるのだが、「エレキをフェーク・ギターにかえてすぐに人前に歌った」との証言から、ディランが根っからのロックンローラーだったことが確認できる。

ミネソタの片田舎から大学を中退してニューヨークへやって来た若きディランは、やがてグリニッジ・ヴィレッジで歌いはじめる。この当時の「ヴィレッジ」の自由で闊達な雰囲気を伝える数々の証言や映像が素晴らしい。
「彼の歌は並みだった。最悪でも最高でもなく、レパートリーも人と同じだった」(音楽評論家ポール・ネルソン)というディランだが、「歌を覚えるのは早かった。一度か二度聞けば覚えた」というその才で、「スポンジのように学んでいった」。

やがて、ウッディ・ガスリーから「歌は生き方を学べるんだ」ということを初めて知り、「彼の古いと言われたが、僕にはそう聞こえなかった。まさに“今”を歌っていると思えた」というディランの“快進撃”が始まる。

「強い印象を与えたかった。(ヴィレッジには)うまい連中はいたが、人を魅了できない。人の頭の中に入っていかないんだ。人を釘付けにしなきゃ」と嘯くディランの言葉どおり、「ボブは皆と違っていた。強い意志ががあり、それが伝わるから皆が注目した」(ブルース・ラングホーン)という存在になっていく。

かつてのディランの恋人で、『フリーホイーリン』 でディランと肩をすり寄せ合って歩く姿が印象的だったスージー・ロトロは「ボブはウッディ(・ガスリー)のチャネラーだった」と評し、「ミネアポリス時代とは別人となった」(トニー・グローヴァー)ディラン自身も、「(ブルースシンガーのように)悪魔と大きな取り引きをして、一夜にして変わったんだ」と、自信たっぷりに告白する。

そして、それらの証言を裏づけるかのように、素晴らしいパフォーマンスが惜しげもなく次から次へと写し出される。まさに宝の山。
独特のリズムに乗せた歌が、ディランの口から発せられると、その詩はまるで宙を舞うかのように、世界へと拡がっていく。
まさに、風に吹かれて…。

あとはもう、ディランの“本質”を見事に表現した至極のような賛辞と発言のオンパレードだ。
「風に吹かれて」の歌詞「どれだけ歩いたら“人間”になれるのか」と諳じながら、黒人ゴスペルシンガーのメルヴィス・ステイプルが証言する。
「なぜこれが書けるのか? 私の父の経験そのものよ。人間扱いされなっかった父の。ボブは白人なのになぜ書けるのか不思議だった。彼は直感で歌を作る。霊感でもって。だから人の心に直接響くのよ」。
また、イジー・ヤング(フォークロアセンター主宰者)の言う 「いい歌を作って、現在の考えをトラディショナルな曲にのせる。だから今作ったのに200年前の輝きを持つ」という指摘も、多くの人が共感するはずだ。

そして、ディランの本質を最もついているのが、次の言葉ではないだろうか…。
「アイルランド神話の変身男のようだった。声を変え、姿を変えるのだ。一定のかたちに押し込められる必要はない。ボブは何か大きな力を感じ取り、皆が言いたいことを歌って、表現した」(リアム・クランシー)

じつは、本作は冒頭からして、1966年のイギリス公演の映像が何回となく挿入される。ディランがそれまでのフォーク・スタイルからロック・スタイルへと変える転換点となったライブだ。
ここで後のザ・バンドとなったホークスの面々を従えたディランは、イギリスの聴衆から「裏切り者!」「帰れ!」と罵倒される。当時は、ロックは商業的な音楽で、ディランのフォークからロックへの“転身”は多くのファンの反感をかっていた。

「エレクトロニックを使ったからといって新しいとは限らない。だって、カントリーだって使っているだろ?」と言うディラン。
「ボブは自分のやりたいことをやりたいようにやる。たえず何を変えようとする。あんなに変えられる人は褒めてあげていいわ…」
やはりディランのかつての恋人だったジョーン・バエズは、半ば呆れながらも嬉しそうにこう話すのだ。

「僕は今のことしか興味がない。過去のことはどうでもいい。今でもそう思っている」…。 まさにこの“言葉”にディランという人がいる。
昨年(2010年)のジャパンツアーによって、ワタシもまたそのディランの“限りなき前進”を目撃した一人だ。そこには、御年68歳の激烈なロッキン・ローラーが歌い、吼えていた。
そして、スコセッシもまた、本作に最も刻印したかったのが、この“限りなき前進”だったのだと思う。

『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』の参考レビュー一覧
(*タイトル文責は森口)
「とびっきりの『青春映画』で、アメリカの現代史」--海から始まる!?
「稀代のアーティストの魅力と時代性が十二分に伝わってくる」--真紅のthinkingdays
「観客の興奮とぞくぞくするような感覚が生々しく映し出され興奮」--映画の感想文日記
「音楽のみならず、全てが面白い」--CINEMA80(井上陽水&みうらじゅん トークショー)
「映像と顔の表情と訳詞で、背中がぞくぞく」--温故知新~温新知故?
「理想のために嘘もつくし演技もする変化自在な姿」--藍空放浪記

↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

【映画】十三人の刺客2011/01/17

『十三人の刺客』
『十三人の刺客』(2010年・監督:三池崇)

1963年に制作された工藤栄一監督による同名作(ワタシは未見)のリメイク
冒頭から何だが、評価の高い本作が海外の主要な映画賞を逃したのは、やはり『七人の侍』をはじめ、『乱』『たそがれ清兵衛』といった海外で公開された名作時代劇からの既視感が要因だったのではないか、とワタシなどは思ってしまう。

将軍の弟という地位に乗じ、暴君の限り尽くす明石藩主(稲垣吾郎)を暗殺するために、集められた13人の刺客。役所公司をリーダーとする13人の暗殺部隊は、宿場を城砦と化し、総勢200を超える明石藩の武士たちを誘い込む。やがて宿場に到着した藩主たちは、刺客たちが施したさまざまな“罠”に翻弄される…。

すでに、さまざなレビューによって報じられている終盤50分にわたる死闘が凄まじい。三池監督はこの殺戮シーンを描きたいがために、本作を撮ったのではないかと思わせるほど、物語の細部はこのクライマックスに収斂されていく。

しかしながら、冒頭にも触れたようにここに至るまでの“物語”は、まるで『七人の侍』だ。
“義憤”に駆られた主人公・島田新左衛門(役所)が、命をなげうつ仲間を集う経緯からしてかの物語を踏襲し、島田の男気に惚れての者(松方弘樹)、剣に命を賭す者(伊原剛志)、自分の居(死に)場所を求める者(山田孝之)、金を要求する者(古田新太)など、多士済々が次々と紹介される。
その流れはよどみなく、そこがまず前半の見どころなのだが、旅の途中で、唯一武士ではない最後の刺客(伊勢谷友介)を“拾う”あたりもやはりデジャヴ(既視感)に襲われてしまう…。

やがて腹を決めた島田たちは“獲物”を誘い込む作戦をとり、宿屋を全て買い取り、かつて「勘兵衛」がそうしたように宿場全体を“城砦”と化してゆく。その作戦過程と、その仕掛けが見事に“決まる”死闘の序盤は、ヒーローものにお約束のカタルシスに溢れる。

宿場に着いた藩主たちを、覆っていたスモークが風に流れ、やがて露となった城砦に立つ刺客たちが迎える冒頭から、退路を奪う橋の爆破、宿屋の崩壊に至るまで、三池組の強者たちの喜色満面が目に浮かぶような“仕事”ぶり。

そして、これもまたお約束のように死闘の後半は陰惨を極め、刺客たちは一人二人と倒れ、最後に残るのは…というストーリーなのだがその生き残り組こそ『七人~』とは違うものの、そのテイストはやはりのかの作のそれから逃れられない。

サバイバーとなった剣士が茫然自失となって累々たる屍を越え、瓦解した宿場を彷徨するさまはまさにやがて崩壊していく武家社会の虚しさを表現してやまない。が、ワタシはこのシーンがやや長回しすぎると感じたのと、ワタシと同様に外国の観客たちもここで『乱』を思い出してしまったのではないだろうか。

ワタシなどは、ここで飄々たる宿屋主人を快演した岸部一徳や、屈託なく客に身を売る村の娘たちを登場させれば、より武士の哀れさとそこに組しない庶民のしたたかさが対比されたのに、と思う。
おっと、そこまでやったら「勝ったのは農民だ」と「勘兵衛」に呟かせた『七人~』と同じになっちまうか…。

それにしても、いくら藩主が暴君でも、それに仕える武士たちが「みな殺し」になるというのも、武士社会といえどあまりに理不尽ではないか。死んでいった武士たちにも、親・兄弟、家族がいる。そこがまた武士社会を“サラリーマン(企業)社会”にダブらせた『たそがれ清兵衛』に重なる。
刺客たちもまた、哀れな業人なのだ。それゆえ、こうしたラストにならざるをえないのだろう…。

最後は、“刺客”の一人を帰りを待つ芸妓(吹石一恵)の喜色に満ちたアップで終わるが、これもまた『たそがれ~』での宮沢えりを彷彿させる。が、その清々しさによって、グロテスクも血塗られた本作が、ようやく安念を得たように幕を閉じることができる。

暗転のスクリーンに写し出された字幕には、藩主は「病死」とされ、やがて「明治」という新しい時代が、武士による封建時代を終わらせたことが告げられるのだ。

『十三人の刺客』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「三池流・生の肯定の怒号が聞こえる」--映画通信シネマッシモ(渡まち子氏)
「死闘の有様をヴィヴィッドに描き出す」--映画的・絵画的・音楽的
「殺しあい戦うことに根底から疑問をつきつけたか?」--粉川哲夫の「シネマノート」
「『悪』の造形によって仄かな希望を抱かせる事件に」--映画.com(清水節氏)
「『今の映画』に仕立てなおされていることに感心」--映画瓦版
「ダメな点をあげればきりが、全体に好感の持てる貴重な映画」--映画の感想文日記
「狂気を生み育てたものは『武家社会』そのもの」--シンジの“ほにゃらら”賛歌
「熱血な男たちによる、血沸き肉踊るチャンバラ大活劇」--ノラネコの呑んで観るシネマ
「時代劇の様式美にこだわらぬ魅力的な一本」--超映画批評(前田有一氏)
「文句はある。でも面白い!」--LOVE Cinemas 調布
「水準以上の作品ではあが、『今』の時代劇」--隊長日誌
「三池監督らしからぬ統制された演出で、大御所の風格」--アロハ坊主の日がな一日

↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

【映画】シリアの花嫁2011/01/13

『シリアの花嫁』
『シリアの花嫁』(2004年・監督:エラン・リクリス)
2004年モントリオール世界映画祭のグランプリ作品ということだが、これが存外面白かった。

製作がイスラエル・フランス・ドイツで、アラビア語・ヘブライ語・英語・ロシア語・フランス語が飛び交うというまさにグローバルな映画。
監督はワタシも知らない人だが、深刻になテーマをブラックなユーモアをうまくまぶして、じつにエンターテイメントな作品に仕立てている。

イスラエルの占領下中東・ゴラン高原のとある村。その複雑な国際情勢によって“無国籍者”になっている花嫁モナ(クララ・フーリ)が嫁ぐ日だというのに、花嫁も姉(ヒアム・アッバス)もなぜか悲しげな表情をしている。その理由は、祖国のシリア側への“境界線”を越えたら、二度と家族のもとへは帰れないからだ。
そこへ信仰に背いてロシア人と結婚した長男家族や、“境界線”で手続きを担当する女性スタッフの元恋人だったいうプレイボーイの次男もやって来るのだが、トラブル続きで花嫁は“境界線”をなかなか越えられない…。

この複雑な政治・国際情勢に翻弄されるながら、さらに親兄弟・親族との確執など揺れる家族の姿が描かれるのだが、ここでうまく配されたのが、花嫁を撮影するカメラマンの存在だ。
このカメラマンによる“外からの視点”が入ることによって、この愚かしくも複雑な物語がユーモアをもって解説される。それまでまったく笑顔を魅せなかった花嫁が、この道化的な役割を担ったカメラマンとの短い会話で、初めて笑い顔をみせるのだ。

さらに、長男のロシア人妻とその息子も然り。“部外者”として的確な役割を得て、二人の存在もまたこの物語にふくらみを与えている。

そして、二進も三進もいかなくなったこの悲喜劇に幕をひいたのは、誰あろう花嫁の敢然たる行動によってだった。そのキリリとした花嫁の表情以上に、それを見送る姉の、悲痛な思いに打ちひしがれながも妹を祝福することを決意した表情が、じつに素晴らしい。
その眼差しは喜びに満ちたものではなく、苦難なる未来をしっかりと見すえている。

『扉をたたく人』でも圧倒的な存在感を示していた彼女が、ここでもまるで彼女の映画であるかのようなじつに印象深い演技を魅せて、この秀作は晴れやかに終わる。

『シリアの花嫁』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「政治的な要素と共に、家族の普遍的な愛を描く物語」--映画通信シネマッシモ
「実情を踏まえて、民族と国家のあり方を問う」--映画ジャッジ!(福本次郎氏)
「愛、団結、勇気に彩られたドラマ」--映画ジャッジ!(佐々木貴之氏)
「『シリアの花嫁』の見方」--パレスチナ情報センター(早尾貴紀氏)
「〈観ること〉が、今、〈映画〉によって問われている」--図書新聞(小野沢稔彦氏)
「悲壮感を前面に出さないユニークな描き方」--LOVE Cinemas 調布
「境遇を越えて運命を選択する、自立と自決の物語」-シネマな時間に考察を。-
「複雑な政治的背景も手際よく説明する語り口も、うまい」--分太郎の映画日記

↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

【映画】海外特派員2011/01/07

『海外特派員』
『海外特派員』(1940年・監督:アルフレッド・ヒッチコック)

ヒッチコックは1925年の『快楽の園』から遺作となる76年の『ファミリー・プロット』まで、57本の作品を撮っているが、ワタシが観ているのは主に50~60年代にかけての名作群で、ほかの時期の作品の多くを見逃している。

本作は、イギリスで活躍したヒッチコックがアメリカに渡って、いきなりオスカーに輝いた『レベッカ』(1940年)に続いて制作された作品で、どうやら彼の諸作の中ではB級というレッテルが貼られていたようだ。
それは主役の二人が、他のヒッチコック作品を彩った名優カップルではないことも要因にあるようだが、ところがどうして、ワタシの眼には本作もまたヒッチコック印がきっちりと刻まれた逸品に映る。

物語は、戦争勃発の危機が迫るヨーロッパへ特派員として派遣された新聞記者(ジョエル・マクリー)が、戦争回避のカギを握る老政治家の“暗殺”現場に立ち会い、その陰謀に巻き込まれていくというもの。

