【演劇】アンドロイド演劇『さようなら』2010/11/11

アンドロイド演劇『さようなら』
平田オリザ石黒浩研究室によるアンドロイド演劇『さようなら』の東京公演に足を運ぶ(11日・池袋あうるすぽっと)。

平田氏が取り組む「ロボット演劇」については、すでに『ロボット版・森の奥』が今年8月の「あいちトリエンナーレ」で世界初演されて演劇史にその名を刻み、さらにより人型に近いロボット(ジェノミノイドF)による『さようなら』が、9月にやはり愛知で初演されている。
今回、その『さようなら』が「フェスティバル・トーキョー」での緊急上演が決定し、東京での初公演となった。

で、会場に入ると薄暗いステージ上には、すでに“二体”が椅子に鎮座していた。女性人型ロボットのジェノミノイドFは、黒髪ながら顔だちは西洋人ぽく、質感も含めてたしかに人間そっくり(実際にモデルがいるらしい)。『森の奥』のwakamaruが、いわゆる「ロボット」だとすると、こちらもまさに「アンドロイド」(人造人間)。じつはそこが、本作のキモだ。

冒頭から、このアンドロイドが詩の朗読を始める。
谷川俊太郎の「さよなら」だ。

ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
どこへいくのかわからないけど…

すると、ロッキングチェアに深々と腰かけたもう“一体”が、こう尋ねる。
「それは、私の気持ち?」…。[セリフは正確ではないかもしれない]
そう、こちらは本物の人間。金髪の白人女性が演じているが、じつは開演まで微動だにしなかったので、ワタシは彼女がセリフを発するまで、どちらがヒトで、どちらがロボットか区別がつかなかった…。

それも平田氏のひとつの“狙い”だと思うが、舞台(セリフ)はさらに展開し、アンドロイドは彼女にために父親が買い与えたものであることが明らかにされ、さらに彼女が死期迫る病気があることが説明される。
もちろん、この場に“父”は登場しないのだが、ワタシたちはこの登場しない父と娘、家族の関係についても思い馳せることになる。

そして、アンドロイドがさらに彼女の“思いを汲んだ”詩を日本語で語る。その詩を人間の演技者が、たどたどしい日本語と、流暢なフランス語、ドイツ語で諳じてみせる…というじつに象徴的な“対比”がそこに描かれる。

…というように、わずか20分(実際にはもっと短く感じた)のこの劇に、平田氏はさまざまな“仕掛け”を凝らす。
例えば、詩人の名を尋ねられたロボットなら、ストレートにこう答えるのではないか?
「若山牧水です」と。
ところが、アンドロイドはこう応える。
「牧水、若山牧水です」
この返答(会話)にこそ、人間以上に“人間的”なアンドロイドの存在が、くっきりと浮かび上がる。

『S高原から』のラストを彷彿させるように、彼女(ヒト)が“眠り”についた後、アンドロイドは一人、詩の朗読を再び始める。

わたしはよっちゃんよりもとおくへきたとおもう
ただしくんよりもとおくへきたとおもう…
(谷川俊太郎「とおく」)

もはやその詩が彼女(ヒト)のために詠まれたものなのか、アンドロイド自身の“気持ち”のためのものなのか、ワタシたちはもう判ずることはできない…。
そう、ここで語られるているのは“ヒトとは何か”だ。

アンドロイドという合わせ鏡を配置して、私たちとは何か、ヒトとは何かを探る試み。それは平田氏が、いやワタシたちヒトが一貫して、費やしてきた深淵なる旅なのだ。
そうした意味で、ワタシには本作がじつに平田氏らしい作品に思えた。

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