【CD】ユルドゥス・ウスマノヴァ/デュニア~世界 ― 2011/01/15
デュニア〜世界 ユルドゥス・ウスマノヴァ ヒュスニュ・シェンレンディリジ ファティフ・エルコチ ヤシャール・ギュナチギュン レウェント・ユクセル ライス・レコード 2010-03-07 売り上げランキング : 120129 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
ウスマノヴァについては、ハウスとエスニックをミクスチャーした傑作『binafscha』 (1996)で知っていたが、じつはいったいどんな歌手なのか、よくわからないままに愛聴していた。
その彼女のプロフィールが、本作に寄せられたリリース元である「オフィス・サンビーナ」の田中昌代表によって詳らかにされおり、とても参考になった。
曰く、1963年にウズベキスタン・フェルガナ地方のマルギランという町で生れた彼女は、同国で国民的な歌手として活躍する一方で、ウズベキスタンの伝統音楽をベースにトルコや他の中央アジアの伝統要素に加えて、欧米ポップスをミクスチャーしたスタイルで、ヨーロッパでも高い評価を得てきたという。
さらに母国では政界に進出して、「歌う代議士」として活動していたというが、2005年に反政府デモを武力制圧した“アンディジャン事件”が起こり、これに対して彼女が大統領に直接抗議。怒った大統領が彼女を国外追放とし、ユルダスも長年友好な関係だった大統領に愛想をつかしてトルコに移住したのだという。
というわけで、本作は全編トルコ語によるトルコ制作のアルバムとなっている。しかし、『binafscha』で魅せたエッジの効いたクラブ・サウンドは後退したものの、むしろトルコの伝統音楽を血肉として、汎アジア~アラブ~ヨーロッパ社会へと股がるスケールの大きな音楽地図を描いたみせた。
とにかくその歌声が素晴らしい。
伸びやかなでメリスマを効かせたその歌声は、ときにカッワリーの巨星ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンを彷彿させるほど。
自作の再演である③「世界」では、まさにユーラシア大陸を駆け抜けるジャヌ・ダルクの如く、大地に轟く。
さらに本作には、トルコの人気男性シンガーとのデュエット曲が3曲収められているが、ユルドスは一歩も引かぬ力強い歌声で男声陣に応え、見事なコラボに昇華している。
↓ヤシャール・ギュナチギュンとのデュエット曲⑤「セニ・ウェルデン」(音声のみ)
そうした彼女の歌声を支えるトルコ・ミュージシャンたちも素晴らしく、トルコの伝統楽器の演奏だけでなく、エレクトリックなプレイも含めて、かの国の音楽クオリティの高さを思い知ることができる。
スカーフで顔を覆い、眼だけがギラリと遠く見据えたジャケットが、まさに決然と“世界”に対峙するユルドゥスの揺るぎない音楽を示しているかのようだ。
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【映画】十三人の刺客 ― 2011/01/17
『十三人の刺客』(2010年・監督:三池崇)
1963年に制作された工藤栄一監督による同名作(ワタシは未見)のリメイク。
冒頭から何だが、評価の高い本作が海外の主要な映画賞を逃したのは、やはり『七人の侍』をはじめ、『乱』『たそがれ清兵衛』といった海外で公開された名作時代劇からの既視感が要因だったのではないか、とワタシなどは思ってしまう。
将軍の弟という地位に乗じ、暴君の限り尽くす明石藩主(稲垣吾郎)を暗殺するために、集められた13人の刺客。役所公司をリーダーとする13人の暗殺部隊は、宿場を城砦と化し、総勢200を超える明石藩の武士たちを誘い込む。やがて宿場に到着した藩主たちは、刺客たちが施したさまざまな“罠”に翻弄される…。
すでに、さまざなレビューによって報じられている終盤50分にわたる死闘が凄まじい。三池監督はこの殺戮シーンを描きたいがために、本作を撮ったのではないかと思わせるほど、物語の細部はこのクライマックスに収斂されていく。
しかしながら、冒頭にも触れたようにここに至るまでの“物語”は、まるで『七人の侍』だ。
“義憤”に駆られた主人公・島田新左衛門(役所)が、命をなげうつ仲間を集う経緯からしてかの物語を踏襲し、島田の男気に惚れての者(松方弘樹)、剣に命を賭す者(伊原剛志)、自分の居(死に)場所を求める者(山田孝之)、金を要求する者(古田新太)など、多士済々が次々と紹介される。
その流れはよどみなく、そこがまず前半の見どころなのだが、旅の途中で、唯一武士ではない最後の刺客(伊勢谷友介)を“拾う”あたりもやはりデジャヴ(既視感)に襲われてしまう…。
やがて腹を決めた島田たちは“獲物”を誘い込む作戦をとり、宿屋を全て買い取り、かつて「勘兵衛」がそうしたように宿場全体を“城砦”と化してゆく。その作戦過程と、その仕掛けが見事に“決まる”死闘の序盤は、ヒーローものにお約束のカタルシスに溢れる。
宿場に着いた藩主たちを、覆っていたスモークが風に流れ、やがて露となった城砦に立つ刺客たちが迎える冒頭から、退路を奪う橋の爆破、宿屋の崩壊に至るまで、三池組の強者たちの喜色満面が目に浮かぶような“仕事”ぶり。
そして、これもまたお約束のように死闘の後半は陰惨を極め、刺客たちは一人二人と倒れ、最後に残るのは…というストーリーなのだがその生き残り組こそ『七人~』とは違うものの、そのテイストはやはりのかの作のそれから逃れられない。
サバイバーとなった剣士が茫然自失となって累々たる屍を越え、瓦解した宿場を彷徨するさまはまさにやがて崩壊していく武家社会の虚しさを表現してやまない。が、ワタシはこのシーンがやや長回しすぎると感じたのと、ワタシと同様に外国の観客たちもここで『乱』を思い出してしまったのではないだろうか。
ワタシなどは、ここで飄々たる宿屋主人を快演した岸部一徳や、屈託なく客に身を売る村の娘たちを登場させれば、より武士の哀れさとそこに組しない庶民のしたたかさが対比されたのに、と思う。
おっと、そこまでやったら「勝ったのは農民だ」と「勘兵衛」に呟かせた『七人~』と同じになっちまうか…。
それにしても、いくら藩主が暴君でも、それに仕える武士たちが「みな殺し」になるというのも、武士社会といえどあまりに理不尽ではないか。死んでいった武士たちにも、親・兄弟、家族がいる。そこがまた武士社会を“サラリーマン(企業)社会”にダブらせた『たそがれ清兵衛』に重なる。
刺客たちもまた、哀れな業人なのだ。それゆえ、こうしたラストにならざるをえないのだろう…。
最後は、“刺客”の一人を帰りを待つ芸妓(吹石一恵)の喜色に満ちたアップで終わるが、これもまた『たそがれ~』での宮沢えりを彷彿させる。が、その清々しさによって、グロテスクも血塗られた本作が、ようやく安念を得たように幕を閉じることができる。
暗転のスクリーンに写し出された字幕には、藩主は「病死」とされ、やがて「明治」という新しい時代が、武士による封建時代を終わらせたことが告げられるのだ。
◆『十三人の刺客』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「三池流・生の肯定の怒号が聞こえる」--映画通信シネマッシモ(渡まち子氏)
「死闘の有様をヴィヴィッドに描き出す」--映画的・絵画的・音楽的
「殺しあい戦うことに根底から疑問をつきつけたか?」--粉川哲夫の「シネマノート」
「『悪』の造形によって仄かな希望を抱かせる事件に」--映画.com(清水節氏)
「『今の映画』に仕立てなおされていることに感心」--映画瓦版
「ダメな点をあげればきりが、全体に好感の持てる貴重な映画」--映画の感想文日記
「狂気を生み育てたものは『武家社会』そのもの」--シンジの“ほにゃらら”賛歌
「熱血な男たちによる、血沸き肉踊るチャンバラ大活劇」--ノラネコの呑んで観るシネマ
「時代劇の様式美にこだわらぬ魅力的な一本」--超映画批評(前田有一氏)
「文句はある。でも面白い!」--LOVE Cinemas 調布
「水準以上の作品ではあが、『今』の時代劇」--隊長日誌
「三池監督らしからぬ統制された演出で、大御所の風格」--アロハ坊主の日がな一日