冒頭の、摩天楼の俯瞰ショットからビルの窓へとカメラが侵入し、新聞社内を照らし出すという、後の『ウエストサイド・ストーリー』を思わせる洒落た導入からして、まずニヤリとさせされる。
ついで、“特派員”を探す社長が、うってつけの人材を見つけてほくそ笑むシーンなど、もう掴みはOKという感じで、一気に物語に引き込まれる。
平和運動のリーダーの娘(ラレイン・デイ)と恋仲になり、“暗殺”の真相を追ってのカーチェス、風車小屋での息をもつかせぬサスペンス・シーンなど、映画の面白さをすべて詰め込んだ教科書のような展開。

クライマックスは、ドイツ軍の攻撃を受けた旅客機が海に突っ込むシーンだが、機内のパニックから海水が流れ込むまでを、なんとヒッチコックはワンショットで撮り切るというマジックを魅せる。
このシーンをどうやって撮ったのかは、じつはトリュフォーとの『映画術』 の中で詳しく語っているので、興味ある方はぜひ参照されたい。

ほかにもミステリアスな風車のアイデアや、雨傘の中を犯人が駆け抜けていくシーンなど見どころ満載だが、いずれしても幕の内弁当のよう過不足のない仕上がり。
公開から70年も経て、こうした良作を手軽に観ることができるワタシたち映画ファンは、よき時代を生きていることを実感する。

◆『海外特派員』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
映画フェイス 「次から次へとアイデアを詰め込んでいて感心」
瀧野川日録 「大胆な演出であっと言わせるヒッチコック」
懐かしの映画館近松座 「サスペンス映画のエッセンスが詰まった映画」
川越名画座 「レベルの高い作品だがヒッチコック映画として観ると…」
牛のしっぽ 「細部まで、入念に積み上げられた映画」
ラジオ・ヒックコック 「ヒッチコックのルーツを知る事が出来て楽しめる映画」
良い映画を褒める会。「作り方はまさにハリウッドの作品」
POP MASTER 「スピーディーな展開はまさしくアメリカ的。」

↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

【映画】トロン:レガシー2011/01/04

『トロン:レガシー』
『トロン:レガシー』(2010年・監督:ジョセフ・コシンスキー)

前作『トロン』(1982年)から28年。3Dによる続編として制作された話題の本作を、正月ムービーとして鑑賞。

ワタシも前作の『トロン』は観ているが、もはや記憶に残っているのは、ダーク(薄暗い)な映像に蛍光灯が縫い込まれたような衣服をまとった主人公らが、『ドッグヴィル』の舞台を3Dに置き換えたような薄ぼんやりと光る幾何学線に彩られた世界で、これまた薄ぼんやりと光るフリスビー(ディスク)を投げ合って闘うというシーンのみ。

あの明るく、夢みるファンタジー映画をつくってきたディズニーにしては、ずいぶんと暗く、オタッキーな映画をつくるな、というのが当時の印象だった。
それでも前作は、そうしたマイナス・イメージがあげつらわれて酷評されながらも、世界で初めてコンピューター内の闘いを描いた本格CG作品として、カルトムービーとして位置づけられた作品。

その汚名(?)返上とばかりに、ディズニーが総力をあげて(?)制作したのが本作で、スケールアップした映像はたしかに見応えはある。
前作におわされた負のイメージを全て払拭するかのように、ひたすら爽快に映像美を追求し、重厚なイベントムービーとして仕立てられたのが本作だ。

ストーリーは、失踪した父親ケビン・フリン(ジェフ・ブリッジス)がつくりあげたコンピューター世界に紛れ込んだ主人公の青年サム・フリン(ギャレット・ヘドランド)が、父親と共に悪の支配者クルー(ジェフ・ブリッジスの二役)と闘う、というもの。

そもそも前作から20年後という設定の“続編”が成立したのも、前作でも“ケビン・フリン”その人を演じたブリッジスの、役者としての耐用があったからこそ。一方で、あまりの意味のない「トロン」の登場など、前作の設定にやや引きずられた感も…。

それはさておき、すでに前作の『トロン』が忘却の彼方なので判然としないのだが、その世界観やライト・サイクルなどのメカニックなどで前作をオマージュしているというものの、ワタシにはむしろ、随所に綿々と続くSF映画やアニメ、ゲーム作品から影響もしくは模した場面がいくつも目についた。

例えば、サムが失踪した父親ケビンと再会する場面。父親が隠遁する白い部屋での食事シーンまるで、『2001年宇宙の旅』で宇宙の闇へ放り出されたボーマン船長が錯乱した末にたどり着いたラストシーンを彷彿させる。
ライトセーバーならぬ(フライング)ディスクでの対決は、『スター・ウォーズ』でルーカスによって持ち込まれた“武士道”であるし、もちろん父と子の確執と共闘もまた、ギリシャ神話を源とする『スター・ウォーズ』からの拝借だ。