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1963年に制作された工藤栄一監督による同名作(ワタシは未見)のリメイク。
冒頭から何だが、評価の高い本作が海外の主要な映画賞を逃したのは、やはり『七人の侍』をはじめ、『乱』『たそがれ清兵衛』といった海外で公開された名作時代劇からの既視感が要因だったのではないか、とワタシなどは思ってしまう。
将軍の弟という地位に乗じ、暴君の限り尽くす明石藩主(稲垣吾郎)を暗殺するために、集められた13人の刺客。役所公司をリーダーとする13人の暗殺部隊は、宿場を城砦と化し、総勢200を超える明石藩の武士たちを誘い込む。やがて宿場に到着した藩主たちは、刺客たちが施したさまざまな“罠”に翻弄される…。
すでに、さまざなレビューによって報じられている終盤50分にわたる死闘が凄まじい。三池監督はこの殺戮シーンを描きたいがために、本作を撮ったのではないかと思わせるほど、物語の細部はこのクライマックスに収斂されていく。
しかしながら、冒頭にも触れたようにここに至るまでの“物語”は、まるで『七人の侍』だ。
“義憤”に駆られた主人公・島田新左衛門(役所)が、命をなげうつ仲間を集う経緯からしてかの物語を踏襲し、島田の男気に惚れての者(松方弘樹)、剣に命を賭す者(伊原剛志)、自分の居(死に)場所を求める者(山田孝之)、金を要求する者(古田新太)など、多士済々が次々と紹介される。
その流れはよどみなく、そこがまず前半の見どころなのだが、旅の途中で、唯一武士ではない最後の刺客(伊勢谷友介)を“拾う”あたりもやはりデジャヴ(既視感)に襲われてしまう…。
やがて腹を決めた島田たちは“獲物”を誘い込む作戦をとり、宿屋を全て買い取り、かつて「勘兵衛」がそうしたように宿場全体を“城砦”と化してゆく。その作戦過程と、その仕掛けが見事に“決まる”死闘の序盤は、ヒーローものにお約束のカタルシスに溢れる。
宿場に着いた藩主たちを、覆っていたスモークが風に流れ、やがて露となった城砦に立つ刺客たちが迎える冒頭から、退路を奪う橋の爆破、宿屋の崩壊に至るまで、三池組の強者たちの喜色満面が目に浮かぶような“仕事”ぶり。
そして、これもまたお約束のように死闘の後半は陰惨を極め、刺客たちは一人二人と倒れ、最後に残るのは…というストーリーなのだがその生き残り組こそ『七人~』とは違うものの、そのテイストはやはりのかの作のそれから逃れられない。
サバイバーとなった剣士が茫然自失となって累々たる屍を越え、瓦解した宿場を彷徨するさまはまさにやがて崩壊していく武家社会の虚しさを表現してやまない。が、ワタシはこのシーンがやや長回しすぎると感じたのと、ワタシと同様に外国の観客たちもここで『乱』を思い出してしまったのではないだろうか。
ワタシなどは、ここで飄々たる宿屋主人を快演した岸部一徳や、屈託なく客に身を売る村の娘たちを登場させれば、より武士の哀れさとそこに組しない庶民のしたたかさが対比されたのに、と思う。
おっと、そこまでやったら「勝ったのは農民だ」と「勘兵衛」に呟かせた『七人~』と同じになっちまうか…。
それにしても、いくら藩主が暴君でも、それに仕える武士たちが「みな殺し」になるというのも、武士社会といえどあまりに理不尽ではないか。死んでいった武士たちにも、親・兄弟、家族がいる。そこがまた武士社会を“サラリーマン(企業)社会”にダブらせた『たそがれ清兵衛』に重なる。
刺客たちもまた、哀れな業人なのだ。それゆえ、こうしたラストにならざるをえないのだろう…。
最後は、“刺客”の一人を帰りを待つ芸妓(吹石一恵)の喜色に満ちたアップで終わるが、これもまた『たそがれ~』での宮沢えりを彷彿させる。が、その清々しさによって、グロテスクも血塗られた本作が、ようやく安念を得たように幕を閉じることができる。
暗転のスクリーンに写し出された字幕には、藩主は「病死」とされ、やがて「明治」という新しい時代が、武士による封建時代を終わらせたことが告げられるのだ。
◆『十三人の刺客』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「三池流・生の肯定の怒号が聞こえる」--映画通信シネマッシモ(渡まち子氏)
「死闘の有様をヴィヴィッドに描き出す」--映画的・絵画的・音楽的
「殺しあい戦うことに根底から疑問をつきつけたか?」--粉川哲夫の「シネマノート」
「『悪』の造形によって仄かな希望を抱かせる事件に」--映画.com(清水節氏)
「『今の映画』に仕立てなおされていることに感心」--映画瓦版
「ダメな点をあげればきりが、全体に好感の持てる貴重な映画」--映画の感想文日記
「狂気を生み育てたものは『武家社会』そのもの」--シンジの“ほにゃらら”賛歌
「熱血な男たちによる、血沸き肉踊るチャンバラ大活劇」--ノラネコの呑んで観るシネマ
「時代劇の様式美にこだわらぬ魅力的な一本」--超映画批評(前田有一氏)
「文句はある。でも面白い!」--LOVE Cinemas 調布
「水準以上の作品ではあが、『今』の時代劇」--隊長日誌
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【CD】上々颱風/風の祭り~CARNAVAL~ ― 2011/01/18
風の祭り~CARNAVAL~ 上々颱風 バウンディ 2010-12-08 売り上げランキング : 4627 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
上々颱風サウンドの特異性を、今さらとりたてて説明する必要もないだろう。
前身の「紅龍&ひまわりシスターズ」 時代から三線チューニングのバンジョーを取り入れ、日本各地・アジアを中心した世界各地の音楽を取り入れたそのサウンドは、まさに日本が世界に誇るワルードミュージック・バンドの一つとして数えられる。
しかも、そうしたミクスチャー・サウンドを、リーダー・紅龍の言うところの「聴いている人に仲間はずれをつくらない」ポップで大衆歌謡テイストに仕立てたところに人気のヒミツがあった。
場所を選ばないライブも含めて、それはまさに④「流れのままに」の歌詞の如く「しなやかに、軽やか」な音楽であり、活動だった。
本作では、そうした活動から培った既発表の名曲群を、新しいアレンジで提示する。
代表曲である①「愛よりも青い海」ではより軽やかさを増し、紅龍のヴォーカルが全面に出た②「いつでも誰かが」は力強く、④「流れのままに」ではアフロっぽくゆったりとした空間が生れ、⑤「鳥の歌」はチャングが響きわたるダイナミックなサウンドに、と生れ変わっている。
ベスト盤の仕様なのでは、同じレゲエ・チューンなら⑥「メトロに乗って浅草へ」に替わりにワタシなら「菜の花畑でつかまえて」を入れたかなとか、「鳥や獣でさえ/夢をみるというけれど/何故に人だけが夢を見続ける」という詩も泣かせる叙情歌「波と風」も欲しかった、「舟を出そうよ」は? 「歌いながら夜を往け!」は外せないでしょ…と勝手な自己ベスト盤を妄想していたのだが、それも途中でやめた。
そう、これはやはり新しい上々颱風のアルバムとして聴くべきなのだ。
なぜなら、ディープなメッセージソングとして8thアルバム のOne of themとして収まっていた⑧「平和が戦車でやってくる」が、ここではまるで本作のハイライトであるかのように力強く、明るく、輝きを増したナンバーに変貌している。
沖縄リズムが弾ける⑩「ハイ・ハイ・ハイ」、このバンドの姿勢を示すかのような⑩「名もなくまぶしくスチャラカに」と、祝祭感溢れるトラックで終盤を盛り上げ、ライブでの鉄板ネタである映美ちゃん(ヴォーカル)の決めゼリフ「上々颱風はこれからもみなさまと共に、スチャラカ一筋いかせていただきます~!」が高らかに響きわたる。
最後を〆るのは1stアルバム の冒頭を飾った⑫「上々颱風テーマ」の2010年版だ。終わりの始まりのようなこのテーマソングが、21年目を迎えた上々颱風が、また新しい旅へと出立したことを示しているかのようだ。
◆『上々颱風/風の祭り~CARNAVAL~』の参考レビュー(*タイトル文責は森口)
「上々颱風ビギナーにお奨めの一枚」--暇なざれごと
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上々颱風主義 森口 秀志 上々颱風 晶文社 1994-08 売り上げランキング : 468698 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
【本】うつくしく、やさしく、おろかなり--私の惚れた「江戸」 ― 2011/01/19
うつくしく、やさしく、おろかなり―私の惚れた「江戸」 杉浦 日向子 筑摩書房 2006-08 売り上げランキング : 185713 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
よって江戸風俗研究家としてお茶の間にも知られた杉浦日向子氏の著作も読んでいて当然なのだが、不覚にも『ガロ』時代のマンガは目にしていたものの、江戸モノの著作を読むのは本作が初めて。
しかも、「あとがき」を読むまで気がつかなっかたのだが、本作は彼女の死後に刊行(2006年)された遺作エッセイ集だ。
さて、ワタシが「江戸」に最も惹かれる理由は、何といっても260年間にわたって大きな戦乱もなく平和な時代だった、ということに尽きる。もちろん、その背景には鎖国や封建社会という圧政があったとされるが、近年はその“鎖国”や“封建社会”が本当に言われるような悪政だったのか、見直しも進められている。
それをさて置いても、日清戦争から太平洋戦争終結に至る50年間に、暴政と戦乱によって失われたとおびただしい命と流された血を考えたときに、その5倍にも及ぶ年月を不戦・平和で貫き通したことに、改めて驚きを禁じえない。
網野氏が指摘するように、明治政府による近代化とは一体何だったのか? やや話は脱線するが、そこが三池崇監督による『十三人の刺客』で、ラストに提示された歴史観にワタシが違和感を感じるところでもある…。
その“江戸の平和”のヒミツについて、杉浦氏は本書において明確な答えを導き出している。
「大都市である江戸が二百五十年間の泰平を保つ事ができた価値観を示すキーワードは『持たず』、『急がず』、この二つの言葉だけです」
「『持たず』には二つの意味があります。一つは物を持たない」として、「江戸の二百六十四年間を通して日本人がやっていたことは、衣食住のすべてが八分目という暮らしです。足りない二分はどうするか、これを毎日、工夫してやりくりしていくのです。よそから借りるか、他のもので代用するか、その場は我慢するのいずれか。そして生ごみや生活排水はほとんどゼロでした」と、ワタシたちに語りかける。
そして、「もう一つの持たないのは、コンプレックスです」として、他人をうらやまず、ひがまず「自分は自分という自身を持って日々を暮らせば、せちがらなくない。そういうことが大切なのです」と諭す。
「急がず」も「仕事を急がず」のほかに「人づきあい」を挙げ、「諸国のふきだまりである寄り合い所帯の江戸では、人のつきあいを、細やかに手を抜かず、急がずやっていかないと、支えあってこそ成り立つ共同体の中ではつまはじきになってしまう」と、杉浦氏は解き明かすのだ。
どうだろう。この「物」を「経済力」「軍事力」「領土」に、「人づきあい」を「国づきあい」と置き換えてみれば、いかに明治~昭和に至るニッポンがこの江戸の“教え”と正反対のことをしてきたかわかる。
そして、杉浦氏ばこう結論づける。
「二つの持たないと二つの急がない。これを江戸だけでなく、三千万人(註:江戸期の日本人)がほぼ実践できたからこそ、平和を守れたのではないか。長い低成長だけれども心豊かな時間をもてたというふうに考えます」…。
陳腐な例えではあるが、この言葉は“ガラパゴス”とも揶揄される低成長時代を迎えた現代のニッポンこそ、範する姿勢なのではないだろうか。
もちろん、このことだけが本書の価値を高めているわけではない。
“江戸時代からタイムスリップしてきた”と評された杉浦氏の面目躍如たる、江戸文化・風物・風俗の数々が目の前に活写されるエッセイの一つひとつが興味深く、面白い。
『ブレードランナー』に描かれた未来都市を見て「これは江戸だ」と、中期には人口500万人を超え、当時世界一のメガロポリスとなった江戸の町並みに思いを馳せ、「台所のない長屋」に住む独身男たちが、そばや鮨といった江戸のファストフードにありつく様が、活き活きと描かれる。カレーライス興隆の背景に、江戸の「ぶっかけ飯」文化があったなんていう推論も楽しく読めた。
こうした、ものを“持たない”身軽な江戸庶民の生活を識れば、「日本人は物集めが大好きな民族である」という出久根達郎氏の言説(『本は、これから』)も、武家・商人(?)社会にしか当てはまらないものであろうし、「コレクションの対象にならない物(駐:電子書籍)は流行しないと見ている」という見方も、貸し本文化が栄えた江戸時代とは相反するものに違いない。
もちろん『江戸幻想批判』 を持ち出すまでもなく、「江戸」が桃源郷であったなどとは、ワタシだって思ってやしない。
杉浦氏も「つよく、ゆたかで、かしこい現代人が、封建で未開の江戸に学ぶなんて、ちゃんちゃらおかしい」と、近年の「江戸ブーム」を切り捨て、返す刀でこう喝破する。
「私に言わせれば、江戸は情夫だ。学んだり手本になるもんじゃない。(略)うつくしく、やさしいだけを見ているのじゃ駄目だ。(略)江戸は手強い。が、惚れたら地獄、だ」と。
後半になればなるほど面白くなるという構成は解せないものの、本書によって多様な「大江戸三百年」の文化と庶民の暮らしが、ようやく俯瞰できた感じがする。
ワタシにはなによりそれが収穫だ。
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【映画】ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム ― 2011/01/20
『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』(2005年・監督:マーティン・スコセッシ)
『ラスト・ワルツ』『シャイン・ア・ライト』などの名作群によって、音楽ドキュメンタリーを撮らせたら当代ピカ一とされるオスカー監督による、ボブ・ディランのドキュメンタリー。
3時間半という長尺フィルムに、ディランの軌跡、彼を取り巻いた人びとの様々な証言、そして時代の空気を映し込んだライブ映像をたっぷりと盛り込み、稀代のアーティストであるディランとは一体何者なのか? を解き明かそうとする試み。
恥ずかしながらワタシもまたディランズ・チルドレンの遥か端くれの端くれで、高校時代には(何時のことだ!)文化祭で、“ディラン研究”の展示を行ったこっ恥ずかしい経験が今さらながら思い起こされる。
当時ワタシは東北の小都市に住んでいたのだが、何しろ書店で『ディラン風を歌う』 『ボブ・ディラン全詩集』 を注文してから手にするまで3~4週間もかかった時代だ(だから何時の時代だ!)。ようやく手にしたディラン本は、どっしりと重く、見るも読むも新鮮で、たまつすがめつその詩/音楽世界に浸ったものだ…。
というわけで、ディラン・ストーリーははるか昔に“活字”で触れていたものの、こうして本人の語りも含めた、当時をしるす膨大な証言と映像の開示によって、ワタシたちはディランと共に“あの時代”を旅し、彼の成長と変遷を目の当たりにする気分を味わうことができる。
まず浅学なワタシを驚かせるのは、ディランが子ども時代に親しんだ多彩なミュージシャンたちだ。カントリー/ブルーグラスのハンク・ウィリアムズ、ビル・モンロー、ブルースのバディ・ガイといった有名所はもちろんのこと、ワタシも初めて知るシンガーたちが次々に登場する。
カンツォーネばりに歌い上げるジョニー・レイ、鼻にかかった声が印象的なウェブ・ピアーズ、ダルシマー(?)を膝に抱いて華麗に演奏しながら美声を響かせるジョン・ジェイコブ・ナイルズ…若き日のリアム・クランシーがこんなに才気溢れるシンガーだったとは! 周知のジーン・ヴィンセントも、ライブ映像を見せられ、改めてそのパンキッシュなスタイルにシビれた(特にベーシスト)。