そもそもこの物語は、幾多のSFファンタジーと同様に、“理想”を振りかざす子どもじみた男どもによる“国盗り物語”であり、世代交代を配した若者の成長憚であるのだが。

さらに、クルーの配下たちが砕け散るさまは、『ターミネター2』で液体酸素で凍結した新型が、旧型シュワルツェネガーの銃弾で粉々にされるシーンが思い起こされ、思わず苦笑してしまうのはワタシだけだろうか…。

同じ仮想世界を舞台にしていても、『マトリックス』のそれは仮想空間がプラスティックな人工造形社会で、“汚し”の入ったリアル世界との差異を上手く表現していたかと思うが、本作でのコンピューター・ワールドはどちらもマンガチックで、なんとも陳腐に見えてしまう。

『クレイジー・ハート』では渋い演技でダメ親父を演じていたブリッジスも本作ではどうも勝手が違ったらしく、懸命に「目」で演技をしていたが、その感情の揺れがうまく表現されていたとはいい難い。なにしろラストではそのオスカー名優が、ドラゴンボールになっちまうのだから…(笑)。

それでも、コンピューター世界の造形やメタリックは目を見るものがあるし、ライト・サイクルによるチェイスなども迫力十分だ。
全編3D ではなく、かなりの部分を2D映像で写してしているのも、観客を疲れさせない配慮なのか、かえって英断だと思う。

というわけで、いろいろ難癖つけらどころのあるツッコミどころ満載の映画だが、正月のイベントムービーとしては、それはそれで楽しめる一遍。

◆『トロン:レガシー』の参考レビュー一覧
超映画批評(前田有一氏)
映画通信シネマッシモ
セガール気分で逢いましょう
B級映画好きの憂鬱
映画.com(山口直樹氏)

↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

【映画】荷車の歌2010/12/30

『荷車の歌』
『荷車の歌』(1959年・監督:山本薩夫)

山本薩夫監督の名作群から、その代表作を以下に挙げてみる。

組織暴力に抵抗する人びとを描いた『暴力の街』(1950年)、戦争の残酷さを告発した『真空地帯』(1952年)、医学会にメスを入れた『白い巨塔』(1966年)、壮大なドラマとなった『戦争と人間(1970~73年)、金融界の内幕を暴いた『華麗なる一族』(1974年)、構造汚職に切り込んだ『金環蝕』(1975年)、政財界の内幕を描く『不毛地帯』(1976年)…。

どうだろう、その骨太な作風が目に浮かんでくるのではないだろうか。
その山本監督の作風が遺憾なく発揮されているのが本作だ。
冒頭からしてイタリアのネオ・リアリズム運動の影響を受けた、役者の汗が飛び散るかのような迫真の映像で、この物語を繙(ひもとき)始める。

時は明治時代。広島県の山村の娘セキ(望月優子)は、郵便配達夫の茂市(三國連太郎)と夫婦(めおと)となるが、すぐに「荷車引き」となって夫と茂市の老いた母(岸輝子)を支える。やがて2男、2女に恵まれるが、姑の“いびり”や夫の浮気に苦しめられ、さらに戦争や時代の流れに翻弄され続ける…。

全国の農村婦人のカンパによって制作されたというのもさもありなん。姑との関係をはじめ、これでもかというくらいに農家の嫁の苦難が“リアル”に描かれる。全国で上映運動されたというが、おそらく同時代の農村女性に大きな共感を呼んだであろうことは想像に難くない。

少々意地の悪い母親を演(や)らせたらピカ一の望月は、ここでは徹底して耐え忍ぶ女を演じ、時に若き日のリノ・ヴァンチュラを彷彿させる三國は、ひたすら情けない男になり切って20~70代までを演じ切る。

もちろん本作を傑作としているのは、そうした物語やディテールの“リアル”さだけではない。背景に大きな自然をたたえたその画面に、明治・大正・昭和へと激流する時代に抗う、ちっぽけなその人間の存在を置くことで、“映画的なるもの”への深みを照らし出す。

なんといってもラストの映像が素晴らしい。
孫たちに囲まれ、人生の終盤となってようやく安寧を手にいれたセキ。 そこへ、(ネタバレになるが)戦争で死んだはずの息子が帰還する。…息子に駆け寄るセキ。
それを山本監督とはなんと“引き”で撮ってみせた。
そこに、セキの表情は写らない。しかし、田舎道で結ばれる母子の姿をとらえたロングショットからは、セキの歓喜がみるみると溢れだしていく…。

これこそが、フィルム撮影によるスクリーン上映を前提とする作品=映画における“マジック”だとワタシは思うのだ。

◆『荷車の歌』の参照レビュー一覧
芸の不思議、人の不思議
Augustrait
アスカ・スタジオ
字幕翻訳者の戯言

↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

【映画】借りぐらしのアリエッティ2010/12/27

『借りぐらしのアリエッティ』
『借りぐらしのアリエッティ』(2010年・監督:米林宏昌)

英児童文学の『床下の小人たち』 を、舞台を50年代のイギリスから現代の日本に移して、現代のお伽話に仕立てた作品。宮崎駿企画・脚本のジブリ映画として、本年夏に“お約束”の大ヒットを記録したことは記憶に新しい。