そうした豊かな音楽体験を経て、ディランはやがて自ら音楽を発し始めるのだが、「エレキをフェーク・ギターにかえてすぐに人前に歌った」との証言から、ディランが根っからのロックンローラーだったことが確認できる。
ミネソタの片田舎から大学を中退してニューヨークへやって来た若きディランは、やがてグリニッジ・ヴィレッジで歌いはじめる。この当時の「ヴィレッジ」の自由で闊達な雰囲気を伝える数々の証言や映像が素晴らしい。
「彼の歌は並みだった。最悪でも最高でもなく、レパートリーも人と同じだった」(音楽評論家ポール・ネルソン)というディランだが、「歌を覚えるのは早かった。一度か二度聞けば覚えた」というその才で、「スポンジのように学んでいった」。
やがて、ウッディ・ガスリーから「歌は生き方を学べるんだ」ということを初めて知り、「彼の古いと言われたが、僕にはそう聞こえなかった。まさに“今”を歌っていると思えた」というディランの“快進撃”が始まる。
「強い印象を与えたかった。(ヴィレッジには)うまい連中はいたが、人を魅了できない。人の頭の中に入っていかないんだ。人を釘付けにしなきゃ」と嘯くディランの言葉どおり、「ボブは皆と違っていた。強い意志ががあり、それが伝わるから皆が注目した」(ブルース・ラングホーン)という存在になっていく。
かつてのディランの恋人で、『フリーホイーリン』 でディランと肩をすり寄せ合って歩く姿が印象的だったスージー・ロトロは「ボブはウッディ(・ガスリー)のチャネラーだった」と評し、「ミネアポリス時代とは別人となった」(トニー・グローヴァー)ディラン自身も、「(ブルースシンガーのように)悪魔と大きな取り引きをして、一夜にして変わったんだ」と、自信たっぷりに告白する。
そして、それらの証言を裏づけるかのように、素晴らしいパフォーマンスが惜しげもなく次から次へと写し出される。まさに宝の山。
独特のリズムに乗せた歌が、ディランの口から発せられると、その詩はまるで宙を舞うかのように、世界へと拡がっていく。
まさに、風に吹かれて…。
あとはもう、ディランの“本質”を見事に表現した至極のような賛辞と発言のオンパレードだ。
「風に吹かれて」の歌詞「どれだけ歩いたら“人間”になれるのか」と諳じながら、黒人ゴスペルシンガーのメルヴィス・ステイプルが証言する。
「なぜこれが書けるのか? 私の父の経験そのものよ。人間扱いされなっかった父の。ボブは白人なのになぜ書けるのか不思議だった。彼は直感で歌を作る。霊感でもって。だから人の心に直接響くのよ」。
また、イジー・ヤング(フォークロアセンター主宰者)の言う 「いい歌を作って、現在の考えをトラディショナルな曲にのせる。だから今作ったのに200年前の輝きを持つ」という指摘も、多くの人が共感するはずだ。
そして、ディランの本質を最もついているのが、次の言葉ではないだろうか…。
「アイルランド神話の変身男のようだった。声を変え、姿を変えるのだ。一定のかたちに押し込められる必要はない。ボブは何か大きな力を感じ取り、皆が言いたいことを歌って、表現した」(リアム・クランシー)
じつは、本作は冒頭からして、1966年のイギリス公演の映像が何回となく挿入される。ディランがそれまでのフォーク・スタイルからロック・スタイルへと変える転換点となったライブだ。
ここで後のザ・バンドとなったホークスの面々を従えたディランは、イギリスの聴衆から「裏切り者!」「帰れ!」と罵倒される。当時は、ロックは商業的な音楽で、ディランのフォークからロックへの“転身”は多くのファンの反感をかっていた。
「エレクトロニックを使ったからといって新しいとは限らない。だって、カントリーだって使っているだろ?」と言うディラン。
「ボブは自分のやりたいことをやりたいようにやる。たえず何を変えようとする。あんなに変えられる人は褒めてあげていいわ…」
やはりディランのかつての恋人だったジョーン・バエズは、半ば呆れながらも嬉しそうにこう話すのだ。
「僕は今のことしか興味がない。過去のことはどうでもいい。今でもそう思っている」…。 まさにこの“言葉”にディランという人がいる。
昨年(2010年)のジャパンツアーによって、ワタシもまたそのディランの“限りなき前進”を目撃した一人だ。そこには、御年68歳の激烈なロッキン・ローラーが歌い、吼えていた。
そして、スコセッシもまた、本作に最も刻印したかったのが、この“限りなき前進”だったのだと思う。
◆『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』の参考レビュー一覧
(*タイトル文責は森口)
「とびっきりの『青春映画』で、アメリカの現代史」--海から始まる!?
「稀代のアーティストの魅力と時代性が十二分に伝わってくる」--真紅のthinkingdays
「観客の興奮とぞくぞくするような感覚が生々しく映し出され興奮」--映画の感想文日記
「音楽のみならず、全てが面白い」--CINEMA80(井上陽水&みうらじゅん トークショー)
「映像と顔の表情と訳詞で、背中がぞくぞく」--温故知新~温新知故?
「理想のために嘘もつくし演技もする変化自在な姿」--藍空放浪記
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『ラスト・ワルツ』『シャイン・ア・ライト』などの名作群によって、音楽ドキュメンタリーを撮らせたら当代ピカ一とされるオスカー監督による、ボブ・ディランのドキュメンタリー。
3時間半という長尺フィルムに、ディランの軌跡、彼を取り巻いた人びとの様々な証言、そして時代の空気を映し込んだライブ映像をたっぷりと盛り込み、稀代のアーティストであるディランとは一体何者なのか? を解き明かそうとする試み。
恥ずかしながらワタシもまたディランズ・チルドレンの遥か端くれの端くれで、高校時代には(何時のことだ!)文化祭で、“ディラン研究”の展示を行ったこっ恥ずかしい経験が今さらながら思い起こされる。
当時ワタシは東北の小都市に住んでいたのだが、何しろ書店で『ディラン風を歌う』 『ボブ・ディラン全詩集』 を注文してから手にするまで3~4週間もかかった時代だ(だから何時の時代だ!)。ようやく手にしたディラン本は、どっしりと重く、見るも読むも新鮮で、たまつすがめつその詩/音楽世界に浸ったものだ…。
というわけで、ディラン・ストーリーははるか昔に“活字”で触れていたものの、こうして本人の語りも含めた、当時をしるす膨大な証言と映像の開示によって、ワタシたちはディランと共に“あの時代”を旅し、彼の成長と変遷を目の当たりにする気分を味わうことができる。
まず浅学なワタシを驚かせるのは、ディランが子ども時代に親しんだ多彩なミュージシャンたちだ。カントリー/ブルーグラスのハンク・ウィリアムズ、ビル・モンロー、ブルースのバディ・ガイといった有名所はもちろんのこと、ワタシも初めて知るシンガーたちが次々に登場する。
カンツォーネばりに歌い上げるジョニー・レイ、鼻にかかった声が印象的なウェブ・ピアーズ、ダルシマー(?)を膝に抱いて華麗に演奏しながら美声を響かせるジョン・ジェイコブ・ナイルズ…若き日のリアム・クランシーがこんなに才気溢れるシンガーだったとは! 周知のジーン・ヴィンセントも、ライブ映像を見せられ、改めてそのパンキッシュなスタイルにシビれた(特にベーシスト)。
そうした豊かな音楽体験を経て、ディランはやがて自ら音楽を発し始めるのだが、「エレキをフェーク・ギターにかえてすぐに人前に歌った」との証言から、ディランが根っからのロックンローラーだったことが確認できる。
ミネソタの片田舎から大学を中退してニューヨークへやって来た若きディランは、やがてグリニッジ・ヴィレッジで歌いはじめる。この当時の「ヴィレッジ」の自由で闊達な雰囲気を伝える数々の証言や映像が素晴らしい。
「彼の歌は並みだった。最悪でも最高でもなく、レパートリーも人と同じだった」(音楽評論家ポール・ネルソン)というディランだが、「歌を覚えるのは早かった。一度か二度聞けば覚えた」というその才で、「スポンジのように学んでいった」。
やがて、ウッディ・ガスリーから「歌は生き方を学べるんだ」ということを初めて知り、「彼の古いと言われたが、僕にはそう聞こえなかった。まさに“今”を歌っていると思えた」というディランの“快進撃”が始まる。
「強い印象を与えたかった。(ヴィレッジには)うまい連中はいたが、人を魅了できない。人の頭の中に入っていかないんだ。人を釘付けにしなきゃ」と嘯くディランの言葉どおり、「ボブは皆と違っていた。強い意志ががあり、それが伝わるから皆が注目した」(ブルース・ラングホーン)という存在になっていく。
かつてのディランの恋人で、『フリーホイーリン』 でディランと肩をすり寄せ合って歩く姿が印象的だったスージー・ロトロは「ボブはウッディ(・ガスリー)のチャネラーだった」と評し、「ミネアポリス時代とは別人となった」(トニー・グローヴァー)ディラン自身も、「(ブルースシンガーのように)悪魔と大きな取り引きをして、一夜にして変わったんだ」と、自信たっぷりに告白する。
そして、それらの証言を裏づけるかのように、素晴らしいパフォーマンスが惜しげもなく次から次へと写し出される。まさに宝の山。
独特のリズムに乗せた歌が、ディランの口から発せられると、その詩はまるで宙を舞うかのように、世界へと拡がっていく。
まさに、風に吹かれて…。
あとはもう、ディランの“本質”を見事に表現した至極のような賛辞と発言のオンパレードだ。
「風に吹かれて」の歌詞「どれだけ歩いたら“人間”になれるのか」と諳じながら、黒人ゴスペルシンガーのメルヴィス・ステイプルが証言する。
「なぜこれが書けるのか? 私の父の経験そのものよ。人間扱いされなっかった父の。ボブは白人なのになぜ書けるのか不思議だった。彼は直感で歌を作る。霊感でもって。だから人の心に直接響くのよ」。
また、イジー・ヤング(フォークロアセンター主宰者)の言う 「いい歌を作って、現在の考えをトラディショナルな曲にのせる。だから今作ったのに200年前の輝きを持つ」という指摘も、多くの人が共感するはずだ。
そして、ディランの本質を最もついているのが、次の言葉ではないだろうか…。
「アイルランド神話の変身男のようだった。声を変え、姿を変えるのだ。一定のかたちに押し込められる必要はない。ボブは何か大きな力を感じ取り、皆が言いたいことを歌って、表現した」(リアム・クランシー)
じつは、本作は冒頭からして、1966年のイギリス公演の映像が何回となく挿入される。ディランがそれまでのフォーク・スタイルからロック・スタイルへと変える転換点となったライブだ。
ここで後のザ・バンドとなったホークスの面々を従えたディランは、イギリスの聴衆から「裏切り者!」「帰れ!」と罵倒される。当時は、ロックは商業的な音楽で、ディランのフォークからロックへの“転身”は多くのファンの反感をかっていた。
「エレクトロニックを使ったからといって新しいとは限らない。だって、カントリーだって使っているだろ?」と言うディラン。
「ボブは自分のやりたいことをやりたいようにやる。たえず何を変えようとする。あんなに変えられる人は褒めてあげていいわ…」
やはりディランのかつての恋人だったジョーン・バエズは、半ば呆れながらも嬉しそうにこう話すのだ。
「僕は今のことしか興味がない。過去のことはどうでもいい。今でもそう思っている」…。 まさにこの“言葉”にディランという人がいる。
昨年(2010年)のジャパンツアーによって、ワタシもまたそのディランの“限りなき前進”を目撃した一人だ。そこには、御年68歳の激烈なロッキン・ローラーが歌い、吼えていた。
そして、スコセッシもまた、本作に最も刻印したかったのが、この“限りなき前進”だったのだと思う。
◆『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』の参考レビュー一覧
(*タイトル文責は森口)
「とびっきりの『青春映画』で、アメリカの現代史」--海から始まる!?
「稀代のアーティストの魅力と時代性が十二分に伝わってくる」--真紅のthinkingdays
「観客の興奮とぞくぞくするような感覚が生々しく映し出され興奮」--映画の感想文日記
「音楽のみならず、全てが面白い」--CINEMA80(井上陽水&みうらじゅん トークショー)
「映像と顔の表情と訳詞で、背中がぞくぞく」--温故知新~温新知故?
「理想のために嘘もつくし演技もする変化自在な姿」--藍空放浪記
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【CD】ソウル・フラワー・ユニオン/キャンプ・パンゲア ― 2011/01/21
キャンプ・パンゲア ソウル・フラワー・ユニオン バウンディ 2010-12-15 売り上げランキング : 1680 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
しかしながら、別ユニットであるソウル・フラワー・モノノケ・サミットの軽やかに比して、「ユニオン」のアルバムがワタシのCD棚に増えていかないのは、あまりにハイテンションなナンバーの連続で、アルバム1枚を通して聴くとぐったりと疲れてしまう、というのも要因としてあることをここで告白しておかなければならない。
ところがソウル・フラワー・ユニオンの新作『キャンプ・パンゲア』を一聴して、そのレイドバックなサウンドに“もの足りなさ”を感じてしまったのだがら、人間というのは勝手なものだ。
もちろん本作でも、ポリティカルな姿勢が貫かれた中川(敬)節は相変わらずなのだが、これまでのヒリヒリするような“攻め”の音の連続とは一味違った、軽やかな柔らかなサウンドが全体の基調になっているかの印象を受けた。
よって、ワタシの“もの足りなさ”はそこから来ていたのだろうと思うが、本作を聴き返すうちに……いつの前にかそれもまた魅力として受けとれるようになっていた。
オープニングの①「バンサラッサ」に続いて、②「ホップ・ステップ・肉離れ」、③「ダンスは機会均等」という語呂もノリいいナンバーが続き、カリプソのリズムに乗って「死亡率100%、生きるということはそういうこと!/死ぬまで生きる我等の掟」と、明るく軽やかに謳いあげる④「死ぬまで生きろ」と、じつに明るくポジティブだ。
実際に癌で亡くなったファンの少女と出会って中川氏が書いたという⑤「死んだあの子」もダイナミックなサウンドに仕立てられ、けっして湿っぽくならない。アイリッシュ風味の⑥「再生の鐘が鳴る」、レゲエ・チューンの⑦「アクア・ヴィテ」、ミュート・トランペットが哀愁を醸しだすインスト曲⑧「道々の者」、ホンキートンク・ピアノとスライド・ギターを配したサザンロック風の⑩「パンゲア」、ラテン・フレーバーな⑪「千の名前を持つ女」、ラウンジ風の美メロ・ナンバー⑫「スモッグの底」、ブラス炸裂のジャンプな⑬「ルーシーの子どもたち」など、サウンドも多彩だ。
もろちん、「地の果てから声が届く/憤怒の鬨(とき)の声/非服従の舞は続く/戦鼓 と路上の詩(うた)」と、力強く歌われる⑨「太陽がいっぱい」など、プロテストな“詩”も顕在だ。
きっと中川氏自身や長くこのバンドを聴いてきたファンは、「ソウル・フラワー・ユニオンはどこも変わってないよ」と言うかもしれないが、ワタシには本作に、なにか“人を包み込む優しさ”のようなものを感じてしまう。
それは、故・小田実がしばし口にした「人間ぼちぼちや」であり、立川談志師匠の言う「落語は人間の“業”の肯定」に通じる、中川敬という人から発せられる慈愛に満ちた告発…のように聞こえるのだ。
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【演劇】ハイバイ『投げられやすい石』 ― 2011/01/22
岩井秀人(作・演出)率いる劇団「ハイバイ」の新作『投げられやすい石』を観劇(1月22日・こまばアゴラ劇場)。
岩井氏は16歳から20歳まで「引きこもり」だった体験をもち、岩松了氏や平田オリザ氏の作品を見て「喋り言葉で書いても良いんだ…」と「会話劇の可能性の目覚め」て芝居を書き始め、以後同劇団のすべての作品を手がける…と紹介文にある(ぴあMOOK『小劇場ワンダーランド』 )。
本作は四場から成る1時間半ほどの小品だが、その「現代口語演劇のメソッド」を活かした、やさぐれた、せつない会話劇が、じつにリアルに現代の若者社会を写し出す。