なにしろ茅葺きの日本の古い民家が舞台なのに、内部はとても洒落た洋館。しかも、小人の名前は「アリエッティ」なのだがら、これはもう提示されたファンタジー世界に浸るしかない。
例によって精巧・緻密に描かれたジブリ・アニメの世界は、まるでポップアップ絵本の如く、きらびやかに拡がる。

しかしながら、『ガリバー旅行記』を持ち出すまでもなく、えてして“寓話”の多くは、毒を孕んだ物語であることが少なくない。
本作もその例外ではなく、現代社会に蔓延するさまざまな問題を暗喩・照射した作品であることは間違いない。なにしろ「小人たち」の存在からして、ヒトに寄生して生きる「借りぐらし」の種族なのだ。

その田舎の民家に、少年が祖母と共にやってくることから物語は始まるのだが、いきなり冒頭でアリエッティと遭遇し、その後小人一家の生活ぶりが丹念に描かれるという展開に、まず驚いた。

『となりのトトロ』では、越してきた家族たちとトトロ一家との“出会い”を、謎と期待感をたっぷりと含ませながら描いた宮崎監督だが、ここではやけにあっさりとそのカタルシスを放棄する。
そのかわり、小人一家の生活を丹念になぞることで、ワタシたちもまた「小人」となって、ヒト社会を覗き見ることができる。

物語はアリエッティと少年との接触によって、ヒトにその存在を知られてはならない小人一家のエクソダスへと転がっていくのだが、そこには当然の如くアリエッティと少年の“成長物語”がバックボーンとして強く描かれる。

おそらくこれは、本作に対する多くの批評・評論で指摘されていることだと思うが、ジブリ映画を体験してきたワタシたちはそこに、いくつもの名作ジブリ群の幻影を見てしまう。

アリエッティと少年との“共闘”は『天空の城ラピュタ』であるし、少年の肩に乗った姿は、まるで「シータ」ラピュタ・ロボットだ。
それだけでなく、気丈ながら傷つきやすいアリエティの“成長”は、『魔女の宅急便』の「キキ」のそれだし、ひらりひらりと見事な身体能力の高さでヒト社会を行き来するそれは、いやがうえにも「ナウシカ」を想起させる。アリエッティ膝の上で丸くなる団子虫は、王蟲(オーム)の幼虫のパロディかと思えるほど。

ほかにも、アリエッティと少年を交信する猫は、「ネコバス」を彷彿させ、二人の別れのシーンは『耳をすませば』の舞台を思わせる。
さらに、野性的な小人族の「スピラー」は男女の違いはあれど『もののけ姫』の「サン」か。そもそも、ヒトと小さき者という相いれない存在が、『もののけ姫』の設定と相似してやまない。

しかし、本作の登場人物たちは、ナウシカのように飛翔はしないし、パズーやシータのようなめくるめく冒険には旅立たない。
冒頭で記したように、ここでワタシたちが読む物語は、美しくもホロ苦い成熟したオトナの絵本だ。

宮崎監督が1979年に『ルパン三世 カリオストロの城』でアニメ・ファンを狂喜させてから30年。あの血沸き肉踊り、やがて深淵なる思いを抱く、神話的な宮崎ジブリ映画をもうワタシたちは、享受することができないだろうか…。

宮崎スピリット溢れる、そのチルドレンの本作を堪能した後さえも、その寂しさは拭いきれずにいる。

◆『借りぐらしのアリエッティ』の参考レビュー一覧
超映画批評(前田有一氏)
映画的・絵画的・音楽的
未完の映画評
映画.com(清水節氏)
映画通信シネマッシモ
内田樹の研究室
アニメ!アニメ!(氷川竜介氏)
みたいもん!
masalaの辛口映画館
LOVE Cinemas 調布
映画ジャッジ!(福本次郎氏)
【徒然なるままに・・・】
リアルライブ(コダイユキエ氏)
CINRA.NET(小泉凡氏インタビュー)

【映画】マイケル・ジャクソン THIS IS IT2010/12/25

『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』
遅まきながら、『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』(2009年・監督:ケニー・オルテガ)をテレビ放映で鑑賞。

本作をひとことで言うならば、“マイケル・ジャクソンのつくり方”、メイキング・オブ・MJステージを描いたドキュメンタリーといえる。

というのも、本作でのステージ・シーンはすべてリハーサル映像・音声であって、“本番”の記録はジャクソン5時代などの“過去”のものしか使われていない。
つまり天才パーフォーマーであるマイケル・ジャクソンが、あまたのスタッフを率いて、どのようにそのステージ・パフォーマンスをつくり上げていくのか、それを克明に繙(ひもと)いた映画なのだ。

冒頭、マイケルの急逝によって幻となったロンドン公演「THIS IS IT」に向けて、ダンサーたちのオーディション風景が現れる。そこからカメラは一気にリハーサル風景へとなだれ込み、あとはひたすらマイケルの一挙手一投足が映し出される。
例えば、オープニングの「Wanna Be Startin' Somethin' 」(だったと思うが…)では、4種の衣装をまとったマイケルが歌い、踊る様が繋ぎ合わされている。つまり、この曲の衣装だけで、4パターンの衣装案があったということであり、それだけ細かく演出案を重ねていることがわかる。