自他ともに認めるその才能によって、美大生ながらすでに個展を開くなど活躍する佐藤(岩井秀人)と、その友人・山田(松井周)。冒頭は、佐藤の個展に出展させてもらった山田がパーティーで挨拶するシーンから始まる。
やがて、山田の口から佐藤が忽然と失踪してしまったことが語られ、佐藤の彼女・ミキ(内田慈)ともつきあっていることも独白される。そこへ、佐藤から2年ぶりに連絡があり、二人は待ち合わせることになるのだが…。
この2場のコンビニでの、変わり果てた佐藤と、再会に躊躇する山田、そして店員(平原テツ)とのやりとりが秀逸だ。万引きを疑われた佐藤と店員の“ありえる”会話はまるで“ドキュメンタリー演劇”を観るかのように、ワタシたちを強引にその舞台世界へと引き込む。
続く河原での、佐藤と山田の会話がヒリヒリと痛い。
「う、ううん」「あ、ああ」~えっ?」…。
相槌のようなそうでないような、擬音を多用した会話から、相手との距離感に戸惑う二人の微妙な関係が、あまりに痛々しい…。
平田オリザ氏がロボット演劇で提示したような、会話と会話の間に舞うイマジネーションの宇宙が、ここでは生身の役者の“息づかい”によって拡がっていく。
そして最終場では、山田と既に結婚しているミキも交えたせつないシーンが続く。“病気”になった佐藤の常軌を逸した発言と行為に、会場からは笑いが絶えないのだが、いたたまれない山田とミキは嗚咽するのだ…。
「おまえは何者だ!?」と山田に詰問する佐藤もまた、自身の存在に揺れているのだ。そして、それはまたワタシたちに向けられた問いでもあるのだが…。
繰り返される“痛いセリフ”のなかに、友情と愛、才能と平凡、人間関係、社会性、自己実現…といくつものテーマが浮かび上がり、せつなさをまとったまま何を解決もみせずに、この青春物語はプツンと幕切れる。
やさぐれた狂気とセツナサと可笑しみ…これこれで「現代口語演劇」の一つの発展形なのだろう。実際に友人同士だという岩井氏と松井氏の、“役者として”のリアルな友人造形も見事(1月30日まで)。
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岩井氏は16歳から20歳まで「引きこもり」だった体験をもち、岩松了氏や平田オリザ氏の作品を見て「喋り言葉で書いても良いんだ…」と「会話劇の可能性の目覚め」て芝居を書き始め、以後同劇団のすべての作品を手がける…と紹介文にある(ぴあMOOK『小劇場ワンダーランド』 )。
本作は四場から成る1時間半ほどの小品だが、その「現代口語演劇のメソッド」を活かした、やさぐれた、せつない会話劇が、じつにリアルに現代の若者社会を写し出す。
自他ともに認めるその才能によって、美大生ながらすでに個展を開くなど活躍する佐藤(岩井秀人)と、その友人・山田(松井周)。冒頭は、佐藤の個展に出展させてもらった山田がパーティーで挨拶するシーンから始まる。
やがて、山田の口から佐藤が忽然と失踪してしまったことが語られ、佐藤の彼女・ミキ(内田慈)ともつきあっていることも独白される。そこへ、佐藤から2年ぶりに連絡があり、二人は待ち合わせることになるのだが…。
この2場のコンビニでの、変わり果てた佐藤と、再会に躊躇する山田、そして店員(平原テツ)とのやりとりが秀逸だ。万引きを疑われた佐藤と店員の“ありえる”会話はまるで“ドキュメンタリー演劇”を観るかのように、ワタシたちを強引にその舞台世界へと引き込む。
続く河原での、佐藤と山田の会話がヒリヒリと痛い。
「う、ううん」「あ、ああ」~えっ?」…。
相槌のようなそうでないような、擬音を多用した会話から、相手との距離感に戸惑う二人の微妙な関係が、あまりに痛々しい…。
平田オリザ氏がロボット演劇で提示したような、会話と会話の間に舞うイマジネーションの宇宙が、ここでは生身の役者の“息づかい”によって拡がっていく。
そして最終場では、山田と既に結婚しているミキも交えたせつないシーンが続く。“病気”になった佐藤の常軌を逸した発言と行為に、会場からは笑いが絶えないのだが、いたたまれない山田とミキは嗚咽するのだ…。
「おまえは何者だ!?」と山田に詰問する佐藤もまた、自身の存在に揺れているのだ。そして、それはまたワタシたちに向けられた問いでもあるのだが…。
繰り返される“痛いセリフ”のなかに、友情と愛、才能と平凡、人間関係、社会性、自己実現…といくつものテーマが浮かび上がり、せつなさをまとったまま何を解決もみせずに、この青春物語はプツンと幕切れる。
やさぐれた狂気とセツナサと可笑しみ…これこれで「現代口語演劇」の一つの発展形なのだろう。実際に友人同士だという岩井氏と松井氏の、“役者として”のリアルな友人造形も見事(1月30日まで)。
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【映画】悪人 ― 2011/01/23
『悪人』(2010年・監督:李相日)
昨年の国内映画賞を総なめにし、すでにあまたの高評・評論が記されている本作に今さらレビュー参戦するのも何だが、末席ながらワタシなりの見方を書いておきたい。
最初に結論から言えば、終盤の主人公・祐一(妻夫木聡)の突然の“豹変”がなければ、本作の印象はかなり違ったものになったと思う。そのシーンに至るまでの本作は、力作ではあれど凡庸さを感じさせ、あれほどの評価を得る作品とは、ワタシには思えなかったからだ。
“解”のない神聖悲劇…。
原作を読んでいないワタシには、行き場所も戻る場所もなくなった「悪人」の“献身”によって、この物語は見事に“救われた”と感じた。
冒頭からこのダークな殺人・逃亡劇は、淡々と…いうよりもモッソリと始まる。出会い系サイトで知り合った裕一をソデにした佳乃(満島ひかり=好演)は、好意を寄せる若い学生(岡田将生)の車に乗り込んだものの、山中で放り出される。そして翌日、何者かに殺害された佳乃が発見される…。
とりたててスリリングでもミステリアスでもないこの物語の導入が、にわかに集中力をもち始めるのは、娘を失った悲しみとやるせなさを渾身の演技で表現する怪優・柄本明の存在感と、裕一の祖母である木樹希林の、その土地の空気と暮らしが沁みだすような快演によってだ。
裕一に自分と同質の閉塞感と絶望感を感じて“恋人”となり、共に逃亡・疲弊していく演技で深津絵里はモントリオール国際映画祭の主演女優賞に輝いたが、それなら柄本と木樹にこそ助演賞を獲らせたかった。
それほどこの二人の存在感は際立っている。
もちろん犯人は裕一であり、自分を見捨てた母(余貴美子)の替わりに自分を育ててくれた祖母と祖父に献身的に尽くしてきた彼が、なにゆえ“悪人”となったのか?、その次第がやがて明らかにされるのだが、本作のテーマは“悪とは何か”といった単純なものではなく、人が“生きていく”ということはどういうことなのか? という根源的な問いを突きつけているように思える。
娘を失った父と母(宮崎美子)は、悲しみと行き場のない怒りを背負ったまま、それでも生きていかなければならない。
“悪人”の献身によって、“国道沿いのだけ”の人生に戻っていった光代(深津)もまた、再び閉塞感のなかを生き続けるしかないのだ…。
そして、マスコミに追われる祖母(樹木)が家に戻ったとき、それまで無言を通した彼女が深々と頭を下げる。そこに“悪人”を育てあげた自負と責任、その罪を共に背負いながら生きていく覚悟を見る。
セリフの少ない裕一の存在は、まるでキリスト教でいう“原罪”であるかのように、この物語に位置する。逃亡の果てに清水と光代が身を寄せる「灯台」もまた、“光を照らすもの”として暗喩されている。
ちなみに裕一が生れた育った港町は、長崎県平戸市でロケされたようだ。“隠れキリシタンの里”として知られるこの地が舞台に選ばれことも、けっして偶然ではないような気がする。
◆『悪人』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「現代社会を鋭く反映した秀作」--映画.com(垣井道弘氏)
「誰が本当の“悪人”なのか?」--LOVE Cinemas 調布
「やるせない物語に一条の光」--映画ジャッジ(福本次郎氏)
「究極の愛の表現形式は…」--佐藤秀の徒然幻視録