一般的に、アーティストがコンサート・ステージにどの程度関与しているのかワタシには比較する見聞がないのだが、本作を観るといかにマイケルがステージ全般の演出・構成・音楽・映像すべてに関わっているかがわかる。

先のダンサー・オーディションの審査にしても然り。バンド・メンバーに演奏の強弱を細かく指示する様はまさにコンダクターだし、ステージの立ち位置やきっかけまでにまでアイデアを提供する。
しかも、アイデアを出した後に、すぐさま自身が魅力的な振り付けをして踊ってみせるのだから、現場ではいかにも説得力があるやに違いない。
コンサート中に流される映像作品のチェックでも、監督と一緒になって嬉々として役者の動きに反応する。
その姿は、キング・オブ・ポップスというよりもキング・オブ・パーフォーマー…。
最強の現場監督であり、演出家であり、そしてパーフォーマー。ここでのマイケルは、それらすべてを一人でやってのけているかのように見える。

終盤の「Billie Jean 」では、マイケルの素晴らしい即興ダンスにスタッフたちが歓喜する姿が映し出される。その高揚感に溢れる現場に、ワタシたちもそこに居合わせたかのような錯覚に陥り、この稀代のパーフォーマーの早逝に改めて慚愧(ざんき)の念を抱く。

巨大なステージ、華麗ですご腕のバック・バンド、壮観たるダンサーたち、「火のチェイス」に「3Dスリラー」映像と、この「THIS IS IT」コンサートに用意された演出やスタッフ陣を絵巻のように見せられて、改めてこの豪華なエンターテイメント・ショーの壮大さがわかるというもの。

1992年の東京公演(Dangerous World Tour)に足を運んだものの、じつはほとんどその印象が残っていないワタシだが、たしかに本作は、この「THIS IS IT」は観てみたいと思わせるオーラを感じさせる“未完の予告編”となっている。

さらに本作の成功によって、この“ステージのメイキング”という手法は、今後の音楽ソフトの鉱脈になるのではないかという感すら抱かせる。
すでに、過去の“名盤のつくり方”を振り返ったドキュメンタリーDVD がシリーズ化されているが、同じように“伝説のステージ”のメイキング映像を編み直すことで、アーティストやその音楽の魅力にさらに光を当てることができるのではないだろうか?

もちろんその前提として、リハーサル映像の記録と、マイケルに比するアーティスト・パワーが求められることは言うまでもないが…。

◆『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』の参考レビュー一覧
超映画批評(前田有一氏)
映画.com(清水節氏)
映画のメモ帳+α
映画通信シネマッシモ(渡まち子氏)
映画ジャッジ!(福本次郎氏)
LOVE Cinemas 調布
戦略財務の社長・実島誠のブログ
映画瓦版
堀江貴文オフィシャルブログ

↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ
マイケル・ジャクソン THIS IS IT(1枚組通常盤)マイケル・ジャクソン THIS IS IT(1枚組通常盤)
マイケル・ジャクソン ジャクソンズ

SMJ 2009-10-28
売り上げランキング : 230

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

【映画】アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち2010/12/15

『アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち』
『アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち』(2008年・監督:ミゲル・コアン)

ハイライトは、やはりラスト30分のコンサート・シーンだろう。
老マエストロたちの超絶、名演、名唱と呼べる白熱の演奏・歌が、めくるめく繰り広げられるステージ。アルゼンチンタンゴの黄金時代を築いたスターたちによる“夢の競演”。
これぞ本作の真骨頂といえる。
しかしながら、そこに至るまでの本作にはいくつかの不満がある。

タンゴと言えば、ワタシもいくつかの盤は耳にしてきたかと思うが、たぶんに住宅事情もあり、わが家のCD棚に残ったのは、わずかに洒脱溢れる歴史的名歌手・カルロス・ガルデルと、タンゴの革新者アストル・ピアソラのそれのみ。
本作であまた登場する“名匠”たちにしても、ワタシが識るのはファン・ダリエンソ、オスバルド・プグリエーセくらい。したがって、彼、彼女らがいかにタンゴ界に功績を残し、どのような位置にいたのか、スクリーン上の情報のみではワタシには見当もつかない。

第一の不満は、そうした登場人物たちの説明不足にある。
アルゼンチン国民、もしくはタンゴ・ファンならば垂涎の名匠オールスターズなのかもしれないが、そのあたりの紹介がされないのは“映画”としてあまりに不親切ではあるまいか。

さらに、本作はコンサート・フィルムではなく、音楽ドキュメンタリーのはずだ。
かつてのスターたちがタンゴ黄金時代を郷愁するだけでなく、それがどのように生まれ、どのように社会や文化に影響を与えるなどしたか、歴史的・社会的な考察を交えた、もう少し突っ込んだ“つくり”が出来なかったものか。

たとえば、コンサートの幕開けで「西欧音楽の影響を受けなかった魂の音楽」という紹介MCが入るが、ピアノの奏法やベルカント唱法など明らかにクラシックの影響を受けているし、ワタシの耳にはジャズやブラジル音楽、ユパンキなどのフォルクローレ音楽、さらにはフラメンコなどからの影響も感じられた。
事実、ウルグアイ出身の女性歌手ラグリマ・リオスは本作の中で、カンドンベ(ウルグアイのアフリカ系音楽)との近似性についても語っている。
ジャズと並んで、1920~40年代に世界的に支持された“世界音楽”としてタンゴのグローバリズムを、もう少し探ってほしかった。そして、それがやがて衰退した意味も…。

本作は、キューバ音楽の“伝説”たちを蘇らせてみせた『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』のタンゴ版とも評されているようだが、『ブエナ~』がライ・クーダーという最良のナビゲーターを得て、彼によって“発見”された老人たちが、ステージに上がるやいなやスーザン・ボイルばりに驚愕の名演・名唱を魅せる点がじつにドラマティックだった。

本作は、マエストロたちが結集したレコーディングを契機にしたプロジェクトのためか、酒場での独唱やレコーディング風景がいくつも挿入され、そうしたドラマ性もやや希薄だ。
だが、そうした不満をもってしても、奏でられる音楽はどれも素晴らしい。それだけに、コンサートシーンでの演奏途中カットが多い点も気になった。

◆『アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち』の参照レビュー一覧
映画瓦版
映画通信シネマッシモ
LOVE Cinemas 調布
...旅とリズム...旅の日記 by 栗本斉
シュミットさんにならない法 映画編
Cafe Opal
Tower Record Online(佐藤由美氏)
ほぼ日刊 日々是映画 ブログ版
MOVIE HUNTER

↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたちアルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち
オムニバス ネリー・オマール カルロス・ラサリ オラシオ・サルガン ホセー・リベルテーラ マリアーノ・モレス カルロス・ガルシーア アニーバル・アリアス アティリオ・スタンポーネ エルネスト・バッファ ビルヒニア・ルーケ

ライス・レコード 2010-10-17
売り上げランキング : 4520

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

【映画】ある殺し屋2010/12/14

『ある殺し屋』
『ある殺し屋』(1967年・監督:森一生)

『薄桜記』(1959年)で市川雷蔵とタッグを組んだ森一生監督による傑作フィルムノワール。本作で再び雷蔵と組んだ森監督は、雷蔵を非情な「殺し屋」に仕立て、特異な現代劇を創り上げた。

墓地裏の荒涼たる荒れ地に、廃墟のように立つアパート。
ここを一人訪れ、部屋を借りたい、と言う男。市川雷蔵。
その男のもとへ、はすっぱな女・野川由美子が転がり込む。
この二人は恋人か、兄妹か、はたまた…。
というように、冒頭から謎めいたシーンで一気に観る者を引き込む手練が冴える。

すでにここに犯罪の匂いが漂い、ワタシたちは「殺し屋」というノワールな世界に浸ることができる。

そして、場面は殺し屋・雷蔵と、女(野川)の出会いに遡り、殺し屋家業を欺く仮の姿・飲み屋の亭主を装う雷蔵。画面からピリピリとした妖気が立ち上がり、やがてヤクザの親分から依頼された殺しで、「殺し屋」としての見事な“技”が披露される。

殺しを依頼したヤクザの成田三喜夫は、雷蔵に手下にしてくれと懇願するが、やがて女とただならぬ仲となる。二人は雷蔵に儲け仕事を持ち込むが、そこにはある陰謀が…。

といったストーリーが展開するのだが、雷蔵はあくまでもクールな面持ちを保ち、フィルムはあくまでもスタイリッシュを貫き通す。

『紅の流れ星』(1957年・桝田利雄監督)、『東京流れ者』(1966年・鈴木清順監督)、『殺しの烙印』(1967年・鈴木清順監督)、そして本作。
かつて日本映画にこんな不敵なフィルムノワール群があったことを、不遜にもワタシは最近まで知らなかった。

これらの作品は例えば、「キネマ旬報」の年間ベストテンなどには挙がっていない。しかし、積年の映画ファンの支持を得て、またDVD化などによるアーカイブ化によって、改めて評価すべき作品として浮上している。

音楽の世界でもかつて、クラブDJや“幻の名盤解放同盟”らの活動によって、あまたの過去作品に再び光が当てられて、従来とは異なる角度からの評価が与えられるなどのムーブメントが起こった。

日本に映画が誕生して110余年。
なんとか活況を保つ今のうちに、邦画の世界でも、「映画秘宝」に連なる“幻の名作解放同盟”運動が、さらに必要になってくるのではあるまいか…。
そんな思いを抱かせる逸作であった。

◆『ある殺し屋』の参照レビュー一覧
良い映画を褒める会。
SummaArs 藝術大全
愛すべき映画たち
本日ハ晴天ナリ
西沢千晶のシネマ日記+
ときどき映画館日記

↓応援クリックにご協力をお願いします。
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