「重層構造となった善意と悪意」--超映画批評(前田有一氏)
「よどんだ澱(おり)のような暗い感動が残る」--映画通信シネマッシモ(渡まち子氏)
「李相日監督の演出と編集テクニックにやられてしまった」--映画の感想文日記
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昨年の国内映画賞を総なめにし、すでにあまたの高評・評論が記されている本作に今さらレビュー参戦するのも何だが、末席ながらワタシなりの見方を書いておきたい。
最初に結論から言えば、終盤の主人公・祐一(妻夫木聡)の突然の“豹変”がなければ、本作の印象はかなり違ったものになったと思う。そのシーンに至るまでの本作は、力作ではあれど凡庸さを感じさせ、あれほどの評価を得る作品とは、ワタシには思えなかったからだ。
“解”のない神聖悲劇…。
原作を読んでいないワタシには、行き場所も戻る場所もなくなった「悪人」の“献身”によって、この物語は見事に“救われた”と感じた。
冒頭からこのダークな殺人・逃亡劇は、淡々と…いうよりもモッソリと始まる。出会い系サイトで知り合った裕一をソデにした佳乃(満島ひかり=好演)は、好意を寄せる若い学生(岡田将生)の車に乗り込んだものの、山中で放り出される。そして翌日、何者かに殺害された佳乃が発見される…。
とりたててスリリングでもミステリアスでもないこの物語の導入が、にわかに集中力をもち始めるのは、娘を失った悲しみとやるせなさを渾身の演技で表現する怪優・柄本明の存在感と、裕一の祖母である木樹希林の、その土地の空気と暮らしが沁みだすような快演によってだ。
裕一に自分と同質の閉塞感と絶望感を感じて“恋人”となり、共に逃亡・疲弊していく演技で深津絵里はモントリオール国際映画祭の主演女優賞に輝いたが、それなら柄本と木樹にこそ助演賞を獲らせたかった。
それほどこの二人の存在感は際立っている。
もちろん犯人は裕一であり、自分を見捨てた母(余貴美子)の替わりに自分を育ててくれた祖母と祖父に献身的に尽くしてきた彼が、なにゆえ“悪人”となったのか?、その次第がやがて明らかにされるのだが、本作のテーマは“悪とは何か”といった単純なものではなく、人が“生きていく”ということはどういうことなのか? という根源的な問いを突きつけているように思える。
娘を失った父と母(宮崎美子)は、悲しみと行き場のない怒りを背負ったまま、それでも生きていかなければならない。
“悪人”の献身によって、“国道沿いのだけ”の人生に戻っていった光代(深津)もまた、再び閉塞感のなかを生き続けるしかないのだ…。
そして、マスコミに追われる祖母(樹木)が家に戻ったとき、それまで無言を通した彼女が深々と頭を下げる。そこに“悪人”を育てあげた自負と責任、その罪を共に背負いながら生きていく覚悟を見る。
セリフの少ない裕一の存在は、まるでキリスト教でいう“原罪”であるかのように、この物語に位置する。逃亡の果てに清水と光代が身を寄せる「灯台」もまた、“光を照らすもの”として暗喩されている。
ちなみに裕一が生れた育った港町は、長崎県平戸市でロケされたようだ。“隠れキリシタンの里”として知られるこの地が舞台に選ばれことも、けっして偶然ではないような気がする。
◆『悪人』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「現代社会を鋭く反映した秀作」--映画.com(垣井道弘氏)
「誰が本当の“悪人”なのか?」--LOVE Cinemas 調布
「やるせない物語に一条の光」--映画ジャッジ(福本次郎氏)
「究極の愛の表現形式は…」--佐藤秀の徒然幻視録
「重層構造となった善意と悪意」--超映画批評(前田有一氏)
「よどんだ澱(おり)のような暗い感動が残る」--映画通信シネマッシモ(渡まち子氏)
「李相日監督の演出と編集テクニックにやられてしまった」--映画の感想文日記
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悪人 吉田 修一 朝日新聞社 2007-04-06 売り上げランキング : 65541 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
【アート】小谷元彦展『幽体の知覚』 ― 2011/01/24
六本木ヒルズは物見遊山で訪れたことはあるものの、じつは今まで森美術館に足を踏み入れたことがなく、機会があれば覗いてみたいと思っていた。
この度、「幽体の知覚」と題された現代美術家・小谷元彦氏の個展でそれが実現した(1月24日・森美術館)。
1972年生まれ、東京芸術大彫刻科出身で、ヴェネツィア・ビエンナーレをはじめ多くの国際展で活躍していたというこの若い作家については寡聞にして知らなかったが、そのダイナミズムに溢れた作風と、まさに世界を掴まんばかりの才能に圧倒された…。
展示は、レベッカ・ホルンを彷彿させるかのような、身体の“痛み”を感じさせる作品群から始まる。
“天使”のような少女の掌がザクロのように裂けて、血肉がにじむ「ファントム・リム」、“大リーグ養成ギプス”を思わせるような「フィンガーシュバンナー」、そしてオオカミの毛皮と頭部をまとい剥製人間と化した「ヒューマン・レッスン」は観る角度によって、怒りや哀しみといった多面な感情が表出される…。
最初の“圧巻”は、巨大なしゃれこうべがくし刺しにされたままグルグルと回転し続ける作品。ワタシたちの、表裏し連続する生と死を暗示させるかのようで、これも相当“痛い”といえる。
池田学氏の緻密画のような、溶解し骨化する生命体が垂れ下がるような作品もあれば、海を漂流するための巨大な木製スカートといった、やはり身体に帰着するユニークな作品が続くのだが、この個展が後世の“語り種”になるとすれば、それは体感する巨大アート「インフェルノ」の豪気と斬新性に他ならない。
滝の映像が流れ続ける、直径6メートルの8角柱の小部屋に入ると、そこは凄まじい映像と轟音の洪水にさらされる。天上と床は鏡ばりで、天空から降り注ぐ滝が足元の奈落の底へ吸い込まれる。その場に立つ自分が、滝とともに下降していくのか上昇しているか、無限空間に放り出されたかのような不安と解放感…。
まさに体感するアート。この特異な浮遊感を体験するだけでも、この個展に足を運ぶ価値がある。
朝日新聞編集委員の大西若人氏は「今どきの3D映画なんて、目じゃない」と評していたが、たしかに国立科学博物館の360度シアターをも凌駕する体感だった。
その後に続く、地獄から甦ったように皮をはがされ、ミイラのようになって武者と馬が疾走する作品などに気押されたまま、「ホロウ」と題された作品群が置かれた一室に足を踏み入れると、そこは個展のテーマたる巨大な「幽体」たちがたむろしていた…。
ユニコーンにまたがったジャンヌ・ダルク如き少女の真白き身体から、無数の霊気(?)がたなびく様(上記画像)は、王蟲(オーム)にかしずかれたナウシカか、はたまた『もののけ姫』のタタリ神か…。
まるで世界をむんずと掴みとるかのような、この作家の意志と迫力に満ちた作品群に酔うことができる。
さらに、太古の生物や深海魚、H.R.ギーガーによるエイリアンのイメージまでが混濁する作品群「ニューボーン」など、刺激的な作品が連らなる。
その量といい質といい、この作家の力量と才を十分に堪能できる個展。
◆小谷元彦展「幽体の知覚」の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「重力・時間の制約超える快感」--asahi.com(大西若人氏)
「特異な造形美が際立つ軌跡」--毎日jp(三田晴夫氏)
「科学で解明されない世界」--MSN産経ニュース(渋沢和彦氏)
「作品個々のディテールの美しさは圧倒的」--artscapeレビュー(木村覚氏)
「背筋がゾゾッとする彫刻。」--エキサイトイズム(上條桂子氏)
「手法は違っても、一貫したテーマ性」--あるYoginiの日常
「未来へ向けての足がかりとなる展覧会」--弐代目・青い日記帳
「洗練の極みに達した確かな技術を感じさせる作品」--ディックの本棚
「様々な手法によって、目に見えないものを可視化」--Art inn 展覧会レポート!
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この度、「幽体の知覚」と題された現代美術家・小谷元彦氏の個展でそれが実現した(1月24日・森美術館)。
1972年生まれ、東京芸術大彫刻科出身で、ヴェネツィア・ビエンナーレをはじめ多くの国際展で活躍していたというこの若い作家については寡聞にして知らなかったが、そのダイナミズムに溢れた作風と、まさに世界を掴まんばかりの才能に圧倒された…。
展示は、レベッカ・ホルンを彷彿させるかのような、身体の“痛み”を感じさせる作品群から始まる。
“天使”のような少女の掌がザクロのように裂けて、血肉がにじむ「ファントム・リム」、“大リーグ養成ギプス”を思わせるような「フィンガーシュバンナー」、そしてオオカミの毛皮と頭部をまとい剥製人間と化した「ヒューマン・レッスン」は観る角度によって、怒りや哀しみといった多面な感情が表出される…。
最初の“圧巻”は、巨大なしゃれこうべがくし刺しにされたままグルグルと回転し続ける作品。ワタシたちの、表裏し連続する生と死を暗示させるかのようで、これも相当“痛い”といえる。
池田学氏の緻密画のような、溶解し骨化する生命体が垂れ下がるような作品もあれば、海を漂流するための巨大な木製スカートといった、やはり身体に帰着するユニークな作品が続くのだが、この個展が後世の“語り種”になるとすれば、それは体感する巨大アート「インフェルノ」の豪気と斬新性に他ならない。
滝の映像が流れ続ける、直径6メートルの8角柱の小部屋に入ると、そこは凄まじい映像と轟音の洪水にさらされる。天上と床は鏡ばりで、天空から降り注ぐ滝が足元の奈落の底へ吸い込まれる。その場に立つ自分が、滝とともに下降していくのか上昇しているか、無限空間に放り出されたかのような不安と解放感…。
まさに体感するアート。この特異な浮遊感を体験するだけでも、この個展に足を運ぶ価値がある。
朝日新聞編集委員の大西若人氏は「今どきの3D映画なんて、目じゃない」と評していたが、たしかに国立科学博物館の360度シアターをも凌駕する体感だった。
その後に続く、地獄から甦ったように皮をはがされ、ミイラのようになって武者と馬が疾走する作品などに気押されたまま、「ホロウ」と題された作品群が置かれた一室に足を踏み入れると、そこは個展のテーマたる巨大な「幽体」たちがたむろしていた…。
ユニコーンにまたがったジャンヌ・ダルク如き少女の真白き身体から、無数の霊気(?)がたなびく様(上記画像)は、王蟲(オーム)にかしずかれたナウシカか、はたまた『もののけ姫』のタタリ神か…。
まるで世界をむんずと掴みとるかのような、この作家の意志と迫力に満ちた作品群に酔うことができる。
さらに、太古の生物や深海魚、H.R.ギーガーによるエイリアンのイメージまでが混濁する作品群「ニューボーン」など、刺激的な作品が連らなる。
その量といい質といい、この作家の力量と才を十分に堪能できる個展。
◆小谷元彦展「幽体の知覚」の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「重力・時間の制約超える快感」--asahi.com(大西若人氏)
「特異な造形美が際立つ軌跡」--毎日jp(三田晴夫氏)
「科学で解明されない世界」--MSN産経ニュース(渋沢和彦氏)
「作品個々のディテールの美しさは圧倒的」--artscapeレビュー(木村覚氏)
「背筋がゾゾッとする彫刻。」--エキサイトイズム(上條桂子氏)
「手法は違っても、一貫したテーマ性」--あるYoginiの日常
「未来へ向けての足がかりとなる展覧会」--弐代目・青い日記帳
「洗練の極みに達した確かな技術を感じさせる作品」--ディックの本棚
「様々な手法によって、目に見えないものを可視化」--Art inn 展覧会レポート!
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【本】電子書籍革命の真実 未来の本 本のミライ ― 2011/01/25
電子書籍革命の真実 未来の本 本のミライ (ビジネスファミ通) 西田 宗千佳 エンターブレイン 2010-12-20 売り上げランキング : 10615 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
ひと言でいえば、現在の電子書籍/出版の動きを、抱える問題点も含めてわかりやすく解説・俯瞰できる体裁となっており、お薦めできる一冊といえる。
導入となる第1章「『日の丸』電子書籍端末の船出」で、乱立する「端末」から現在に至る状況を概説し、2章「『プラットフォーム』に勝負をかけろ」で電子書籍“書店”という販売の問題に触れ、続く3章「電子書籍を隔てる『壁』の正体」として、やや専門的な“変換フォーマット”の問題にも言及する。
4章「ぼくらに何が起こったか」では、自著の電子書籍刊行をめぐる顛末を開陳し、この問題の複雑さを具体的にレポートする。そして、最終5章では「電子書籍が『変えるもの』とは何か」として副題にある「未来の本 本のミライ」を見通す。
なによりワタシが本書に“好感”を抱いてしまうのは、その「未来の本」にかねてよりワタシが夢想してきた「本のミライ」に重なる部分が散見できるからだ。
例えば西田氏は、「電子書籍は突き詰めればウェブのようなものだ。ある会社のウェブから、別の会社が運営するウェブへ飛んでいけるのと同じように、『本同士』で飛んでいってもいい」として、実際に電子書籍で刊行した自著と吉本佳生氏(作家・エコノミスト)の著作を「リンク」してしまったという。
ちなみに本書にも、「おまけ」が付されている。
「紙版(2010年12月)から1年の間は、本書付属のパスワードを利用し、同じ内容をPDF化したものが入手できる」ようにしているのだ。
この「パスワード」発行という発想は、本書でも再三触れている「DRM」や「1つのIDでマルチプラットフォームの利用」という電子書籍のクラウド化に繋がるものだ。
「本が好きな人には厳しい話だが、本を日常的に買って読む人は、もはやマジョリティーではない。本のカタチでは届かない人にも、ウェブという電子書籍のカタチでなら届き、新しい読者になってくれる。それが『今』電子書籍が持っている、1つの可能性なのだ」という現状認識にも肯首するし、担当編集者の「紙の本では、どこかルーチンワークになっていた部分があったかもしれません。まったく新しい『売るための仕掛け』を考えていける、という編集者としても面白いですよ」という言葉にも、ワタシは深く同意する…。
京極夏彦氏・宮部みゆき氏といった人気作家を擁する「大沢オフィス」を主宰し、自身も電子書籍の“新刊”を書き下ろす大沢在昌氏の、「今の出版界の『分業制度』を完全に維持して、流れ作業で大量の電子書籍を作っていく、という形は無駄でしょう。(紙の)文芸書が苦戦している理由は、本を作りすぎたことが原因です。売上の低下を発刊点数の増加でカバーしようとして、本の洪水が起きて、製作の現場も書店も疲弊してしまった。電子書籍でそれをやっても、なんにもならないですよ。(略)紙と同じことを続けるだけなら、出版界が終わる『審判の日』を先延ばしにするだけですよ」という発言にこそ、電子書籍出版社は真摯に耳を傾けるべきだろう。
そしてワタシも著者と同様に、「電子書籍は黒船なんかじゃなくて、『鉄砲伝来』だ。だったら武器として使ってやればいいじゃないか」という野間省伸講談社福社長が言ったとされる発言を、「とても面白いし、正しい見方」だと思うのだ。
◆『電子書籍革命の真実』の参考レビュー一覧(*タイトル文責は森口)
「電子出版を巡る状況を鮮やかに描き出した」--読書記録, et.al
「事実に基づいた説得力に満ちた筆致」--asahi.com
「ワタシの言いたいことを代わりに言ってくれた!」--勝間和代の「桃鉄」論
「電子書籍を巡る“スピード”の理由が本書を読むとわかる」--とーめいの問わず語り
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